0122
確かにこの特別室には、わざわざ外の浴場へ足を運ばずとも堪能出来る専用の温泉がある。けれどもしもそんな時に⋯フィデスやゼフィラが戻ってきたら?という純情な少年ならではの危惧がある。
「いや、だって!この部屋の温泉じゃ、マズいだろ⋯!」
「何がだ?」
「だって温泉って事は、脱ぐじゃん!」
「当然⋯だろう。人間はな」
何故そこで、一瞬だけ間があったのか。その理由を問うよりも先に、ルティウスは主張を続行する。
「そんな時に、彼女達が帰ってきちゃったら⋯」
「フィデスを気にする必要は無い。あれも竜だ。外見など当てにならん」
「ゼフィラもいるじゃん!」
どこかすれ違い気味の応酬を続けていたが、レヴィの返答がぴたりと止まる。何かを考えているのだろうが、顔色一つ変えないレヴィの思考は読みにくい。
「⋯⋯⋯あぁ、そういう事か」
「⋯⋯え?」
何かに納得したような一言は、ルティウスの表情を凍りつかせる。
直後、レヴィの大きな手がルティウスの腕を掴んだ。咄嗟に振り解こうとしてみても、何故かビクともしない。
静かに椅子から立ち上がり、視線の位置が逆転する。いつもなら安心を与えてくれる眼差しは冷たく、ルティウスの心に僅かな恐怖の感情を植え付けていた。
その視線には覚えがある。じろりと睨むような、それでいて熱を帯びた瞳。初めて一緒の部屋で眠ったあの時にも、彼は今と同じ目をしていた。
「レヴィ⋯離せ!」
沸き起こる恐怖から、無意識に逃げ出そうと試みる。だがレヴィはじっと見下ろしてくるだけ。少しだけ笑みを浮かべてはいるが、逆にそれがルティウスを恐れさせた。
けれどその恐怖すらも、酔ったレヴィの『悪戯心』の産物であるとすぐに知る事となる。
「…ふっ」
「………え?」
あの時と同じように、レヴィは軽く吹き出した。
「やはり、お前の反応は可愛らしいな」
「⋯⋯⋯レヴィ~!」
堪えるように笑うレヴィは、とても楽しそうだった。
また遊ばれた⋯そうして不貞腐れるルティウスは、今度こそ渾身の力で掴まれた腕を振り解き、背を向ける。
「もういい!俺、温泉行ってくる!」
「待て」
「待たない!あんたの傍にいたらずっとこんなんばっかりだろ!」
「温泉ならそこにあるだろう」
レヴィが指し示すのは、部屋の大きな窓から見えるバルコニー。そこから繋がる、専用の露天風呂だ。
「だからっ!彼女達が戻ってきたらどうすんだよ!」
「食い止めておいてやるさ」
言いながら再び椅子に座り、残っている酒をグラスに注ぐ。今度はもう飲み比べでもないからか、ゆっくりと口を付けていく。
その姿を見たルティウスは、叔父と仲良くなるわけだ⋯と、納得してしまう。
思い出したようにリーベルを見ると、彼は床に転がったまま熟睡している。放っておいては可哀想なので、後でレヴィに運んでもらおうと心に決めていた。
「⋯本当に、止めてくれるんだよな?」
「ああ。心配するな」
自信たっぷりに言い切るが、不安は尽きない。普段の素面ならばともかく、今のレヴィは酔っている。竜がどれだけ酒への耐性が強いかは知らないが、何故か信用出来ない。
「やっぱり⋯外の温泉に⋯」
「駄目だ」
薄らと笑いながらもレヴィは、言い終える前に却下してしまう。諦めの溜め息を吐いてから、ルティウスは客室露天の温泉を楽しむべく気持ちを切り替える。
窓を開けてバルコニーに出ると、冷たい風が吹いていた。夜になってさらに気温が下がったのだろう、昼間よりも随分と寒く感じた。
「おっ、アレかな?」
特別室の専用と謳われているが、その温泉もまた部屋からは僅かに離れていた。バルコニーから続く細い階段を下った場所で、隠されるように湯気を立ち登らせている。
この位置ならば、部屋からは死角となる。彼女達が戻ってきても、突然鉢合わせるような心配は無用に思えた。
すぐ脇にある小さな脱衣場。そこで服を脱ぎ、ほんの僅かな道程でも冷えてしまった身体を暖めるように、乳白色の源泉が流れ込み続けている熱い温泉へとその身を沈めていく。
「いいなぁ~、こういう静かなの⋯」
星空の下、聞こえるのは山麓に吹く風の音ばかり。どうやらかなり長い時間眠っていたようで、既に深夜に差しかかろうとしている時刻。空を見上げれば、白い月は間もなく頂上へ登り切ろうとしていた。
最初こそ動揺したが、普通に過ごしていれば何て事のない豪華な客室だ。この静寂と温泉を独占出来るのも、ゼフィラが選んでくれたおかげ。
感謝の気持ちを抱きつつもゼフィラの存在を思い浮かべて、ルティウスは僅かに頬を染める。
「…叔父様とフィデスは、何だって俺とゼフィラを……」
色恋に疎く鈍感なルティウスでも、あれだけ露骨に促されれば朧げであっても察する。王族同士の若い二人を近付けさせようとしている事は分かっても、今のルティウスにそれを受容する余裕はない。
「まだ……何も成し遂げていないんだから……」
熱い湯に深く身体を沈めながら、ぽつりと本音を零す。誰も聞いていないからこそ呟いたその一言を、拾う者が居るとは思っていなかったから。




