0116
時を同じくして、ヴェネトス郊外の邸宅。
公国の首都から離れた、閑静な農村。その奥に佇む大きな領主の館。
この一室に、帝国から落ち延びた第一皇子サルースが身を隠していた。
けれど隠しているのは身分そのものだけであり、今は領主の跡継ぎのように振舞っている。
村に住む民は穏やかで、サルースを快く受け入れた。彼の身元や素性を知らずとも、誰に対しても態度を変える事なく公平に声を聞き、願いに応えようとする姿は民からの信頼に繋がった。
そうして束の間の居場所を確保したサルースだが、それを影で支えたのは紛れもない、婚約者である第二公女セレーナ。
愛する婚約者からの助力と応援を受けたサルースは、気持ちだけは無敵だと自負している。
「あぁぁあ⋯大丈夫かな、ルティウスぅ⋯⋯」
「サルース様、落ち着いて下さいな」
そんな無敵を自負する第一皇子も、弟を想い『皇子』や『為政者』としての仮面を外してしまえば、無様なほどに狼狽えるただの弟バカな兄でしかない。
部屋の中を縦横無尽にうろうろと歩き回りながら、弟への心配を爆発させている。
「⋯あの子は世間知らずなままなんだよ。確かに剣も魔法も才能はあるだろうけどさ!それ以前にあの子は皇都からほとんど出た事も無いんだぞ?心配するなと言うのが無理なんだよ⋯」
「⋯えっと、サルース様⋯どうか落ち着い⋯⋯⋯」
「ちゃんと食べているだろうか?寒がりなあの子にこちらの大陸の風は堪えるだろう。ちゃんと暖かいベッドで寝られているだろうか?あの甘えん坊なルティウスをちゃんと甘やかしてくれる人が傍に⋯いいやそれは駄目だ。僕のルティウスが誰かに甘えるなんてそんな⋯⋯」
「サルースッ!」
早口で心配の言葉を連ね続けていたサルースを一喝する、公女の透き通る声。それは弟を思うが故に臆病な気性を露わにしてしまうサルースを、正気に戻すだけの力を持っている。
ビクリと身体を跳ねさせて立ち止まるサルースは、声の主へと恐る恐る振り返る。部屋の中央に設置された大きなソファに座ったままのセレーナは、けれど優しくサルースを見上げている。
「どうか落ち着いて下さいな。ゼフィラちゃんが付いているのですよ?」
風の国の公女。その真髄は、風の魔力による音なき共鳴が齎す『情報伝達』の速さ。ゼフィラやセレーナが声を出さずとも、ほんの僅かな風に意思を載せれば届け合えるというもの。
武の才は妹が、魔の才は姉が継承した公女姉妹は、そうして密かに連絡を取り合っている。
「⋯アムニシアに、無事に到着したそうですわ」
「おお⋯!あそこか!あぁ思い出すな⋯君とこっそりあの街へ行った時の事を⋯」
「思い出話は後になさいましょう、サルース様」
冷静に婚約者を制するセレーナは、それでも尚、穏やかに微笑んでいる。
彼の暴走など日常茶飯事であり、慣れたものである。そう言わんばかりの包容力を見せる公女は、完璧ではない皇子だからこそサルースを愛した。
少しだけ落ち着きを取り戻したものの、やはりまだ不安の尽きないサルース。愛しい婚約者の元へ歩み寄ると、床へと腰を下ろしていく。そのままソファに座る伴侶の膝へ凭れ掛かり、甘えるように頬を擦り寄せた。
「セレーナ、僕は⋯心配なんだよ⋯」
「存じておりますとも」
セレーナもまた、己の膝の上で甘える皇子を宥めるように、淡い空色の髪を撫でた。
「アール様から『あの話』を聞かされた時、本当に⋯運命を呪いたくなったんだ⋯」
「そうですね⋯⋯まだお若いルティウス君には、辛いでしょうね」
サルースもセレーナも、今は風の竜神の庇護下にある。身分を偽りはしているものの、こうして公国の領地で過ごせているのも、公女達の計らいにより竜神の庇護を受けられたからだ。
そんな竜神の口から語られたのは、ルティウスにまつわる悲劇の話。
神はあえて隠さずに、弟を案ずる兄へと真実を教えた。それによって悲しむサルースを、セレーナは慰め支え続けている。
「せめて今は⋯あの子が笑っていられれば良いのだけど⋯」
それは兄として心からの、ささやかな願い。
けれど彼の願いは、僅かな歯車のズレによって砕かれる寸前だった。
ゼフィラと密かに通じているセレーナは、当然知っている。ほんの少し前まで、既に義弟と認識しているルティウスが死の淵にあった事を。
心を酷く痛め、悲しみに暮れた。同時に、奇跡を強く願った。
けれどサルースには、遠い地で起きた出来事の一切伝えていない。過保護で心配性なサルースが知れば、それこそ発狂して飛び出していたかもしれないから。
そんな時ふと、セレーナは思い出す。
ゼフィラからの連絡が⋯時折、支離滅裂だった事を。
常に冷静な妹だからこそ義弟を託した。そんなセレーナでさえも、風が届いた時には首を傾げた。けれど理解に至った瞬間は、サルースからのプロポーズを受けた時と同様に興奮を覚えたものだ。
兄であるサルースに伝えるかどうかを、セレーナはずっと思案している。
彼の弟はもう、幼いだけの少年ではないのだと。
着実に、大人の階段を登り始めているのだと。
「⋯どうしたんだい、セレーナ?」
甘えモードであっても、彼の勘の鋭さは衰えたりしない。セレーナの膝の上に頬擦りしながらも、微細な様子の変化に気付いてゆっくりと見上げる。
「ゼフィラちゃんからの連絡で⋯ひとつ、お伝えしてない事があるのです」
本当は一つや二つではないが、愛するサルースの精神を守る為ならば嘘も囁こう。それが、セレーナの根幹。
「え、ルティウスの事かい?」
即座に食い付いたサルースは、甘えモードを終了させてセレーナの隣に座る。正面から真剣に見つめるサルースの蒼い瞳は、既に弟を本気で案じるものに変わっていた。
けれどセレーナが言い淀んでいるのは、それほど深刻な話でもない。当の本人であるルティウスにとっては一大事だったようだが…。
「あの子…知ってしまったようですよ」
「……え、一体何を…?」
アールから聞かされた真実を知るサルースは、表情を強張らせて身構えている。大切な弟が何を知ってしまったのか…そうした懸念が、全くの無駄だったと知るのは、この直後の事。
「えっとですね………唇の感触、を…」
「………………え?」
ゼフィラも目撃したわけではなかったようだが、風に乗って伝えられた短い声を拾い集めてみると、その結論に至ってしまう。
ほんのり照れ臭そうに伝えるセレーナの眼前では、完全に凍り付いたサルースの間の抜けた表情がある。そうした姿も愛らしく思えるが、ひとまずは正気に戻させようと思い至った。
けれどセレーナが行動するよりも先に我に返ったサルースは、優しげな蒼い瞳に底知れない憤怒を滲ませていた。
「⋯誰だい?ルティウスに不埒な真似をしてくれたのは⋯」
何よりも大切な弟の純情を汚した存在がいる⋯その事実は、サルースの知将たる頭脳を全開にさせる燃料にもなっていた。
弟の健やかな成長を喜ぶかと期待もしたが、結果はセレーナが予想した通り。
「ちなみに、ゼフィラちゃんも片思いしてるみたいですよ?」
「何だとぅ!」
この日からサルースの依頼により、風の公女達による連携が加速し、ルティウスの言動、そして無垢な少年を取り巻く状況は、兄としての嫉妬と憤怒と狂気に染まったサルースを鎮めるべく逐一伝達される事となった。




