0104
そこはとても静かで、冷えた空気に包まれた場所。
大陸の中央部に存在する最高峰、アムニス山。その山頂付近に、かつてレヴィは聖域を建造した。魔力による物質創造と厳重な結界構築、そして水竜の本領を発揮し多量の水が湧き出る地へと変えた。
あの時は、ただアールの頼みを聞いただけだった。それが千年経っても残り、今こうしてこの地に満ちる力を必要とするなど、想像すらしていなかった。
聖域に広がる光景は、ルティウスと初めて出会った地底の泉に似ている。元より特別な思い入れのある場所と似た風景を造り出したのは、レヴィにとっては無意識だったけれど。
感傷に浸る猶予は無い。それが分かっているからこそ、レヴィはルティウスを抱えたまま、奥にある水源へと向かう。
記憶の中にある光景のまま変わらないそこは、千年前と変わらず静かな泉が広がっている。アールによって秘匿され、人間に踏み荒らされる事も無かった泉の畔へ、ルティウスの身体をそっと横たえた。
「⋯っ、ぅ⋯⋯」
意識は戻っていない。だがルティウスは時折、苦痛に苛まれるように小さな呻き声を発していた。
まだ、彼の命は抗っている。
死の淵にありながらも、まだ諦めていない。
その姿は、レヴィの心に生じた諦念も絶望も、全てを押し流していた。
純度の高い魔力を帯びた泉は、かの地底湖同様に淡い光を放っている。淀みに侵食されたルティウスの魔力を浄化するには、体内に巣食う種子から伸びた根を消し去る必要があった。
魔力を寄り集めて、その手に氷のグラスを具現化させた。輝く泉の水をグラスで掬ってから、ルティウスの上半身を抱き起こす。そのまま口元へと運ぶが、聖なる水は虚しく顎を伝い、襟元を濡らすばかり。
「⋯⋯ッ」
角度を変えて、幾度も試した。だが苦しむ少年の口は緩く開かれているものの、雫が体内へ届く事は叶わない。
一体どうすれば⋯じわじわと焦りが生じるレヴィの腕の中で、ついにその瞬間が訪れる。
「⋯っ、う⋯ぁ⋯⋯ぁぁ!」
「ルティ⋯!」
胸元を掻き毟るように押さえながら、ルティウスの身体が激しく暴れ始める。動揺するレヴィの腕から零れ落ちるように、泉へ向かって倒れていった。
あの地底湖のように深くはない。沈む事もなく飛沫を跳ねさせながら倒れたルティウスには、あの花が撒き散らしていたものと同じ、黒い淀みの魔力が纒わり付いている。
全身に広がる茨の刻印は、苦痛から胸を掻き毟るように服を握り締める指先にまで、忌まわしいその根を伸ばしていた。
もう、刹那の躊躇さえ許されない。そう確信したレヴィの心は、ただ一つの想いに染まる。
彼の尊厳を犯す真似は、したくなかった。
けれどもう、他に手段はない。
苦痛に呻き暴れるルティウスを見下ろして、レヴィはグラスに残っていた泉の水を自身の口に含んだ。
そのまま浅い水面で藻掻き苦しむ少年の元へと、グラスを投げ捨てながら近付いていく。地面に叩き付けられて砕け散った氷のグラスはたちまち霧散し、魔力へと還っていった。
細い腕を掴み、容赦のない力で引き寄せる。押さえ込むように両腕で抱き締め動きを封じてから、ルティウスの唇へ己のそれを重ねた。
もしもルティがこの事を覚えていたら、おそらく顔を真っ赤にして怒るのだろう。なんて事してくれてんだ、と。
そうして怒りながら、大して強くもない力で、また私の事を殴ればいい。
馬鹿だの変態だのと、好きなように罵ればいい。
好きなように、私を怒ればいい。
だから⋯⋯
──⋯負けるな──
ガタガタと震える身体をさらに強く抱き締め、僅かな弛緩の隙を突いて口をこじ開けた。ようやく開かれた機を逃す事なく、即座に口腔へ含んでいた水を流し込む。今度こそ零れ落ちる事もなく、雫は細い首を通り抜けてくれた。
水の通る瞬間に喉が鳴り、嚥下が叶ったと知る。飲み込んでくれた事に安堵しながら、ゆっくりと唇を離した。
直前まで暴れていた身体は次第に落ち着きを取り戻し、同時に全身を這う黒い茨が肌から剥がれ落ちていく。灰となった花と同じように、崩れ落ちた根は塵となって消えていった。
「⋯ルティ⋯⋯!」
まだ目を覚ます気配は無い。身体から感じる魔力も弱々しく、本当にギリギリだったのだとレヴィも悟る。
しかし鼓動は続いてる。まだ荒いが、呼吸もある。ただそれだけの事が、レヴィの心に実感として成功を報せていた。
ルティウスは負けなかった。どれほどの苦痛に耐え続けたのか、それは神であっても想像に易くない。
「本当に⋯⋯⋯良かった⋯⋯⋯⋯」
震える声で、安堵の声を漏らす。
今一度腕の中のルティウスを強く、だが今度は優しく抱きしめて、喪わずに済んだ現実を噛み締めていた。




