『醜男王子と美女令嬢――おかわり』
あらすじ(前の話)
幼い頃から「汗っかき」「不細工」「デブ」と陰で笑われてきた王子。舞踏会でも失敗を重ねて嘲笑を浴びるが、そこで出会った侯爵令嬢のユーモアと笑顔に心を射抜かれる。やがて彼女と婚約に至り、夢のような日々を過ごす……はずだった。
しかし、侯爵令嬢の「いじり」は次第に辛辣さを増し、やがて「王妃の座さえ得られれば顔などどうでもよろしいのですわ」と言い放つ。真実の愛を信じていた王子の心は打ち砕かれるが、その場で勇気を振り絞り、結婚式当日に婚約破棄を宣言。
「俺は醜男かもしれぬが、心までは醜くない!」
王子の叫びは参列者の心を打ち、多くの拍手を浴びる。孤独の中で寄り添ってくれた唯一の存在、猫のニャーゴとともに、王子は新しい未来へと歩み出す決意を固めたのだった。
その瞬間、俺は歓声と祝福の渦に包まれるはずだと信じていた。だが、産婆が布に包んで差し出したものを見たとき、空気は一変した。赤子ではなく、小さな子猫だったのだ。しかも一匹ではない。白、黒、茶、三毛、灰色……次々に生まれてきて、あっという間に五匹が並んでしまった。
「にゃあああああ!」
そろって鳴いた声が部屋に響いたとき、侍従も女官も口をあんぐり開け、産婆は布を取り落としそうになっていた。学者は顔をしかめ、ぶつぶつと呟く。
「こ、これは……想定外……完全に前例のない事態でございますぞ……」
だが、俺の胸にあふれたのは喜びだった。迷うことなど一瞬もない。
「かわいい! 我が子だ! 世界で一番愛おしい子どもたちだ!」
思わず声が弾み、五匹を両腕に抱き寄せる。柔らかい毛並みが頬に触れ、ひげがちくちく当たる。小さなしっぽが鼻をくすぐるたびに笑みが込み上げる。猫たちは安心したように俺の胸に顔を埋め、ころころと喉を鳴らした。
振り返ると、ベッドの上の妻が申し訳なさそうに耳を伏せていた。金色の髪の間から残る猫耳がぴくりと動き、腰からは白いしっぽが心細げに揺れている。
「王子さま……ごめんなさい。やはり、呪いが……」
「何を言うんだ!」
俺は即座に首を振った。
「耳も尻尾も、君の魅力の一部だ。俺にとっては最高に可愛い!」
妻の頬が赤く染まり、耳が恥ずかしそうにぺたりと伏せられる。その姿にまた胸が熱くなる。だが、そこに水を差すように学者が一歩前に出た。
「王子さま……そのお気持ちは尊いのですが……王国の世継ぎとしては、このままでは……」
部屋の空気が重く沈む。侍従も女官も言葉を失い、互いに顔を見合わせている。俺は子猫たちをぎゅっと抱き締め、学者をまっすぐ睨んだ。
「俺にとっては、どんな姿であろうと妻と子は宝だ! だが……学者よ、その“呪いが解けていない”というのはどういう意味だ?」
学者は長いひげを撫で、重い息を吐いた。
「これは……王妃さまの身にかけられた呪いが、まだ完全には解かれていない証拠でございます。耳と尻尾が残り、子にまで影響を及ぼしている……」
腕の中で五匹がもぞもぞと動く。ふわふわの温もりが心臓に伝わってくる。俺はその愛らしい重みに答えるように腕に力を込めた。
――どんな姿だろうと、この子らは俺の宝。必ず守ってみせる。
■
大広間は白百合の香りに包まれていた。けれど祝福のはずの香りは、今は不安の幕でかき消されているように思えた。中央の籠では、五匹の子猫が寄り添い合って眠っている。毛並みは光を受けて艶やかに輝き、まるで宝石のようだった。
俺は籠のそばに座り込み、子猫の背を一匹ずつ撫でていく。小さな体がくすぐったそうに身じろぎし、肉球で俺の指を掴もうとする。その無垢な温もりに、胸の奥がじんわりと満たされていった。
「……愛おしい。我が子に違いない」
思わず声に出してしまう。涙がにじみそうになったそのとき、背後から学者の重苦しい声が安堵を切り裂いた。
「王子さま」
俺は振り返った。学者は白い長髭を撫でながら、沈痛な表情で俺を見つめている。
「これは……まだ呪いが完全に解けていない証拠でございます。このままでは……王国に災いをもたらす火種となりましょう」
「災い……?」
低く響いた俺の声に、大広間の空気がぴんと張り詰めた。学者は一歩前に進み、杖をつきながら続ける。
「民は王家に世継ぎを望んでおります。ですが、子が猫のままでは、陰口や不安は必ず広がりましょう。やがて王家への不信、ひいては国そのものの秩序を揺るがす可能性も……」
「そんなこと……!」
言葉が喉で詰まった。そのとき、侍従の一人が恐る恐る声を挟む。
「王子さま。どうかお気を悪くなさらぬよう……ですが、猫の子を“世継ぎ”と認めるわけには……」
「黙れ!」
怒声が大広間に響き渡った。籠の中の子猫たちが驚いて小さく鳴き、金色の瞳で俺を見上げる。その視線に胸が痛み、慌てて抱き上げて優しく揺らした。
「すまない、怖がらせたな……」
子猫は小さく喉を鳴らし、俺の胸に顔をうずめてくる。小さな鼓動が確かに伝わってきた。
「……この子らを“災い”と呼ぶのか」
絞り出した声は、誰よりも自分自身を責める響きを帯びていた。学者は目を伏せ、重い声で続ける。
「だからこそ、王子さま。あなたしか頼れぬのです。古の伝承によれば、呪いをかけた魔女に会えるのは“王家の血を継ぐ者”ただ一人。王子さま以外は、その森に入れば命を落とすとされております」
「……俺だけ……」
抱いた子猫を見下ろす。無垢な瞳がまっすぐに俺を映していた。背後では妻が小さく「ごめんなさい……」と呟く。猫耳がしゅんと伏せられ、白い尻尾が心細げに揺れている。
心が揺れた。愛する妻と、愛しい五匹の我が子。その未来を守れるのは俺しかいない。
深く息を吸い込み、立ち上がる。額から汗が流れ落ちるのも拭わず、まっすぐに学者を見据えた。
「分かった。ならば俺が行こう。どれほど危険であろうとも……必ず妻と子を救ってみせる!」
声は揺るぎなく広間に響き渡った。蝋燭の炎が一斉に揺れ、まるで俺の決意を祝福するかのように輝いていた。
■
重い心を抱えながら、俺は深い森の小道に足を踏み入れた。昼間だというのに、頭上は鬱蒼とした木々で覆われ、光はわずかにしか差し込まない。鳥の声も途絶え、聞こえるのは風に擦れる葉の音と、自分の靴が湿った土を踏みしめる鈍い音だけだった。鼻腔をかすめるのは、湿気と薬草が混じった甘苦い匂い。胸の奥が妙にざわつく。
「ここに……魔女がいるのか……」
自分を奮い立たせるように小さく呟き、歩みを進めた。だが、ほどなくして額から汗が滝のように流れ出す。普段は王城の廊下をゆっくり歩く程度で、まともな運動などしていない。こんな山道を歩くのは生まれて初めてだった。
「はぁっ……はぁっ……! な、なんという森だ……体が……重い……!」
必死に足を運んでも視界は揺れ、心臓は胸を突き破らんばかりに暴れる。髪は汗で額に張り付き、マントはしっとり湿って重く肩にのしかかる。靴の中もぐっしょりで、歩くたびに「ぐちゅり」と不快な音がした。
「こ、こんなことなら……学者め……もっと早く運動を勧めておれば……!」
愚痴をこぼしたそのとき、茂みががさりと揺れた。思わずびくりと肩をすくめ、剣の柄に手を伸ばす。
「ひっ……な、なんだ!?」
現れたのは一匹の黒猫だった。しなやかな体に漆黒の毛並み、そして月明かりのように輝く金色の瞳。猫は真っ直ぐに俺を見つめ、次の瞬間、足元にすり寄って小さく「にゃ」と鳴いた。
「ね、猫……? いや、ただの猫ではあるまいな……」
黒猫はしっぽを高々と立て、そのままスタスタと森の奥へ歩き出した。振り返って「にゃ」と鳴く。その仕草はどう見ても「ついて来い」と告げていた。
ごくりと喉を鳴らす。心臓の鼓動がさらに速くなる。怖さと不安、そしてわずかな期待が入り混じり、足は自然と黒猫の後を追っていた。
「……案内をしてくれるのか?」
返事をするように「にゃ」と鳴く。俺はその小さな背中に頼るしかなかった。汗で視界が滲み、マントは重みで肩からずり落ちそうになる。息は切れ切れで頭はくらくら。それでも足を止めるわけにはいかない。
「ぜぇ……はぁ……! ま、待ってくれ……! 我が……体力よ……なぜ今に限って……!」
俺の必死の訴えなど無視して、黒猫は迷いなく進み続ける。俺は木の根に足を取られて「うわあっ!」と転びそうになり、蜘蛛の巣を顔にかぶって「ぎゃあ!」と声を上げる。そのたびに黒猫がちらりと振り返り、冷めた目を向けてくるのが妙に腹立たしかった。
ようやく辿り着いたのは、森の奥にぽっかりと口を開けた巨大な樹洞だった。中からは柔らかな灯りが漏れ、煮込み料理の匂いが漂ってくる。
「はぁ……はぁ……! い……命が……けずられた……!」
膝に手をつき、肩で息をしながら呟いた。額の汗は川のように流れ、衣服はまるで池に落ちたかのようにずぶ濡れ。フラフラしながらも、灯りに導かれるように俺は一歩を踏み出した。
意を決して俺は巨大な樹洞の中へ足を踏み入れた。中はひんやりとして、外の蒸し暑さが嘘のようだった。だが目に入った光景は、俺の想像していた「恐ろしい魔女の住処」とはまるで違っていた。
本の山が床に積み上げられ、ところどころ崩れて紙が散乱している。粗末な机の上には空になった瓶や乾いたハーブの束、使いかけのロウソク。長椅子には一人の女がだらしなく寝転がっていた。髪はぼさぼさで、紫色のローブはシワだらけ。しかも裾には猫の毛がびっしり付いている。手には欠けたマグカップを握り、そこから漂う匂いは……どうやらスープというより、昨日の残り汁のようだった。
女は俺に気づくと、片手で髪をかき上げ、けだるそうに口を開いた。
「……ああ、来たのね。噂の“猫耳王妃”の旦那様」
俺は思わず一歩踏み出し、声を張り上げた。
「そなたが魔女か!」
女はあくびを噛み殺し、肩をすくめた。
「まあね。正確には“二代目”だけど。初代は百年前に死んじゃったから、呪いの詳細なんて知らないわよ」
「なっ……!」
俺は額の汗をぬぐい、声を荒げた。
「どうにかならぬのか! 我が妻と子らのためだ!」
女は欠伸混じりにマグカップを傾け、半分も聞いていないような顔をしていた。俺が必死で叫んでいるのに、その態度はひどく気だるげだ。
「んー……」
わざとらしく考えるふりをしてから、彼女は肩を回し、面倒くさそうに言った。
「ワンチャンあるとすれば……“高貴なイケメンのキス”かもね」
「な、なにっ!?」
俺の声が裏返った。衝撃で一瞬心臓が止まりそうになる。汗がまたぶわっと噴き出し、耳まで真っ赤に熱くなるのを感じた。
「い、イケメンだと!? なぜそこで顔が基準になる!」
魔女はくすりと笑い、欠けたマグカップを机に置いた。その笑みはどこか意地悪そうで、しかし本気とも冗談ともつかない。
「信じるか信じないかは……あなた次第」
俺はその言葉にがくりと膝をつきそうになった。ここまで命がけで森を進んできて、たどり着いた答えがこれか……! 額の汗がぽたぽたと床に落ち、俺は自分の運命を呪うしかなかった。
■
魔女の住処を後にした俺は、森を抜け、汗だくのまま城に戻ってきた。足は棒のようで、息は上がりっぱなし。それでも胸の奥には、不思議な熱が燃えていた。
「……イケメンのキスで呪いが解ける、だと……」
魔女のあのけだるげな声が耳にこびりついて離れない。冗談とも本気ともつかぬその言葉に、俺は全身の血が逆流するような気がした。笑い飛ばすこともできたはずだ。だが、あのとき胸に宿った感情は確かに“怒り”でも“恥”でもなかった。
「……なら、俺がイケメンになってやる!」
自室の鏡に映るのは、丸顔に滴る汗、ふくよかな頬、情けない腹。だがその姿に拳を握りしめ、歯を食いしばった。王妃も子らも、そしてこの国も守るために。俺は変わらねばならないのだ。
「耳も尻尾も、あの子らの姿も、全部宝だ。だが……俺は夫として、父として、もっと胸を張れる自分でいたい!」
廊下を歩く侍従や女官が、息巻く俺を見て目を丸くした。普段なら赤面して引きこもるところだが、今日は違った。俺は堂々と声を張り上げた。
「聞け! 今日から俺はダイエットを始める! イケメソになってやるのだ!」
王妃の部屋から、驚いたように扉が開いた。彼女は猫耳をぴんと立て、しゅるりと尻尾を揺らして俺を見つめていた。その瞳に映る自分の姿が、今は恥ずかしくも誇らしい。
「お、おお……王子さまが……やる気に……」
侍従のつぶやきに、俺は力強く頷いた。胸を張り、汗を拭いもせずに叫ぶ。
「見ていろ! この王子、必ず結果にコミットしてみせる!」
こうして俺の、地獄のようなナイトザップ・ダイエットの日々が幕を開けたのだった。
広場に連れて来られた瞬間、俺は息を呑んだ。そこには鎧や盾が山のように積まれ、槍や剣まで整然と並べられている。まるでこれから戦にでも出る準備の場――いや、訓練場のはずなのに、どこかおかしい。場の空気は妙に熱気を帯び、すでに俺の胸の奥に不安が広がっていた。
その時だった。
「結果にコミットするぞぉぉぉ!」
空を裂くような声が響き、雷光が閃いた。バチィィッ! 雷の鞭が宙を切り裂き、火花が散る。俺は思わず尻もちをつきそうになり、膝ががくがく震えた。
「な、なんだこの男は……!?」
現れたのは、筋肉で服がはち切れそうな巨体の男だった。肩から胸にかけて盛り上がる筋肉はまるで岩山、二の腕は丸太のように太い。白い歯をギラリと光らせ、声を張り上げた。
「私は魔法トレーナー・サンダーマッスル! 今日からお前の体をイケメンに鍛え上げる!」
「い、イケメンに……だと……!?」
返事をする間もなく、俺は問答無用で全身鎧を着せられた。鎧は重い。着た瞬間から肩が抜けそうで、膝が笑っているのが自分でも分かる。
「さあ! 広場を十周だ!」
「お、おも……重いっ! 足が……!」
俺は必死に駆け出した。ガチャガチャと金属音を立てながら走る姿は、まるで壊れかけの人形だ。呼吸はすぐに荒くなり、胸が焼けるように痛む。
「ひぃ……ひぃ……!」
足がもつれ、転びそうになるたびに背後から雷の鞭がピシィィッ! 空気を裂き、俺の背筋に電流のような恐怖が走る。
「避けろ! 脂肪を燃やせぇぇ!」
「ひぃぃぃ! 無理だぁぁ!」
さらに火の玉が飛んできて、俺は必死に身をひねる。ドカンと地面が爆ぜ、砂埃が舞い上がる。その反動で鎧同士がぶつかり合い、「ガンゴンッ!」と広場全体に響き渡る。
周囲で見守る侍従や女官は、口元を押さえながら必死で笑いをこらえていた。王妃に至っては、ハンカチで顔を隠しながらも肩を小刻みに震わせている。
「うぅ……なぜ、妻まで笑っているのだ……! これは修行なのだぞ!」
情けなさと恥ずかしさで胸が焼け付く。
だが地獄はまだ終わらなかった。サンダーマッスルが突然、雷鳴のごとく叫んだ。
「成果を証明するにはビフォーアフターだ! 絵師を呼べぇぇ!」
「なにぃぃ!?」
慌てる俺の前に、画材を抱えた宮廷絵師が颯爽と現れた。次の瞬間、俺は鎧を剥ぎ取られ、なんとふんどし一丁に。広場の真ん中で両腕を広げ、ポーズを取らされる。
「も、もう勘弁してくれぇぇぇ!」
「もっと胸を張れ! 腹を突き出せ!」
「やめろぉぉぉ! 晒し者にする気か!」
絵師は真剣そのものの顔で筆を走らせていた。周囲の爆笑など気にしていない。
「ビフォーはぷにぷに……アフターは逆三角形!」
高らかに宣言しながら紙を掲げる。描かれていたのは、俺のふくよかな腹と、未来予想図の筋骨隆々イケメン。並べて見せつけられた瞬間、広場は爆笑の渦に包まれた。
「やめろ! 詐欺広告かこれはぁぁぁ!」
俺の絶叫は、晴れ渡る青空に虚しく響き渡った。王妃は笑いすぎて椅子から転げ落ちそうになり、侍従たちは涙を流しながら拍手喝采している。俺は両手で顔を覆い、羞恥に身を震わせるしかなかった。
ナイトザップの羞恥地獄から解放されたと思ったのも束の間、俺は再び広場へと連れて行かれた。そこには小さなバンダナを巻き、首に鈴をつけた子猫五匹が整列していた。まるで兵士のようにきっちり並び、尻尾をぴんと立てている。
「……な、なんだこの部隊は」
俺が思わず呟くと、子猫たちは一斉に鳴いた。
「にゃー!」
その統率の取れた声に、俺は背筋がぞくりとした。まるで軍隊の号令ではないか。
「よし、王子! 今日からお前は“ブートザキャット・キャンプ”に参加だ!」
トレーナーのサンダーマッスルがそう叫ぶや否や、子猫五匹が俺をぐるりと囲む。そして一匹が前に出て、まるで指揮官のように「にゃー!」と鳴いた。
「え……まさか、スクワットを……!?」
次の瞬間、残りの子猫が一斉に背中や肩に飛び乗った。ふわふわの肉球が肩口を押さえ、しっぽが顔をぴこぴこと叩く。
「お、おい! 重い! お前たち、まさか俺を負荷にして――いや、俺が負荷か!?」
「にゃー!(そうだ!)」
「なんで分かるんだその返事ぃぃ!」
仕方なく俺は膝を曲げ、スクワットを始める。
「いちっ……にっ……さんっ……!」
子猫たちが号令のように「にゃー!」「にゃー!」と声を合わせる。そのリズムに合わせるしかなく、俺は必死に膝を上下させた。だが太ももはすぐに悲鳴を上げる。
「ぐぬぬ……! お、重い……! なぜ子猫なのに岩のように……!」
「にゃー!(もっと深く!)」
「誰がそんな指導を許可した!」
背中に乗っている三毛がわざとバランスを崩し、俺はよろけた。転びそうになると、正面にいた黒猫がぴたりと目の前に立ちふさがり、「にゃー!」と叱咤する。
「す、すまない……! はい、続けます!」
俺は涙目でスクワットを再開した。息は荒く、汗が滝のように流れ落ちる。視界が滲んで前が見えない。
「王子さま、がんばって!」
広場の端で王妃が声をかけてくる。白い尻尾をふわりと揺らし、頬をほんのり染めながら。
「真剣に汗を流す王子さま……とても素敵ですわ」
「え、そ、そうか!? ふ、ふんっ……!」
恥ずかしさで余計に力が入る。だがその瞬間、腹にちょこんと肉球が押し当てられた。残りの子猫が腹筋チェックでもするかのように「にゃー!」と鳴いた。
「い、痛い! やめろ、そこはまだ柔らかいんだ!」
周囲の侍従や女官たちは口元を押さえて笑いをこらえ、時折「ぷっ」と吹き出している。兵士たちは真剣に「王子さま、あと十回です!」と号令を飛ばす。
「だ、誰がこんな軍隊式トレーニングを望んだのだーーー!!」
俺の悲鳴と子猫の「にゃー!」が広場に響き渡り、その日も王宮は笑いに包まれたのだった。
■
地獄のような日々が続いた。朝になれば、まだ眠い目をこすっているところを子猫五匹に叩き起こされる。バンダナを巻いた小さな教官たちは、俺の足元に整列し、一斉に「にゃー!」と号令をかける。俺は汗まみれになりながらスクワットを繰り返し、太ももが悲鳴を上げるたびに「もう無理だ!」と泣きそうになる。だが、子猫が背中に飛び乗り、肉球で「もっと!」と押してくるのだ。結局、俺は限界を超えるまで膝を上下させるしかなかった。
昼になれば、鎧を着せられて広場を全力疾走。ガチャガチャと金属音を鳴らしながら、転びそうになりつつ走り回る俺。その背後からは、雷の鞭を鳴らすサンダーマッスルの絶叫が響く。「避けろ! 脂肪を燃やせ!」の号令とともに火の玉が飛んできて、俺は必死に転げ回りながら逃げ惑った。砂煙をあげる姿に、見物している兵士や侍従が笑いをこらえるのも限界だった。
夜になれば、食事が待っている。だが、それはごちそうではなく「脂肪燃焼スープ」と「低糖質エルフパン」だけ。こってりした肉や甘い菓子を想像しては涙をこぼし、スープをすすりながら「これは拷問だ……!」と机に突っ伏した。王妃はそっと猫耳を揺らしながら「がんばってくださいませ、王子さま」と励まし、子猫たちは「にゃー!」と応援の合唱をしてくれる。その声に背中を押され、俺はまた翌日の地獄に挑んだ。
――そして、数週間。俺の体は見違えるように変わった。胸板は厚くなり、腹筋は割れ、背筋もしゃんと伸びている。鏡に映る自分に思わず「おお……」と声を漏らした。以前は丸い腹を抱えて鏡の前でため息をついていたのに、今では確かに引き締まった男が立っている。
「すごいですわ、王子さま……!」
王妃が瞳を輝かせ、猫耳をぴんと立てながらそう呟いた。子猫たちも胸を張って「にゃー!」と鳴く。だが、ふと沈黙が落ちた。侍従や女官が顔を見合わせ、気まずそうに咳払いをする。誰も“顔”のことには触れなかったのだ。
「えっと……その……体は、見事に変わられましたな……」
「顔は……まあ、その……」
学者がもごもごと言葉を濁す。俺は一瞬だけ胸を突かれる思いがしたが、すぐに拳を握りしめて言い返した。
「いや、顔は知らん! 大事なのは心と体だ!」
広間に俺の声が響く。誰も反論できず、次の瞬間、子猫たちが再び「にゃー!」と鳴いた。それはまるで「その通り!」と背中を押してくれるかのようで、俺は誇らしく胸を張った。
俺は大広間に立っていた。周囲には侍従や女官、学者まで見守る中、王妃の前に堂々と進み出る。かつては自分でも情けないと思っていた腹も今は引き締まり、胸板は厚くなった。汗に濡れていた姿勢も、今は真っ直ぐに伸びている。これが努力の結晶だと、自分でも誇らしかった。
「見よ! これが努力の成果だ!」
声高らかに宣言すると、王妃は驚きに目を見開いた。次の瞬間、頬をほんのり赤く染め、猫耳をぴんと立てている。白い尻尾がふわりと揺れるのが見えた。俺の胸の奥が熱くなる。
ゆっくりと手を取り、俺は覚悟を決めて口を開いた。
「呪いを解くためだ……」
息を呑む空気の中、俺は王妃の唇にそっと口づけをした。広間はしんと静まり返り、誰もが固唾をのんで見守っていた。ロマンチックな緊張感に包まれ、俺の心臓は破裂しそうに跳ねた。
だが――何も起こらなかった。猫耳はぴんと立ったまま、白い尻尾も揺れている。中央の籠では五匹の子猫が元気いっぱいに「にゃー!」と鳴いていた。
「な、なぜだ……!?」
俺の声は情けなく震えていた。そんな俺に、王妃は小さく肩を揺らしながら、静かに言葉を落とした。
「……結果にコミットしたのは体型だけでしたわね」
「な、なんだとぉぉ!?」
思わず叫ぶ俺。背後で子猫たちが揃って「にゃー!(パパ最高!)」と鳴き、喉をころころと鳴らす。その姿に侍従や女官はこらえきれずに爆笑し、学者でさえ長い髭を震わせて笑いを堪えていた。
俺は顔を真っ赤にしながらも、王妃を見つめた。彼女は優しく笑い、そっと俺に抱きついてくる。耳は恥ずかしそうに伏せられ、尻尾が頬をくすぐった。
「でも、その努力……私はとても嬉しいですわ」
胸の奥がじんわりと熱くなり、全ての苦労が報われた気がした。俺は照れ隠しのように笑い、肩をすくめる。
「……ま、まあ、顔は知らんけどな!」
大広間に再び笑いが広がり、子猫たちの「にゃー!」という声が祝福のように響き渡った。
■
森の奥に暮らすズボラ魔女は、王子が本当にイケメン(体型だけ)になって帰ったと聞きつけたとき、最初は腹を抱えて笑った。
「まさか本気にするとは……!」
笑いすぎてスープを吹きこぼし、床にしみを作る始末だった。しかし噂はまたたく間に広まり、やがて各地から「痩せたいです!」「魔女様の秘術を!」と人々が押し寄せてくる。ズボラな彼女は「サンダーマッスルに任せるわ」と丸投げしたつもりだった。だが世間は彼女を“解呪の権威”として祀り上げ、ついには予約半年待ちの“森のダイエット相談所”を経営する羽目になった。魔女は毎日スープを煮込みながら「めんどくさい……」とぼやき続けるが、その手は止まらなかった。
一方、王城では宮廷絵師が描いた一枚の絵が大旋風を巻き起こしていた。王子の「ビフォーふんどし姿」と「アフター逆三角形姿」を並べたあの衝撃の絵だ。酒場の壁にはそのコピーが貼られ、酔っ払いが指を差して大笑いしながらスクワットを真似る。子どもたちは広場で「一、二!」と腕立て伏せを競い合い、市場では「結果にコミット饅頭」なる怪しい菓子まで売り出された。
「糖質過多だ!」
学者が青筋を立てて警告しても、誰も耳を貸さない。人々は口を揃えて「王子は体を張って呪いに挑んだ偉大なお方だ!」と称えた。さらに、王妃と五匹の子猫の可愛らしさも国民の心をとらえ、王家への支持はこれまでになく高まっていた。
やがて「ナイトザップ」と「ブートザキャット・キャンプ」は国中で大流行することとなった。広場や鍛錬場では、兵士たちが鎧を着込んで走り回り、木の棒を雷の鞭代わりに振り回す。「なんちゃってサンダーマッスル」と呼ばれる者たちが各町に出没し、掛け声とともに汗を飛ばす光景が日常と化した。
家庭では、飼い猫を背中に乗せてスクワットする「キャット・キャンプ」が爆発的な人気を博す。猫を飼っていない家では子どもが猫役を務め、「にゃー!」と鳴きながら親の背に飛び乗る始末。街のあちこちで「にゃー!」の声が響き渡り、笑いと健康が国中に広がっていった。
ある日、王妃が広場を散歩すると、民が一斉にスクワットを始め「にゃー!」と声を合わせた。王妃は頬を赤らめ、猫耳をぴくぴくさせて照れ笑いする。その光景を目にした王子は、頭を抱えてため息をついた。
「いや、顔は知らんけど……俺の国、健康的すぎないか?」
こうして一つの呪いをきっかけに、王国全体が思わぬ方向で“結果にコミット”してしまったのだった。