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『七』

『7』

 高台からは街の全てが見渡せるわけではなかった。それでも、この高台の先端に立ち、目に映る風景がアジュは好きだった。供も付けずに僅かな変装を施しただけで、一人でこの地をよく訪れた。

 だが、今回は久方ぶりになる。自身の居室から外に出たのでさえ、数日ぶりだった。顔の下半分を強布で覆わなければならない状況は変わらないが、それが変装の代わりになり、降り注ぐ陽射しが身内に染み込んでいくように感じると、一時の癒しにはなり得た。

 母が好きだったというこの場所に、初めて立ったのはいつのことだっただろうか。

 母が自身の生命と引き換えに産んでくれたという事実を知った時だっただろうか。

 母の身代わりの生を生きていると自覚した時だっただろうか。

 明確には覚えていないくらい時は流れたが、母が好きだったというこの場所に立つと、不思議と罪への後悔が少しだけ薄らいだ。母が毎回、罪を削り取ってくれてるようで、その都度、母の愛に触れた気になった。ただ、綻ぶ顔を自覚すると、すぐに自分勝手な思いを抱く自身を厭悪したりもした。

 罪人である自分は、人の愛に触れる資格など無い。何度も強く言い聞かせ、自ら拵えた堅牢な檻に閉じ込もることも厭わずに生きている筈なのに、時折、いとも容易くその檻を逸脱する自分がいる。精神に依るものを閉じ込めても閉じ込めても、幾つかは放射され、それらがアジュの肉体を導いていった。

 未熟--その一語に尽き、都度都度奮い立たせねばならない自身を恥じた。

 ふと眼の痛みを覚え、アジュは目を閉じると目頭をきつく摘んだ。ここ数日、ほぼ不眠不休の態で書を読み続けてきた両眼は限界を迎えていた。何かしらの成果が挙がっていれば、眼の痛みもその代償と気を鎮められるが、芳しい成果は何一つなく、募る焦燥がアジュの心内を波立たせた。

 努力した全てが報われるわけではない。そんなことは、とうの昔から承知している。それでも努力を続けるのは、自身への免罪符を得たいがためだろうか。そうだとしても、構いはしない。自身を突き動かしてくれるなら、動機や理由は最早何でもいい。他者のために生きる生を偽善と謗られても、何もせずに高みから見下ろす、或いは傍に寄り添う振りで傍観するよりは、遥かにましだ。

 だが、今ほど自身の努力が報われてほしいと願ったことは、努力は報われないものだと諦めて以降、一度もなかっただろう。

 これ以降の努力は何一つ報われなくていい。努力するために必要なこの生命さえ差し出しても構わない。もちろん、何の成果も挙げていない今、生命を差し出すわけにはいかない。

 だから、代わりに髪を差し出す。母に似て美しいと称賛されてきたこの亜麻色の長い髪を切ると決めた。

 アジュは、眼を開けた。

 眼下の風景は変わらない。コルンジュ病は、それがいかに猛威を振るっていても、眼には見えない。風景は風景として、何の変哲もなく、何の気負いもなく、そこにいた。

 取り戻さなくてはならない。この風景のように、何の変哲もなく、何の気負いもない、それでいてどこまでも尊く、温かく、優しい、そんな日々を再び取り戻さなくてはならない。

 アジュは自らの髪を右手でまとめると、右の二の腕に装着していた小刀を左手で取った。躊躇いは無い。それを証すように、間を置くことなく小刀をまとめた髪へ当てがった。続けて、左手に力を込めた。

 「待てっ」

 後方からその声が響いたのと、髪を切った感触が左手に伝わるのは、ほぼ同時だった。それでもアジュは後方へは振り返らず、儀式を継続する判断を瞬時に下し、右手に握られた髪の束を宙空へ放った。

 自身に代わり、自身の欠片が自由を得たように、いつか見た、朝焼けの空を飛ぶ鳥のように、ちょうど吹き抜けた風に乗って無数の髪は舞い飛んでいった。

 これでいい--アジュは心奥に告げた。コルンジュ病に立ち向かう自らの様々を確固たるものにできた。

 再び吹き抜けた風を、アジュは首筋でも感じた。その首筋には視線も感じる。人数は分からないが、背後に人がいる。

 声の主は男。恐らく若年者。「待て」と発したきり、次の言葉を発するわけでもなく、何かしらの行動に出るわけでもない。

 あまりの出来事に言葉を失い、立ち尽くしてしまっているのだろうか。だとしたら、早くそこから解き放してあげようかしら--。

 今までにない感覚を抱いた自身を、アジュは少し不思議がった。そして、ゆっくりと振り返った。

 アジュの視界に入ってきたのは二人。予想通りの若年の男と少し年長の女だったが、ともに面識はなかった。向こうの二人も、こちらの素性には気付いていないようだ。強布で顔下半分を覆っていることもあるが、元々知らないのかもしれない。

 よく見ると、余り見慣れない服装だ。この服装からしても、ウォルバレスタの人間ではないかもしれない。

 とすると、この状況下のウォルバレスタ王国へ入国してきた異国人となる。それだけでも興味があったが、それ以上に若年の男、恐らく自身と同世代の少年に、アジュの眼は惹きつけられた。

 彼の周りだけが、薄らぼやけたように見える。まるで、彼自身が光を放っているかのように。或いは、平等に降り注ぐ筈の陽射しが、彼にだけ少し多く降り注いでいるかのように。

 顔立ちは美しい。これまでに出会った何者より際立った美しさを有している。美しい花々、綺麗な風景のように、彼を見ているだけで、疲れていた眼が蘇るような気がした。

 何者だろうか。常であれば、王君一族という器の大きさが相手の全てを包含してしまうため、素性の詳細を知りたいと欲することは極めて稀だった。だが今回は、王君一族の器なぞ容易く凌駕する態で眼前にあり、アジュ個人の琴線にも触れた。

 鼓動が弾んだ。その波が身内を寄せては返し、その都度、鼓動は高鳴っていった。火照りを帯びた頬が紅く染まっていくことを危惧したが、強布がそれを秘してくれることに安堵した。時が足りないことを痛感する日々に身を置きながらも、眼前の少年のことを知るための時を求めている。

 アジュは、一歩前に踏み出していた。すぐにそんな自身に気付き、下唇を噛み、歩みを止めた。 

 自身の心内の声に呼応した故の行動だった。少年のことを知りたいと願うのは、他ならぬ自分自身のため。

 自分自身のためだけに使う時は、もう残されていない。元々そんな時間も資格もない。通常時でさえそうである。ましてや、非常時の今は、国のため、民のため、家族のため、その全てを捧げなければならない。

 誰がための生を生きてきた。これからも、そう生きていく。たった今、決意を固めたばかりではないか。その決意を容易く瓦解させかけた己を恥じた。

 アジュは少年に向かい、ゆっくりと一度だけ瞬きした。それを立ち去る挨拶に代えた。

 少年の視線が追ってきた。だが、言葉は無かった。少し距離を置いた横を通り過ぎ、少年の姿が視界から消えた。

 鼓動が一つ跳ね、アジュは微かな胸苦しさを覚えていた。

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