『三』
『3』
エイブベティス王国を発つ前夜、ミーシャルール・ユウリは眼前に揃った部下十三名及びデルソフィア・デフィーキルに、次の行き先はウォルバレスタ王国であることを告げた。
ウォルバレスタの名を聞き、デルソフィアは右斜め前にいたルネル・アーバインに視線を送った。以前、ルネルから出身国としてその名を聞いていたからだ。
斜め後ろからの姿ゆえに表情を窺うことはできなかったが、ルネルから動揺している雰囲気は感じられなかった。
むしろ、他の数名から微かに動揺の色が感じ取れた。その理由は、続くミーシャルールの話で明らかになった。
「デルを除く皆は、ある程度知っていると思うが…」そう言ってミーシャルールが口にした話は、デルソフィアの心内を波立たせるには充分だった。
一年も前から世界の一隅で、そんな悲劇が起きていたなんて…。改めて神皇帝皇子という枠の中にいた己を、無知であるが故の奢侈を、恥じずにいられなかった。
そして、幾人かから漏れた動揺の理由。それは、遅い早いはあれ、死に直結する流行病が蔓延している国に入ることになる事実を突きつけられたためだと、デルソフィアは理解した。
気持ちは分かる。ミーシャルールが率いる精鋭揃いの一団とはいえ、死への恐怖が皆無な筈がない。むしろ、死に対して恐怖を抱き、正常に向き合えていることが、彼らを精鋭たらしめてる基であろう。
死が現実味を帯びる環境下にその身を投じる段となり、デルソフィアもまた死を意識した。改めて死と向き合うと、それへの恐怖が今は拭えない。今、死ぬことは、志半ばで倒れることと同義だからだ。
民のため--という不屈の性根を剥き出しにし、結果、家族を、親友を、故国を失くすこととなっても貫いてきた全てが水泡に帰してしまう。偉大なる祖先から託された大義。大義を為し、その果てで殉じることへの躊躇いは無い。だが、今はまだ大義を為す途上なのだ。
死を、何かを遂げる代替の俎上へ上げることを激しく厭悪する。これから俺は、死へ至る病が蠢く国へ行くが、決して死に飲み込まれはしない--デルソフィアはそう心に誓った。その誓いに微塵も揺らぎは無かった。
ミーシャルール一団の船がウォルバレスタ王国最大の港であるルノーブル港に到着したのは、前六の刻を少し過ぎた頃だった。本来なら港が活気に溢れている筈の時間帯だったが、閑散とした港に人の姿はほとんど見えなかった。所々に船が停泊しているが、稼働している気配はなく、港としての機能が止まってしまっている。
国の入口において早くも、ウォルバレスタ王国が惨劇の只中にあることを痛感させられたミーシャルール一団は、十五人全員が下船した。
ウォルバレスタ王国の現状を踏まえ、ルノーブル港に着く前にミーシャルールは、上陸を無理強いしない旨を伝えた。だが、船に残る者は一人もいなかった。無理をしているわけでないことは、その表情からも窺え、今度は誰からも動揺の色は漏れてこなかった。
皆の思いが一つになっている。その思いの中に、仲間の祖国へ馳せる思いがあることを、デルソフィアは感じていた。
ウォルバレスタ王国がルネルの祖国であることは、一団の誰もが当然知悉している。流行病が蔓延している事実をルネルが知り、国に帰るか否かでずっと心を揺らしていたであろうことにも、皆は気付いていただろう。
だが、旅の行き先を決めるのはミーシャルールだ。彼に対する部下達の信頼は揺るぎない。それでもこの一年、ミーシャルールの口からウォルバレスタの名が挙がることを待ち侘びていたのも事実に違いなく、何故今ではないのかといった疑義の出来が零だったわけはない。
そうした中、ついにミーシャルールはウォルバレスタの名を口にした。最初に幾人から漏れた動揺の色には、死に至る病が蔓延する国に向かうことに対してだけでなく、むしろ待ち侘びた時の到来による弾む心の音でもあったのだ。
そして当のルネルは動揺することなく毅然としていた。それを目の当たりにして、心が奮わない者は、この一団にはおらず、思いが一つになるのは必然と言えた。
ミーシャルール一団は、ルノーブル港から徒歩でウォルバレスタ王国街を目指した。港から王国街まで、徒歩の場合は丸二日を要したが、馬車を借りようにも、様々な機能を停止したルノーブル港でそれは不可能だった。
それでもミーシャルール一団は、通常では丸二日かかる道程を約一日半に短縮した。ルノーブル港を発って二日目の夕刻、ウォルバレスタの王国街に到着した。
豊かな国という気質がそうさせるのか、来る者は拒まず、去る者は追わずの態で、エイブベティスの王国街のような街を囲う壁はなく、幾つもの道から街の中へ入ることができた。街と外とを分ける明確な境界線はなく、出入りが自由であれば、往来するのが善人だけとは限らない。それでも一定の治安を保ち続けてきたのはウォルバレスタ王宮の壮挙だが、こうした街の形がコルンジュ病の大陸全土への感染拡大を助長したとも言えた。
ミーシャルール一団は、死に至る病が流行する王国街へ入った。境界線も明確でない中でそう断言できたのは、目の当たりにした民たちの姿が通常ではなかったからだ。
民たちは皆、強布で鼻より下の顔半分を覆っていた。