『二』
『2』
昨日は、一体何人の生命がその幕を閉じたのだろう。
二軒隣りのマクタ家の老爺。矍鑠とし、日課の散歩では人懐っこい笑顔を振りまいていた。
教会の向かいのスダレス家の夫人。庭先の花々をいつも愛おしそうに手入れしていた。
魚市場の一角を担うべイール家の幼児。ようやく魚料理を残さず食べられるようになったと聞いたばかりだった。
コルンジュ病の刃は老若男女を選ばなかった。何かの罰ということで罪人や悪人にだけ発症するわけでなく、出る杭は打たれるがごとく尤物にだけ発症するわけでもなく、無作為にその刃は振るわれた。
運が悪かった、運命だった、当事者や関係者がそんな言葉でその死を片付けられないのは百も承知だが、ウォルバレスタ王国街、その街中で繰り返される悲劇に慣れが生じていることを自覚し、マイサ・アーバインは唇を噛んだ。朝食の準備に取り掛かっていたが、一向に捗らなかった。
もしも、夫、そして自らの腹を痛めて産んだ三人、いや四人の子らに悲劇が訪れてしまったら、果たして自身を保っていられるだろうか。その自信はない。
だが最早、悲劇とは常に背中合わせと言えよう。或いは、悲劇はもうすぐそこまで来ていて今まさに襲い掛かろうとしているかもしれない。そんな不安を日常茶飯で感じるほど、王国街に蔓延したコルンジュ病の猛威は凄まじかった。
影響は様々な方面に波及したが、産業面への影響も例外ではなく、日に日に深刻度を増していった。
例えば、ある産業の担い手がコルンジュ病に倒れ、同じ産業を担う別の者の中で感染が拡大してしまえば、その産業そのものの衰退に繋がった。それは、関連する他の産業にも伝播し、負の連鎖となる。王国街のあちこちで負の連鎖が生じ、幾つもの産業が成り立たなくなり始めていた。
「おはよう」
食堂とひと繋ぎの居間に入ってきたのは、アーバイン家の現当主で、マイサの夫であるアラウ・アーバインだった。アラウは食卓まで進み、そこに何も用意されていないことを確認するとあからさまに顔を顰めた。
アラウの起床が特別早いわけではない。それでも朝の食卓が整っていない。そのことに苛立っているのだろう。予定調和を崩されることを、殊の外嫌う性分だ。
王国街の現状に、予定調和など最早成り立たなくなっているのに--声には出さずマイサは心内に呟いた。
アーバイン家は、ウォルバレスタの王国街において名家に数えられている。元々は衣服の精製から業を起こし、中流程度に属する家柄だったが、四代前の当主が手掛けた衣服が当時の王君一族や王宮幹部の家族らの目に留まると、瞬く間に富を得た。それに付随して地位や名声が高まり、顧客を次々に獲得するという好循環が生まれた。アラウの代では押しも押されぬ名家の一つとして王国街に君臨していた。
だが、そんなアーバイン家の家業もコルンジュ病の猛威によって齎された影響からは逃れられなかった。日に日に稼ぎが減っていくのは明らかで、それに反比例するようにアラウの瞋恚は増大していった。
四人いる子のうち、長男と次男はアラウの仕事を手伝っている。二人とも家業の業績が芳しくないことは知悉しており、不安や苛立ちを募らせると同時に、父のご機嫌取りに終始せざるを得ない自身らの現状に辟易していた。
第一子である長女は既に嫁ぎ、家を出ていた。嫁ぎ先は、王国街に名家として通っている家だったが、ここもまたコルンジュ病の悪影響に沈み、こちらを援助する余裕など失って久しかった。
畢竟、アーバイン家内での会話は極めて少なくなり、醸し出す雰囲気は最悪だった。最悪な雰囲気に浸っていると次第に多くのことが麻痺していき、マイサ自身、叱責とも取れる夫の顰めっ面を目の当たりにしても、動揺すらしなくなっていた。
だが、そんなマイサの脳裏を最近になって頻々と疼かせる存在があった。第四子である次女。長女と同じくこの家には最早いないが、嫁いだわけではない。
次女は、親の期待や思惑の枠内から逸脱することなく成長した他の三人の子らと何もかもが違った。期待や思惑など我関せずの態で、悉く裏切っていった。
女の子らしさを求めると、その真逆へ進んだ。厳しく枠内に収めようとする躾に強く反発した。
今思えば、次女の反発、反論は正鵠を射ていた。当時も何となく気付いていた。だから、次女を除く家族は連携を強め、自身らを護った。
やがて次女は家族内で孤立を深めていった。しかし、へこたれることなど皆無だった。枠からはみ出した姿は、むしろ活き活きしていた。
そしてある日、次女は突然、家族の前から姿を消した。
訳が分からなかった。当然だった。心内を晒して話をしたことなど無かったのだから。
「あれは、最初からいなかったものとする」
予定調和を崩されたアラウは怒り心頭の末、そう発した。マイサ自身も含め、家族は皆それを受け入れた。それから一度も会うことなく、今日に至っている。
なのに、何故…。何故、今さら脳裏を疼かせるのだろうか。
「…ルネル」
マイサの口から久方ぶりにその名が溢れると、脳裏を疼かせている次女の画は、より鮮明になった。