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『三十六』

『36』

 些細な瑕疵。

 他人に話せば一笑に付されてしまうであろう微かな違和感。

 その程度のことだと言い聞かせれば言い聞かせるほど気になった。言い聞かせれば言い聞かせるだけ、それが気にしている証左だった。

 先刻、ルネルと共にアルズスのもとを訪れた。

 呼び出されたのはルネルだったが、「別に二人で行っても大丈夫でしょ」というルネルの言葉にデルソフィアは乗った。それは、アルズスとの接遇の機会を少しでも増やしたいという思いの発露だと言えた。

 ルネルと共にデルソフィアが姿を見せても、アルズスに特段驚いたような様子はなかった。お互いに挨拶を交わした後、アルズスからの要請に応え、呼び出されたルネルが二人を代表して、これまでの調査の経過を伝えた。

 決して芳しくない成果を聞かされるアルズスがどのような反応を示すのかに注視していたが、ほとんど表情を変えることなく、また言葉を差し挟むこともなく、ルネルからの報告に耳を傾けていた。

 全て想定内の態で泰然自若とした姿には、デルソフィア自身、尊敬やら憧憬やらが入り混じった感情を禁じ得なかった。同じ女でも、母や姉に対して抱く感情とは異なり、ルネルやアジュに向かう気持ちともまた違った。敢えて言うなら、協働する中で芽生えた感情とでも表現すべきだろうか。

 しかし、それならルネルやアジュも同じである。上長だからか……などと考えを巡らせていると、ルネルは報告を終えた。

 ルネルの報告を聞き終えると、アルズスは間髪入れずに「よく分かったわ。ご苦労様」と口にして、ここで初めて表情を崩した。

 初めて見るアルズスの微笑は、柔らかみを帯びて穏やかだった。それに対してデルソフィアの心内は高揚を覚え、先刻来の感情と混ざり合って複雑の極みに到達。高鳴る鼓動が幾つも跳ねた。

 高鳴る鼓動の制御に忙しなく危うく聞き逃すところだったが、続けてアルズスはルネルに対し、「あなたには明日から私の調査を手伝ってもらうわ」と告げた。

 何故自分ではないとの思いが真っ先に浮かび、刹那の後、そんな自分を厭悪すると共に叱責した。ルネルの持つ力を思えば、自身より先行することに何ら不思議はない。そこに疑義を差し込んだ己の方こそ、まだまだ矮小な存在だと戒めた。

 次にアルズスはデルソフィアの方を向き、「当面の間、デルには一人で調査にあたってほしい」と要請してきた。調査は二人一組が基本であるため何か不都合が生じた場合には遠慮なく申し出てくるようにと付け加えることも忘れなかった。

 一人での調査に異論はない。ルネルを奪われたという感覚もなかった。先刻抱いた嫉妬に似た疑義も消失させた今、デルソフィアは迷うことなく頷き、アルズスからの要請を受諾した。

 その後、「少し話しがある」と、アルズスはルネルを隣室へと誘った。わざわざ二人きりで話す内容は、他者には聞かれたくない話だと思ったが、隣室でのアルズスとルネルの会話は筒抜けだった。

 あのアルズスが、この程度の誤謬を犯すとは思えず、隣室で二人きりという状況だけが必要だったのではないかなどと考えていると、「ルネル、あなたには何よりも、女性たちのために動いてほしい」との言葉が鮮明に聞こえた。

 その瞬間、デルソフィアの心奥が微かに疼いた。常とは異なることを示す違和感。それも極めて小さく、放っておいても問題のない程度のもの。

 だが、デルソフィアはそうしなかった。

 何が気になった?

 どこに反応した?

 疑義と共に、アルズスの言葉を掘り下げた。

 女性のための尽力、それは平時であれば何も悪くない。だが、今は平時ではなく非常事態の只中だ。それも、民は限界まで追い詰められている状況だ。

 苦しんでいるのは女だけではない。子供や老人、さらには男だって苦しみ喘いでいる。

 誰しもが問題を抱えた非常事態の只中で、尤物のルネルを重用するのはよく解る。しかしながら、女のためだけに働けとは、いささか的が外れてはいないだろうか。ルネル同様、或いはルネル以上の尤物かもしれないアルズスらしからぬ誤った判断、誤った指示だと思えてならない。

 一方、隣室に場所を移しながら、その会話が筒抜けであることも踏まえ、アルズスがそのような誤謬を犯すだろうかという原点に立ち戻ってしまう。

 ……意図的なのか?

 だとすれば、何の目的で?

 ……解は見当たらない。

 見当もつかない。

 胸苦しさを覚えた。息苦しさを覚えた。腹の奥に突如鉛玉が出現したかのような不快感。

 耐えられずにデルソフィアはアルズスの居室を辞していた。

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