『一』
『1』
露台から見える朝焼けの橙が一日の始まりを告げ、彼方へと羽ばたく二羽の鳥の姿が、自由に飢えて久しい心奥を幽かに疼かせた。
届く筈のない鳥たちに手を伸ばせば、虚しさが痛嘆となり、己の分不相応を自戒すると共に、やや遅れて、凛乎として見えない敵と対峙する自身を奮い立たせた。
「アジュ様、お着替えのご用意が整いました」
室内から聞き慣れた声がした。側仕女オルセーラ・ワイキの声はいつも穏やかで、忙しない朝であることを感じさせない。
そんなことを思いながら、ウォルバレスタ王国の第二王女であるアジュ・レステンシアは振り返った。露台へと繋がる観音開きの扉は両方とも開け放たれたままだったが、オルセーラは露台には出ず、室内に留まっていた。
賢明ね--この国の現状を踏まえたオルセーラの行動に理解を示しつつも、アジュは言葉にはしなかった。
強布で鼻より下の顔半分を覆っていなければ、屋外に出ることを躊躇う状況が今のこの国にはあった。オルセーラは強布で顔半分を覆っていたが、それでも強布による防護が鉄壁というわけでないのは周知の事実で、必要以上に屋外へ出ないのは危機をより遠ざけるが故の行動と言えた。
室内に戻るとアジュは強布を外し、用意してあった着替えを進めた。それが終わると、オルセーラに髪結をしてもらった。亜麻色の長く美しい髪は、アジュを讃える者が必ず口にする特徴の一つであったが、近々それを切る覚悟を、アジュは固めていた。ある決意のために髪を切る--なんて古臭いと恥ずかしくなるが、そうせざるを得ない状況に、この国も民も、そしてアジュの家族も追い込まれていた。
ウォルバレスタ大陸及びウォルバレスタ王国は、バルマドリー大陸の真南、エイブベティス大陸からは南西の位置にあった。建国されたのは、バルマドリー皇国の誕生よりも二十年ほど後で、世界に五つある国の中では二番目に新しい。
温暖な気候の下、人々の暮らしも活発で、それに伴い、様々な商いが発展、展開されてきた。大小には関わらず、目標の設定や目標達成後の再設定等に長けた人が多いのも特色と言え、それが国力の底上げに繋がっていた。豊かな国--という認識が、ウォルバレスタ王国に対する共通の認識として定着して久しかった。
だが、そんな認識は一年ほど前から徐々に覆され始めていき、現在では一変してしまった。貧しい国、困難に直面した国、崩壊してしまった国、そして哀しき国。それが、世界が下すウォルバレスタ王国への認識であり、同国民の多くもまた同調する認識だった。
そこまで国を追い込んだ元凶が、コルンジュ病。発症からひと月あまりで命を落とす急進行型が一割と、薬の服用によって進行を数年にわたって遅らせることができる遅進行型が九割の流行病だった。
はじめは、ウォルバレスタ王国街の複数箇所において起きた感冒症状の流行だと思われた。毎年ではなかったが、そうした流行は数年に一
度くらいの頻度でウォルバレスタ王国街でも確かにあった。故に、その状況を深刻に捉える者は皆無だった。
後になって振り返れば、この初動における対応の瑕疵が致命的だったと言えた。コルンジュ病は、直接触れ合う接触だけでなく、空気を介して近接者にも感染したのだ。民のほとんどが「所詮は感冒」と耽溺した結果、コルンジュ病の感染拡大はあっという間だった。
これに対する医術の専門家や識者の対応は決して遅くはなかった。対応を先導する者にウォルバレスタ王国の王君一族の者が含まれていたからだ。
だが、王宮と専門家らが団結して対応に当たっても、感染拡大に歯止めを効かせるには至らなかった。ウォルバレスタ王国街にはコルンジュ病が蔓延し、民達の暮らしを根底からひっくり返した。
また、影響は王国街だけにとどまらず王宮にも波及した。流行初期に、ウォルバレスタ王国第十八代王君となる現王君のソイエル・レステンシアがコルンジュ病を発症。遅進行型ではあったが、症状は軽くなく、病床を離れられなくなって久しかった。王宮各所を取り仕切る幹部からの発症者も複数にのぼり、これらは王宮全体の動きを衰退させることに繋がった。
統治する筈の王宮が本来の機能を発揮できなければ、王国街が混乱の極みに達するのも必然だった。街の治安は瞬く間に悪化し、荒廃の只中にあった。これにコルンジュ病に対する恐怖が相まって、民の抱く夢や希望、さらには普通に暮らす日常さえも絶望の底へ沈んだ。
中には、希望を捨てずに王国街を離れ、それぞれの伝を辿って大陸の別の街へ向かう者もいた。しかし、結果的にこれがコルンジュ病の大陸全土への蔓延を加速させた。
大陸全土への蔓延は、遅進行型の病状を遅進行型たらしめている薬の供給へ影響を及ぼした。薬は複数種類あったが、それでも生産能力には限りがあったからだ。
そして先日、大陸南部にある最小の街であるヒョヌンでは、そこに暮らす民が全滅した。ヒョヌンにも当初は王宮から薬が配布されていたが、徐々にその配布が遅延するようになり、ついには滞った。
いかに遅進行型が九割を占めるとはいえ、薬を服用しなければ遅進行型の病状も悪化し、いずれは死に至る。その街に暮らす民が流行病を前に為す術なく全滅し、街から人がいなくなったという事実は深い衝撃となり、大陸全土を不安のどん底に陥れた。
明日は我が身--そんな思いに民達は怯え、周囲を気遣う優しさを失っていった。助け合うことや支え合うこと、分け合うことがなくなり、疑いの眼差しだけが鋭さを増していった。もう終わりという諦めが怠惰を呼び、活気や活力は消失していった。現代の者が次代へ繋ぐという意識は薄れていき、次代を担う者達は敬いや尊ぶという気持ちを萎えさえていった。
一方、コルンジュ病による絶望に多くの者が包括されてしまっている中、諦めずに戦っている者達もいた。感染拡大初期にも対応に動いた医術の専門家や識者、そして王宮の一握りの者達だ。彼らの懸命な姿は、未だ希望を消していない者達に伝播した。数は決して多くなかったが、そうした者達の壮挙が、崖っぷちにある国の態を辛うじて保っているとも言えた。
その筆頭に立ち、その身を削り、その生命すら賭しているのではないかという姿勢を示し続けている者がいた。ジュス・レステンシア。彼女はウォルバレスタ王国の第一王女であると同時に、医術の専門家でもあった。アジュの実姉となる。
現王君のソイエル・レステンシアには三人の子がいた。第一子が王太子であるホールン・レステンシア、二十七歳、第二子が第一王女のジュス、二十四歳、第三子が第二王女のアジュ、十七歳だった。
ソイエルの妻で三人の実母である王妃ジューナ・レステンシアは、アジュを産むと同時に落命した。
ソイエルもまたエイブベティス王国王君のアツンド・チオニールと同じく、妃はただ一人だけだった。「妃はジューナだけ」と頑なで、ジューナの死後、現在に至るまで独身を貫いている。
王太子ホールンは現在、病床にあるソイエルに替わって国の政を担っていた。
実父であるソイエル同様、至って平凡な才で、何事においても可もなく不可もないとの評が定まっていた。尤物な頂ではなく、ある意味、一般民達に近しい存在だとも言えた。己の才を自覚し、周囲の評価をきちんと受け止め、出来る範囲で最上の為政者であろうと努める姿勢は父譲りだった。
そんなホールンは、コルンジュ病の発症・蔓延とも真摯に向き合ってきた。突如、父の代替として頂に立たなくてはいけない状況に陥っても、それを怯懦する己を恥じ、必死に律しながら、そこへ立ち続けた。
だが、コルンジュ病による一連の惨劇はホールンという器を軽々と、そして大きく凌駕していった。肉体的に疲労困憊のホールンだったが、最近のその心内では、コルンジュ病に立ち向かう気力よりも、己の無力に対する嘆きへの振れ幅が大きく、精神的にもホールンを追い詰めていた。
一方、政とは別に、医療の立場からコルンジュ病と対峙する者達の先頭に立っていたのがジュスだった。
幼くして実母を亡くしたことが、ジュスが医の道を志すきっかけとなった。王君一族の王女として何不自由なく育ち、純情可憐だった少女は、悲劇は降り掛かる時も人も選ばぬということを知り、幾重にも積み上げた祈りや願い、それらが為す術なく無に帰すこともあるのだと痛感した。
決して望んだものではなかったが、母の死は結果的にジュスを大きく成長させた。
人ひとりは非力で、出来ることには限りがある。為す術もない事柄なぞ、それこそ無数にある。
だからこそ努力する。闇雲だって構わず、ただひたすらに努力する。限りなく無に近くても、祈りや願いを無にしないために。
最後まで諦めない。希望の灯を再び灯すために。
どんな絶望の囲いの中にあっても、最大限の自分であり続ける。僅かな差でもその囲いを越えていけるように。
そうやって生きてきたジュスだからこそ、ウォルバレスタ王国史上最悪の状況下にある現在も、まだ膝を折らずに立ち向かい続けていられた。
ひとりでも多くの生命を繋ぐ--その何倍もの生命を看取りながら、決して揺れ惑うことなく貫くジュスの矜持。その姿は凛々しく、同じく諦めていない者達の光明となった。
先導する者にまだ光がある今、ウォルバレスタ王国の終幕も訪れていなかった。