『二十』
『20』
人は突然いなくなるが、思い出だけは残すのだということを、人の死に幾度も触れる中でマイサは知った。だが、そんな思い出たちも、風化という宿痾からは逃れられない。
毎日のように思いを馳せていたものが、やがて隔日、隔週、隔月と間隔が開くようになり、ついには何かしらのきっかけが無ければ脳裡に浮上すらしなくなる。自身の前から、家族の前から、突然姿を消した次女に対してもそうであったと思う。
次女が姿を消した当初、悲しみや寂しさをあまり感じなかったが、理解が及ばない出来事に戸惑いが勝ったのだと言い聞かせた。やがて、次女は家を出て行った、家族を捨てた、自分達は捨てられたのだと気付くこととなったが、次女の誕生からそれまでを振り返れば、怒りなどは皆無で、次女をそう駆り立てた責任の所在の如何に慄く己を、ただただ自覚した。
家出の理由--。
あれ以来、次女と話すらしたことがない中で確かなことは何も言えないが、その大部分が家族に拠るであろうことは、容易に想像できた。
未熟な子を導くのは無償なる親の務めだ。その思いは今も変わらない。
灯の下、正道を歩むよう、道を誤り、闇へ堕ちていかぬよう、進路を少し先回りして枠を拵えておく。子が成長すれば、また少し先回りして同じように枠を拵える。それを幾度となく繰り返していく。
その繰り返しを厭う気持ちなど微塵もなかった。自らの分身ともいうべき子らのため、良かれと信じ、他ならぬ母の務めと自負して取り組んできた。
枠を拵え、選択の幅を残しつつも、ある程度進路を絞った結果、第一子、第二子、第三子のいずれも、他と遜色無い成長を遂げ、一人前の大人へと育った。自身の育児、教育に何ら瑕疵はなく、正解だったと確信してきた。ただ、その際、第四子については、かつて夫が言い放った「あれは、最初からいなかったものとする」との発言を浮上させ、思考の外へ追いやっていた。
だが近年、確信は揺らいでいた。
拵えた枠から逸脱しなかった子らは正解、逸脱していった子は不正解。そう断じてしまうことこそが、まさに親として不正解なのだと考えるようになった。
きっかけとなったのは、王君一族に生まれた王女が、医師になったという話を聞いたことだ。
王君一族の王女は、一族の繁栄を盤石にするため、国内外を問わず超一流の名家へ嫁ぐ。そのために相応の稽古や研鑽に多くの時間を費やしている。それが王女の道で、親である王君や王妃が拵える枠の礎になるものだと思っていた。しかし、現第一王女のジュス・レステンシアはそこから逸脱し、伝え聞く話では、父である王君も娘の選択を絶賛し、背を押したという。
王国で暮らす民の象徴ともいうべき王君一族において、自身の想定を覆すことが出来した。正解、不正解と分け隔てていたものの真偽が覚束なくなり、改めて考えを巡らせるようになった。
例えば、人の姿形は皆それぞれに異なる。それは当たり前のこととして受け入れている。性質や性格も千差万別で、好き嫌いはあっても、それを理解し受け入れている。
皆それぞれ違っていて良い。それが個性というものであり、種々の個性の存在が、きっとより良い未来を創造していくのだ。
人生の進路において、枠が必要な者もいれば、それが窮屈な者もいる。それ自体に善し悪しは無い。その者にとっての善し悪しが大切なのだ。
拵えた枠が窮屈だと感じているよう見える子ならば、枠を取り払い、自由に進ませてみせる。枠が無ければふらふらと不安定な歩みとなってしまう子ならば、相応の枠を拵えてみる。
それを見極める力に加えて、仮に自身の天秤に僅かな傾きがあり、子がその傾きとは逆に重きを置いたとしても許し、包み込める器量が、親には求められる。
それらに気付けたことは重畳と言えるかもしれないが、今更気付いても、もう遅いのかもしれない。すぐに戻ってくる、また会えると高を括っていたが、幾年も月日は流れてしまった。
今、どこで何をしているのだろう。離れ離れだった間、どのように暮らしていたのだろう。
多寡でいえば、少し稀有な存在かもしれない。受け入れられない年長者も、未だ少なくないかもしれない。同年代にも、面妖な者と陰口を叩かれているかもしれない。
それでも願う。
受け入れ、包み込んでくれるような年長者と出会っていることを。
互いの違いを尊重し合える同年代と、泣き笑いの時を共に積み重ねていることを。
そう願ってやまない。
コルンジュ病の猛威の中、人は突然いなくなってしまうのだと、強く意識させられた。だからこそ、家族を、その大切なひとりを、最初からいなかったものになど、出来ない。いつかまた会えたなら、家族の中へ戻ってきたなら、はじめに何を伝えようか。
「ルネル…」
口にした娘の名が風に攫われてしまわぬよう、マイサは両手を重ねて、口を覆った。




