『十五』
『15』
実父の存在とは、子にとって大きなものだ。揺るぎない土台として自身を支えてくれている者であり、その安定の中に無意識に浸っていたりする。
通常の父子はそういうものだと改めて理解すれば、自身の父子関係を鑑み、デルソフィアは苦笑を禁じ得なかった。苦いながらも笑みを浮かべるところは、最早諦めの境地とも言えたが、今は深く考えることをやめ、アジュへ思いを寄せた。
王君の容体は大事には至らなかったようだが、危機に瀕したという事実は、アジュの心に重くのし掛かったのだろうと容易に想像がついた。土台が瑕疵を抱えてしまったのなら、その上で支えられている者が不安定になるのは否めない。しばらくは行動を起こすのは無理だろうと判断し、アジュ抜きで東薬師堂の本堂内を探索をすることになるのではないかとデルソフィアは考えていた。
だが、その考えに反して、東薬師堂探索の初日から二日後、本堂内の探索にアジュの姿もあった。
本堂内の探索に係る許可は、すぐに下りたようだった。コルンジュ病の終息に向かう糸口となり得るものは、仮に微小なものでも、他の何よりも優先された。
ただ、結果的に今回、本堂内から目新しい糸口は見つけられなかった。
そうした中、探索の結果とは別に、デルソフィアの心に刻まれることが幾つかあった。
まずはアジュだ。
今回の探索に際してのアジュの様子は、明らかに前回と違って見えた。前回も、真剣味を帯びていなかったということは決してないが、今回は、真剣味を帯びるといった態を遥かに凌駕し、まさに鬼気迫るといった態だった。鬼気迫る表情で本堂内の至るところに視線を送るアジュの姿は、デルソフィアには異様に映った。
実父の生命を危機に晒した元凶であるコルンジュ病を一刻でも早く根絶したいという気持ちは、よく分かる。王国の頂にある王君一族として、民をコルンジュ病によって齎される苦しみ等から解放したいと願い必死に立ち向かう姿は、壮挙の只中にあると言えよう。
それでも、眼前の鬼気迫るアジュの姿と、自身が描き始めていたアジュという人物像との差が生じさせる違和感を、デルソフィアはどうしても拭えなかった。鬼気迫る姿を、アジュとして受け入れたくなかった。
こんな感情を抱くのは初めてかもしれない。誰かを自身が拵えた枠に嵌め、そこから逸脱することを厭悪してしまうなんて…。
初めての感情にデルソフィアは戸惑い、この戸惑いを分つ相手を探した。言うまでもなく、現状でそれは一人しか思い付かなかった。ルネルだ。
だが、東薬師堂本堂内の探索におけるルネルの様子も、普段とまた違った。口数が格段と減り、心ここに在らず、ここではない何処かへ気持ちを放ってしまっているようだった。
探索の前日、ルネルは所用があって出掛けると言っていた。出掛ける間際には、ミーシャルールからの頼まれごとも受諾し、出掛けていった。そこで何かがあったと考えるのが普通だ。
ルネルほどの尤物を一変させてしまう出来事とは、いったい何なのか。考えを巡らせてみるものの、解には至れない。本人に直接訊くのが一番だが、果たして訊いていい内容なのかどうか…。
そこまで思い至ったところで、デルソフィアは苦笑した。気を遣っている自身を自覚したからだ。
これまでも気遣いが皆無だったわけではないと思う。それでも、気遣いよりも自身の好奇が勝れば、そちらを優先していた。それが許される地位にいたことは否めず、咎められることもない状況下では、気遣いの心を養うことは難しかったと言わざるを得ない。
そんな自身が好奇を抑え、ルネルへ気を遣っていた。これは、成長したと捉えるべきだろうか。それとも、日和ったと捉えるべきだろうか。答えなど分かりようもないと、デルソフィアは再び苦笑した。
自身が歩む途上で、その解も明らかになるだろうと考え、とっくに食べ終わっていた夕食の後片付けをしようと立ち上がった時だった。
「何か、考え事?」
背後から声をかけられた。振り返らずとも声の主は分かったが、一体いつから背後にいたのだろうか。気配に気付けぬほど、自身の思索に没頭していたようだ。
「いや、そういうわけでは…」
振り返りながら、誤魔化す言葉が口をついていた。思索の対象である本人を前にしているとはいえ、不甲斐なさを自覚し、下唇を噛んだ。
相対したルネルは、真っ直ぐな眼差しでこちらを見ていた。威圧や媚びといった類の色は微塵もなく、ただただ真っ直ぐに澄んだ瞳に見えた。
その瞳の中にいる自身はどの程度かとの思いが芽生え、それを深く知りたいという気持ちが急速に広がっていきそうになるのを感じ、デルソフィアは慌てて口を開いた。
「どうした?」
些か間の抜けた問いという自覚はあったが、芽生えた気持ちの拡がりを抑えるにはやむを得ないと考えた。
「ん?どうしたって、こっち?何かあるのは、そっちじゃなくて?」
思わずはっとした表情となったデルソフィアは、続いて三度目となる苦笑を浮かべた。どうやら、お見通しのようだ。
抱いた想いの幾つかを沈め、それによって生じた浮力で一つだけを浮上させ、「アジュのことなんだが…」と切り出した。
少し意外そうな表情を浮かべたルネルだったが、すぐに「アジュ様、でしょ」と返してきた。
「ああ。そのアジュ様の今日の様子なんだが、どう見た?」率直に訊いた。
「どうって…。とても真剣だった。些細なことでも何か手がかりにはならないかって、必死に探しているんだと思ったけど」
「それだけか?」些か拍子抜けし、本音が口をついた。
「は?他に何があるっていうのよ」
少しむきになったルネルの返答を聞き、デルソフィアは得心した。ルネルもまた、今日は常とは異なる何かを抱えていた。心ここにあらずの態だった。恐らく、よく見ていなかったのだろう。これまで積み上げた人物像と感覚を織り混ぜ、当たり障りのない回答をしたにすぎない。
本来であれば、尤物のルネルがアジュの変化を見落とす筈がない。ルネルの抱えている何かが俄然気になり出したが、再び心奥へ沈めるよう努めた。
今はアジュのこと--デルソフィアは心内にそう言い聞かせ、鬼気迫るアジュの姿と、自身が描き始めていたアジュという人物像との差が生じさせる違和感を拭えず、鬼気迫る姿をアジュとして受け入れられないことを、ルネルへと明かした。
デルソフィアの話を聞き終えた瞬間、ルネルは目を瞠った。時間にすれば極めて僅かで、相対するデルソフィアも見逃すほどだったが、それは確かだった。
ルネルは、デルソフィアの確かな変化を感じ取っていた。恐らく初めてではないかと推察する、ある感情の芽生えをデルソフィアの中に認めていた。
微笑ましい喜びが満ちていくと同時に、デルソフィアの素性を知る者として一抹の危惧を禁じ得なかった。だが、最終的には喜びが勝っていった。
結果、ルネルは、アジュから打ち明けられた話を、デルソフィアへ伝えた。自分を信頼して打ち明けてくれた話を第三者へ漏らすことが、人道に背く行為だと解っていながらも、止められなかった。
デルソフィアなら何とかしてくれる--。
自身の喜びが、デルソフィアにも、そしてアジュにも波及してほしいと願う、純粋な想い故の発露だったが、この行為が、後の世界の運命を大きく変えていくことになるとは、もちろん知り得るはずもなかった。




