『十四』
『14』
王君の容体は大事には至らず、安定している旨を、先刻、就寝の刻限も迫るという宵闇の中、ルネルたちが寝泊まりしている基地まで、オルセーラ自らが伝えに来た。本当は、アジュ自身が基地への来訪を望んだそうだが、それは刻限のこともありオルセーラが強く諫め、アジュも最終的には従ったという。
オルセーラの話を聞いたルネルは、心底から安堵した。
駆け出していくアジュの後ろ姿が、瞼の裏に鮮明に焼き付いている。悲壮感の滲むその姿に想いを寄せ、アジュが再び家族を喪わずに済んで良かったと思った。
アジュが明かしてくれた母親への想いや、その想いを抱きながら貫く生。それらを改めて思い返すと、込み上げる感情を禁じ得ず、ルネルの頬を一筋の涙が伝った。
同時に、先日の父との邂逅に思い至り、自身の未熟さに恥じらいが湧き上がった。今、生きている家族と向き合うことすら出来ていない。それを、王女とはいえ自身より年少者の想いや行動によって痛感させられるとは、なんとも情けない。
アジュが心内に秘めたものを打ち明けるに値しない己の器量を自覚し、ルネルは両の拳を握りしめた。
共に行動することで共にする時も増え、王女という枠から逸脱した歳相応の姿を垣間見ることもあった。それは、今後も増えていくだろう。
好もしく思えた。近しさを感じた。共に行動することとなった運命に対し、抑えきれない喜びがあった。
明確な身分の違いはあるが、主従ではない。それはアジュも望んでいる。いうなれば、親友。そうでありたい。
ならば、アジュの傍で、共に行動するのに相応しい自身でいなければならない。
東薬師堂への再訪は明後日。明日一日ある。
もう一度、家族に会いに行く。浮かび上がるアジュの後ろ姿に、ルネルはそう誓った。
コルンジュ病を発症した者のうち、約一割といわれる急進行型の感染者、また、遅進行型でありながら症状が進行した重篤者は、王宮が王国街に複数設けた医療小屋に収容され、遅進行型でまだ症状の進行が緩やかな者などは、自宅で療養する旨が通達されていた。
急進行型感染者や重篤者は、コルンジュ病そのものを治療する薬がない今、やがて訪れる死を待つしかなかった。しかも、発症から一年以上が経ち明らかにされてきたコルンジュ病の悪辣さの一つとして、急進行型感染者や重篤者の方が、他者へ感染させる確率が高いという面があった。この知見により、王宮は医療小屋の設置及び対象者の収容を急いだわけだが、他者への感染率が高く、手を施す術がない者を一箇所に集め、感染の更なる広がりを抑止するという王宮の策は、ある程度奏功していた。
だが、一度収容された者がここを出ていくということは、すなわち死を意味していた。死に際して、住み慣れた自宅へ戻るという選択肢は排除され、近しい家族による看取りすら許されていなかった。これらの決断が、王宮にとっても苦渋の末であることを多くの民が理解していたが、不平不満を皆無にはできる筈もなく、それは少しずつ堆積していった。
一方、症状の進行が緩やかな者は自宅での療養とされたが、人的、物的の両面からそれを支えるのは家族であった。また、家族のいない者は、病を背負いながら、自らがその担い手とならざるを得なかった。
結果、コルンジュ病の感染者もそうでない者も、多くの民が家の外へ出て、コルンジュ病が蔓延している王国街へ繰り出さなければならなかった。自宅から出ずに仕事できる者など、限られている。仕事をせずとも暮らしていけるほどの蓄えがある者など、さらに限られた一握りだ。
危機に晒されながらも多くの民が、手袋を嵌め、強布で顔を覆うなど対策を施し、あるいは外出する時間をずらしたりしながら、己の仕事がある者はそれを継続し、仕事を失った者は新たな職を探した。或いは、コルンジュ病の影響で、親の仕事が立ち行かなくなった若年者、夫の仕事が上手くいかなくなった妻など、これまで働いたことのない者たちも、仕事を求めた。
王国街の名家に名を連ねるアーバイン家の婦人として何不自由なく暮らしてきたマイサ・アーバインも、そうしたひとりだった。夫や息子らの奮闘も虚しく、アーバイン家の家業もいよいよ行き詰まっていたからだ。
だが、何の仕事も経験したことのないマイサに担える仕事は限られていた。それは必然的に、他者がやりたがらない仕事となった。マイサが就いたのは、王宮が設置した医療小屋での感染者の世話係だった。
医療小屋の設置によって、ある程度は感染拡大を抑えられていたが、治るということがない現状では、死による感染者数の減少はあるものの、それを上回る新規感染者数が日々積み重なり、対応する医療従事者数が足りないという逼迫は続いていた。畢竟、各医療小屋で感染者の世話に当たる者の大半は、マイサのように非医療従事者となっていた。
手の施しようがない者より、まだ延命の可能性が高い者への対応に医療の専門家を従事させる--。非情ともみえるが、最早すべてを救うのが不可能となる中、この最終決断は王太子ホールンの英断と言えた。
その一方で、高齢者や若年者も含め、これまであまり働いた経験のない者がコルンジュ病の影響でやむなく仕事を求める弱みにつけ込んだ対策だと揶揄する者も少なからず存在した。そうした中、世話係を務める者たちの多くが、崇高な使命感を持ち、与えられた仕事に日々従事していたことが救いだった。
朝食を摂り終えたルネルは、出掛ける準備に取り掛かっていた。デルソフィアには朝食の際に、今日は一人で行きたい場所がある旨を伝えていた。
支度を整えて前線基地の外に出ると、そこにはミーシャルールとデルソフィアの姿があった。ルネルの姿を認めたミーシャルールが歩み寄ってきた。
これから実家に行きます--。その話をしようかどうか迷っていると、柔和な笑みを浮かべたまま、ミーシャルールが先に口を開いた。
「ルネル、あなたに一つお願いがあります」
お願いと言われ、ルネルは自然と姿勢を正していた。
ミーシャルールに頼られることは素直に嬉しい。同時に、それをきちんと果たさなければならないという責任が、身を引き締める。その心内状況が、ルネルには心地良くもあった。
ただ今日は、自身で決めた、やるべき予定があった。ミーシャルールからの依頼内容にもよるが、一日で両方をこなせるだろうかと考えながら、ミーシャルールが継ぐ言葉を待った。
「王国街の数箇所に医療小屋が設置されているのは、もう知ってるね。そこにはコルンジュ病の感染者、特に症状の重い方々が収容されている。実は、その方々に幾つかの薬を投与させてもらったんだ。もちろん、ご本人の了承が得られた方だけにね。
その投与結果の第一弾が、各医療小屋でまとまっている筈なんだよね。だからルネルには、この地図に記された場所にある医療小屋まで行って、効果をまとめ記した資料を受け取ってきてほしいんだよ」
資料を受け取ってくるだけなら、それほどの時間は要さない。ミーシャルールの依頼と自身の予定、共に今日中に対応できそうだとルネルは判断した。といっても、後者については事態がどう進展していくか、予想がつかない側面はあるが…。
ルネルが承知した旨を伝えようとした時、これまで黙していたデルソフィアが口を挟んだ。
「そういうことなら俺が…」
デルソフィアは、行きたい場所があるという朝食時の話を思い出し、代行を申し出てくれたのだろう。
「いや、駄目だ。これはルネルにやってもらう」
ルネルが口を開くよりも早く、ミーシャルールが断じた。それは、思いがけないくらい強い語気だった。
一瞬、辺りは沈黙に包まれたが、自らも発した語気の強さに気付いたかのように、ミーシャルールは苦笑した。そして、「頼むね」とだけ口にして、基地の中へ戻るべく踵を返した。
「わかりました」ルネルは、その背に言葉を返した。
その場にルネルとデルソフィアの二人だけが残る形となった。
「ミーシャルールの考えは分からないが、俺も共に行こうか?」
ミーシャルールが入っていった基地の入り口を見遣りながら、デルソフィアが言った。ルネルは首を振った。
「大丈夫。これは、あたしの仕事だから」
ミーシャルールに指示された医療小屋は、前線基地からそれほど離れていなかった。それは、周囲よりは少し小高い高台に設置されていた。ミーシャルールからの説明はなかったが、ここがどのような場所かは、ルネルも理解していた。
木で拵えた小屋を白く塗った外観は、周囲から浮き立っていた。死を待つしかない者たちを集めた場--そうした後ろ暗さを払拭するために、意図的に白を強調したのかもしれないが、その白さがルネルには死を連想させた。
両手に装着した手袋、顔の下半分を覆った強布、改めてそれらを確認し、ルネルは小屋の中へ入ろうと入り口と思しき扉に見当を付けた。そこへ向かい一歩を踏み出した時、扉が開き、中から一人の女性が出てきた。
白衣を纏い、手袋をした両手で持つ籠からは衣類らしき内容物が今にもこぼれ落ちそうだった。自然の流れで、その者の顔へと視線を移した。
強布で顔の下半分を覆っていたが、それは関係なかった。その顔を認め、ルネルの身体はみるみる硬直していった。
何故、ここに…。
まずは疑問が膨れたが、込み上げる懐かしさ混じりの感情が身内を支配すると、至る箇所から涙腺を刺激した。一粒の涙がこぼれると、決壊した河のように止め処なく涙が溢れた。
それは実母、マイサ・アーバインに間違いなかった。




