『十三』
『13』
罪なんて犯していない--。
あなただって、そうなんだ--。
その言葉たちは、何も穿つことなく、真正面から心の扉を開いてきた。
自身は、母の生命を奪ってしまった罪人だと自覚してきた。
一体いつからだっただろう。もう思い出せないくらいの時間、その自覚は傍らにあり続けている。
罪人らしく、拵えた檻から逸脱しないように生きてきた。声を挙げて笑うことも、或いは泣くことも、夢を描いて心を弾ませることも、無い。はじめは枷のように禁じた事柄が、今は自然と備わっている。
母の身代わりの生なら、己を捨て、他のために生きることだけに注力してきた。その選択を後悔することもなく、そんな生を自己憐憫することもなく、上手くやってきたと思う。
それなのに…。
自身が抱く罪をデルが知悉している筈がなく、毎日を必死に生き、コルンジュ病に立ち向かっている者たちを総じて語っているのだということも解っている。
それでも、デルの言葉は堅牢な檻を越え、心へと通じる扉を開いてきた。力任せではなく、策を弄することもなく、優しく、容易く。
言葉を口にしたのがデルだという側面があることは、認めざるを得ない。今のアジュにとって、家族と同等、或いはそれ以上の存在感を放っている者。一過性であったとしても家族と同等の領域に踏み込んでこれたことが驚異的なのだが、一方で一過性ではないことを願う己がいることも自覚する。
思わず溜息が溢れてしまう。
何故なの…。何度自制しても、それを越えてくる。何度も何度も。
謎を纏った尤物な姿に、その正体を知りたいと欲する。自制する。
正体を知り得るのが難しければ、何者かに拘泥する気持ちは消え、これから何者になっていくのかを見ていたいと欲する。再び、自制する。
ひとりの少年が何者かになっていく姿を、傷付き彷徨いながらも成長への確かな一歩を刻んでいく姿を瞼の裏に焼き付けられるよう、触れられるくらいの距離にいたいと欲する。また、自制を繰り返す。
「デル…」
思わず口にし、その響きが自らの耳朶を打つと、恥じらいが湧き上がった。恥じらいが克己心を立たせ、もう一つの側面へと思慮を至らせる。
より戦慄する側面。心奥のさらなる深淵に、己も気付いていなかった想いが眠っていたというのか。
……許されたい--と。
アジュは累卵な心を抱えたままだったが、デルとルネルと三人で行動する初日は予定通りに東薬師堂を訪れた。アジュ自身、東薬師堂には数える程しか訪問したことはなく、その記憶とも劇的な相違は見られず、東薬師堂はただそこにあった。
アジュが本堂の前に佇み、記憶の整合を図っている間、デルとルネルは辺りを探索した。しかしながら、目を引くものは特段無かったようだ。探索を終えたデルとルネルは、佇むアジュを挟むようにして立ち、本堂へ目を向けた。
「やはり、この中に入るしかありませんね」ルネルが本堂を指差した。
「本堂に?」
「ええ。周囲には、特に気になる箇所は見当りませんでした。恐らく、この中も既に誰かが探索されているとは思いますが、探す目が変われば或いは…」
「そうね。でも、本堂に入るには許可がいるわ」
「アジュ様の許可で、俺たちが入るというわけにはいかないのであろうか?」
右頬にデルの視線を感じた。途端に身体が硬直し、なかなかデルの方を向けなかった。このままでは不審がられてしまう。下唇を噛み、ゆっくりデルの方を向いた。目が合うと吸い込まれそうになったが、その焦点をぼやけさせて対処した。
「私では駄目。中には薬師仏が安置されているのだけど、通常は人の目に触れさせてはいけないの。特別な時にだけ許可が降りるのだけど、許可を出せるのはお父様…いや、いまは兄だけになるわ」
「なるほど。では、一旦王宮に戻り、許可を得にいこう」
「許可が降りるかしら?」
これにはルネルが応えた。
「それは大丈夫でしょう。コルンジュ病と闘っている今は、間違いなく特別な時ですから」
アジュは即座にルネルの方へ向き直り、頷いた。
自身の眼差しを受け止めるルネルを見つめながら、出会ってから今日で何度目になるだろうかと考えた。僅か数回程度だと自覚すると同時に、心内に温かみが滲んでいった。
ルネル・アーバイン。この少し年長の同性には、不思議と近しいものを感じている。
生まれも育ちも、恐らく性格だって違うのに、姉や兄、父といった家族とはまた別の近しさがある。それを拠り所にしたいとさえ思う自分がいる。結果、これまで誰にも話したことのない話を、あの日、あの高台で、ルネルへ吐露した。
自身の出生に起因する母への想い。そして、自らの生が纏う宿命。
助けてほしいわけではない。分かち合ってほしいわけではない。
ただ聞いていてほしかった。横に並んで聞いていてほしかった。そんな役割をルネルに求めていた。
応えてくれたルネルを前に、近しさや親しみを構築するのに、時の長短は関係ないのだということを知った。ルネルは、時という要件を容易く無力化し、今、親しみと共に近くにある。
親友…。
親友とはこういうものかもしれない。そう考えながら、アジュはそっとルネルから視線を外した。
想定していたこととはいえ、三人で行動した初日は、何一つ成果らしい成果を挙げられなかった。ただ、本堂の中へ入るという次への繋がりは残した。
確かに、本堂の中の探索は既に行われている。だが、ルネルの言葉を借りれば、探す目が変われば、これまでは死角となっている箇所に目が届くかもしれない。
可能性は極めて低くとも、決して無為ではない。共に行動する親友のルネルの存在が、尤物なるデルの存在が、そう思わせた。
王宮へと戻ってくると、門の前で待つオルセーラの姿があり、アジュは思わず目を瞠った。強布で顔の下半分を覆っているとはいえ、この状況下でのオルセーラの行動は、更なる非常事態の出来を告げていた。
こちらに気付いたオルセーラは足早に駆け寄ってきた。三人の眼前に立つと、デルとルネルを気にする素振りを見せた。
「この二人なら、大丈夫。何があったの?話して」
デルとルネルを一瞥した後、頷いたオルセーラは切り出した。
「先刻、ソイエル様のご容体が悪化いたしました。ジュス様はじめ医師団が懸命に治療にあたっておられます」
全身を打たれたような衝撃が走った。症状は軽くなく病床を離れられなかったが、遅進行型であり、可もなく不可もない現状がこのまま推移していくものと高を括っている自身が、どこかにいた。とんだ思い違いだった。遅進行でも、病は確実に父を蝕んでいたのだ。
母の面影が脳裏を過り、続いて父を喪う恐怖が鎌首をもたげた。
アジュの足は竦んだ。早く父のもとへ行かねばならないのに、根が生えてしまったように、両足は微動だにしなかった。焦燥が募り、背筋を冷たいものが走った。
その時だった。左肩に、そっと手が添えられた。振り返ると、それはデルの手であることが分かった。
「早く、王君の部屋へ向かわれた方がいい」
鎮痛な表情だったが、その眼差しからは優しさや温かさが溢れているように見えた。それらが身内にもじわりと拡がると、足の竦みは消えていった。
アジュは小さく一度だけ頷くと、踵を返して駆け出した。オルセーラはデルとルネルに一礼し、アジュの後を追った。
アジュがソイエルの居室へ駆け込み、寝室へ入室すると、ソイエルの長床を幾人もが囲んでいる光景が目に入った。最も至近距離には白衣姿のジュスが立ち、そのすぐ後ろにはホールンの姿もあった。
長床を囲む者は皆、ホールン以外は白衣を纏っており、医師か医療の関係者であることは明白だった。政大官のヘリオンをはじめ、父の側近である王宮幹部は長床からは距離を取っていた。寝室には入らずに、外で待機している者も多くいた。コルンジュ病が蔓延している禍中では賢明な判断だと言えた。
「アジュ様…」
側近の一人が、アジュの姿に気付き、溢した。その言葉に室内にいた皆が反応し、ジュスやホールンもアジュへと視線を向けた。
ジュスと目が合ったアジュは、「お父様は?」とだけ口にした。唯ならぬ光景を前に、それだけを口にするのが精一杯だった。
一瞬の沈黙の後、険しさを伴っていたジュスの表情が和らいだ。手招きをして、アジュを呼ぶ。それに導かれ、アジュは父の長床のすぐ近くまで進んだ。
長床に横になる父を見下ろした。すぐに、呼吸していることが分かった。ジュスへと振り返った。
微笑を称え小さく頷いた姉は、「もう大丈夫。容体は安定したわ」と言った。
アジュは思わず天を仰いだ。安堵が身内へ拡がっていく。込み上げるものがあり、溢れそうになる涙を何とか堪えた。
泣いてはいけない。泣く資格など、無い。
コルンジュ病との闘いと称して、自身の想いへ傾倒していた。コルンジュ病との闘いを隠れ蓑にし、自身のための想いの芽生えを許していた。
芽生えた想いは瞬く間に肥大し、心を侵食していった。デル--突如現れたこの者の存在が、日に日に心の占有率を上げていった。
このままではいけない。今なら間に合う。この想いを心から追い払わねばならない。
家族から家族の一員を、兄姉から母を、父から妻を奪った者が、自身の想いを優先し、それに準じて行動することなど許される筈がない。
今、抱くべき想いは、コルンジュ病の終焉と罹患者たちの治癒。ただそれだけであるべきなのだ。
「…良かった」
アジュはそれだけ口にすると、その場を去ろうとした。
「もう行ってしまうの?」呼び止める姉の声が、心に温かく響いた。
下唇を噛み、ジュスの方へ振り返ると、毅然とした態度で言った。
「私には私のやるべきことがあるわ。それに尽力します」




