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第5話 癒しと驚き

木曜日に矢内さんの葬儀に出席したので、その翌日は1日中気分が沈みがちだった。親戚の葬儀には何度か出席したことはあるものの、急に倒れて亡くなった方の亡骸を目の当たりにしたのは初めてだったので、ほとんど部外者に近い立場とはいえ、その場の人々の深い悲しみには気持ちを揺さぶられるものがあった。矢内さんのお嫁さんは友基に丁寧にお辞儀し、故人と1回しか会ったことがないのに彼がわざわざ葬儀会場にまで足を運んでくれたことに深い感謝の意を表してくれた。

「今日は本当にお越しいただいてありがとうございます。今の私が言うのも何ですけど、人はいずれ必ず亡くなるもの。お義父さんも最期にあなたのような方に親切にしていただいて、本当に幸せだったと思うわ」

溢れ出る涙を拭いながら、気落ちしている友基を元気づけるために笑顔を作っているお嫁さんの姿を見て、余計申し訳ない気落ちになった。

帰宅して風呂に入ってもまだ暗い気分は振り払えず、その晩はめずらしく自分から明里に電話をかけた。

「ごめん。まだ帰ってきたばかりだからもう少しあとで電話しようと思ってたんだけど。何かあった?」

友基の声音が暗いのに気づいたのか、明里が心配そうに訊ねた。

「別に何もないよ」友基は言った。

「うそよ。あなたがこの時間に自分から電話かけてくるなんて、天変地異が起こったとき以外は考えられない」明里は言った。

「いや、急に明里の声が聞きたくなっただけなんだ」

それは本当だったが、普段もっぱら相手に甘えてくるのは友基ではなく明里の方だったので、彼女はあまり信じていないようだった。

「まだ用事があるから、あとでかけ直していい?」

明里はそう言って一旦電話を切った。1時間後、友基は自分が助けたおじいさんが翌日に亡くなってしまったというあまり恋人にするには相応しくない出来事をいつの間にか彼女に打ち明けさせられていた。明里はさすが教師志望というだけあって、人の話を聞くのがかなり上手かった。

「たしかに、タイミング的にはユウくんがショック受けるのもわかるよ。いくら、自分の行為がその方の寿命を縮めたわけではないってわかっていても、気持ちのいいことではないよね」

明里は言った。

「あんなに切なくなったのは久しぶりだ。なぁ、明里。今から家に行ってもいいか? 無性にきみの顔が見たい気分なんだ」友基は言った。

「私だって会いたくてたまらないけど、もう少しだけ待って。来週前期の試験が全部終わるから、そうしたら一緒にいっぱいデートしよ。それまでは私、ユウくんに会うの我慢して勉強頑張るって決めてるから」

明里は言った。

「明里の顔見たら5分で帰るよ。勉強の邪魔はしないから」友基は言った。

「ダメよ。ひと目でも会っちゃったら、5分で別れられるわけがないもの。ご存じじゃなかったなら改めて言うけど、私はユウくんのことが好きすぎるの。ときどき、気が狂うんじゃないかと思うくらいあなたに恋焦がれてる。だからこそお願い、会うのは来週末まで待ってほしい」

明里は言った。彼女は意思がとても固いので、これ以上何を言っても譲歩してくれないのは経験上よくわかっていた。

「俺も大好きだ。早く会って明里を抱きしめたい。こうなったら、時間が矢のようにあっという間に過ぎ去るのを待つしかないね」

「来週末、ユウくんのお家に行ってもいい? それか、私の家に来てくれてもいいけど。まったりお家デートしながら、ユウくんのおすすめの映画、ふたりで一緒に見たいな」

明里が誘うような声で言った。それからふたりで土日のデートの予定をあれこれ話し合っているうちに、いつの間にか友基の暗い気持ちはある程度回復されていた。

しかし、友基はその晩悪夢を見た。夢の中で彼は芦屋川沿いの歩道にいて、すぐ目の前に杖をついた高齢の男性がふらつきながら歩いている姿が見えた。間違いなくそのおじいさんは矢内さんだった。友基は次に待つ展開がわかっていたので急いで矢内さんのそばにかけ寄ったが、今回は現実で起こったこととは違い間一髪で彼の助けの手は間に合わず、矢内さんは派手に体勢を崩して車道に向かって倒れ込んだ。タイミング悪く道路を通過しようとしていた軽自動車の運転手があわててブレーキをかけたが、努力虚しく車は矢内さんにまともに追突して、河川側のガードレールまで身体を吹き飛ばした。帰宅途中の学生たちの悲鳴が響き渡り、アスファルトは血の海となっていた。友基は激しく肉体を損傷して倒れている矢内さんの傍らにひざまずき、必死に名前を呼んだが、すでに彼が事切れていることはひと目見ただけでわかった。光を失った矢内さんの両目が、何かを訴えかけるようにじっと友基の顔を向いているように見えた。


翌日は昼からの講義だったが、特にやることもなかったのでゆっくり起き出して10時ごろ〝穴倉の陰キャたち〟の部室に向かった。ドアを空けたとたん、ここ最近学内で行方不明だったはずの溝口響花がいたって普通の顔でひとりで座っていたので、友基は驚きのあまり購買で買ったりんごカスタードパイの袋を手から落としてしまった。

「あ、友基くん、おはよう」

響花が読んでいた本から視線を上げて言った。。マックス・ウェーバーの〝プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神〟だ。趣味で読むにはあまりにも難しい本なので、おそらく講義の宿題として読んでくるように教授から言われたのだろう。

「おはよう、じゃないって。この2週間、講義にもサークルにも出ないで何やってたんだよ。皆、心配してたんだぞ」

友基は言った。先輩らしく怒っている雰囲気を作りたかったが、姿を見ただけで安心してしまって、到底きつい口調にはなれなかった。

「ちょっと色々あって、何もする気が起こらなくなったの。ねぇ、そのパン拾わなくていいの?」

響花は床に落ちたカスタードパイを指さした。友基はパイを拾うと、彼女が座っているソファの反対側に腰かけた。たいてい10時をすぎると部室に3,4人はくつろぎにきているものだが、この日にかぎって響花しかいなかった。響花は元来内向的な人間で、他の部員たちに対しては今でも何となく萎縮していたが、友基にはなぜか圧倒的に心を開いていて、先輩の中で彼女が唯一タメ口で話すのも友基だけだった。以前その理由を聞いてみると、「お兄ちゃんと雰囲気が似ているから」と言われて呆気に取られたのをよく覚えている。実の兄のように慕ってくれているのなら嬉しいが。

「響花少し痩せたか? ごはんちゃんと食べてんのかよ」

友基は彼女の様子を観察しながら言った。響花はシックなキャミソールワンピースの上からクロシェ編みのカーディガンを羽織り、ローファーを履いていた。

普段大学に来ているときは必ずハーフアップに編み込んでいた長い髪の毛は無造作に下ろされ、メイクは完璧にはほど遠く、好んで塗っていたはずのネイルも指1本施されていない。それどころか顔色は悪く、目の下の隈ははっきり浮き出ていて、表情そのものにゾンビ感が漂っていた。この2週間で彼女の身に何かショッキングなことが起こったのは、隠しようがなかった。

「ごはん? うーんよく覚えてないけど、1日に1回はかろうじて食べてるかな。何も食べたくない日もあるけど」響花が言った。

「全然食べれてないじゃん。やっぱりお前、何か嫌なことあったんだろう? 今なら誰もいないし、俺でよかったら力になるから、何があったか話してみ」

友基は言った。響花はしばらく悩みを打ち明けるべきか逡巡しているようだったが、やがてまっすぐに彼の瞳をのぞき込んで言った。

「絶対に誰にも言わないって、約束してくれる?」

「ああ、約束する」友基も真剣な顔で彼女の目を見つめた。響花はしばらく視線を離そうとしなかったので、このタイミングで他の部員が入室したら、ふたりが逢い引きしていると勘違いされたかもしれない。

「実は、好きな人がいるの」響花はそう言ったあと、軽く首を振った。

「正確には、〝好きだった人がいた〟ね。もう過去形だから。2週間前に私、好きだった人に告白してあっさり振られたの。私が大学に一切来なくなったのはそれが原因、わかりやすい女でしょう?」

「誰しも失恋はつらいものだし、日常生活がまともに送れなくなるぐらいショックを受ける気持ちもわかるよ。べつに恥に思うことじゃない」

友基は言った。急に優しい言葉をかけられたからか、それまで無表情だった彼女の瞳がみるみる潤み始め、あっという間に一筋の涙が頬を伝った。

「つらかっただろうし、この2週間のあいだ何もしてやれなくてごめん。事情を知っていれば、気晴らしにドライブくらいは連れていってやれたかもしれないけど」

友基は響花がハンカチで涙を拭う様子を見ながら言った。

「でも、大学に出てこられるようになったってことは、ある程度失恋のショックから立ち直れたって思っていいのかな?」

響花は考える暇もなく即答した。

「全然ダメよ。あれから2週間経ったけど、私の胸に空いた大きな穴はまったく塞がってない。家にいたって苦しいだけだから大学に来てみたけど、やっぱり大学にいてもつらさは変わらないわ」

響花は自分の心の叫びを抑えつけるかのように、右手を胸の上に置いた。そして、今の友基には恐ろしすぎるひと言を放った。

「もうこの愛を失って生きてはいけない。私、これから死のうと思っているの」




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