第4話 日常の蹂躙
午後19時、三ノ宮・生田ロードの雑居ビルの5階にある完全個室の居酒屋の中に入ると、すでに待ち合わせの相手は座敷の上であぐらをかき、大きな背中を丸めて日本酒を飲み始めていた。友基の高校時代の恩師、小寺尚文は引き締まった身体を持つ身長180センチの長身の男で、学校帰りなのかグレーの背広をしっかり着ていたが、ネクタイを外しあごに無精髭を生やしているためかそこら辺のサラリーマンより数倍だらしなく見えた。
「友基久しぶりだな。まぁ、座れ」
小寺先生はテーブルの向かい側をあごで示すと、景気よくひと口おちょこで酒を飲みほした。
「お疲れ様です、先生。もうお酒入ってるんですか?」
友基は少し呆れながら言った。小寺先生は普段はそれほど酒豪ではないが、たまに機嫌が良いときに飲むとびっくりするくらいお酒のペースが早いときがある。先生もまだ来てからそれほど時間は経っていないはずだが、すでに頬がほんのり赤くなっていた。
「最近、トレーニングで節制してたからな。家では禁酒を宣言してしまったから、嫁の目を盗んで酒を楽しむのはこういう飲み会の席しかない」
小寺先生は豪快に笑いながら言った。
「酔っ払って帰ったら、余計怒られますよ。大体、大会の前にそんなにお酒飲んで大丈夫なんですか?」
友基は言った。
「大丈夫、本番まであと数日あるし、今日以降は再び禁酒するからアルコールの影響はないはずだ。必ず今回のレースは完走すると決めている。そのために毎日家族サービスの時間を犠牲にして準備に励んできたんだ」
小寺先生は目を輝かせながら言った。彼は根っからの運動好きの体育教師で、陸上部顧問として生徒たちの練習を指導する傍ら、自分自身も筋トレやランニングの厳しいトレーニングを毎日欠かすことなく積んでいた。すでに5回のフルマラソン出場経験があり、そのすべてて完走していた(ベストタイムは3時間25分)。そんな小寺先生だが、40歳を迎えた今新たなチャレンジをしてみたいということで、数ヶ月前からトライアスロンのトレーニングに取り組んでいた。10万円以上するロードバイクを購入したり、土日は必ず市民プールに泳ぎに行くという努力を積み重ね、いよいよ初のトライアスロンのレースが今週末に迫ってきていた。
今回の飲み会には、その決起集会の意味もある。
ふたりは生ビールで乾杯し、チキン南蛮、いかのゲソ焼、明石焼、サーモンユッケ、ハッシュドポークなどを食べながら友基の高校時代の思い出話に花を咲かせた。友基は高1のころ手のつけられない不良で、他校の生徒たちと喧嘩に明け暮れたり、喫煙やコンビニでの万引き行為で繰り返し警察に補導されるなど、荒れた高校生活を送っていた。両親や担任教師も対応を投げ出すなか、ただひとり友基に手を差し伸べてくれたのが当時体育の授業のときしか友基と節点のなかった小寺先生だった。小寺先生は彼を教官室に呼びつけるのではなく、何度も自分から彼が悪友とたむろしている公園やコンビニの駐車場に出向いて、「できる限り協力するから、一緒に学校生活をやり直してみないか?」とひたすら友基を根気よく説得してくれた。最初は反発することしかできなかった友基も、毎回真剣に自分のためを想って話をしてくれる小寺先生を見ているうちに、少しずつ心を開いていった。万引きが見つかったときには信じられないほどの怒声で彼を叱ってくれただけでなく、担任に代わって相手方に一緒に謝りにも行ってくれた。自分のために必死に頭を下げて許しをこいてくれている先生の姿を見て友基は生まれて初めて、他人を信用してもいいような気持ちになった。
さらに小寺先生は彼を自身が顧問を務める陸上部に入部させて、無気力な学生生活を送っていた彼にスポーツに打ち込む喜びを教えてくれた。友基はハードル走の魅力に取り憑かれ、先生の指導の元躍起になって競技に取り組んだ結果、高3の夏に見事110Mハードルでインターハイに出場することができた。
そのおかげで自分に自信がついたし、陸上の成績を残すたびにそれまで彼を不良として恐れていた周囲の生徒とも少しずつ仲よく話ができるようになっていき、やがて多くの同級生・後輩たちから慕われる存在へと変貌していった。小寺先生があのとき助けてくれていなければ、今の友基の恋人やサークル仲間に恵まれた楽しい大学生活も絶対になかったに違いない。友基はそのことを未だに深く感謝しているからこそ、今でもこうしてふたりきりの飲み会という形で、1、2ヶ月に1回は必ず恩師に会う機会を設けているのだった。
「小寺先生に1度聞いてみたかったんですけど…」友基もビールを2杯飲み、いい感じに気持ちよくなってきたタイミングで訊ねた。
「どうして先生はあのとき、あんなに一生懸命になって僕のことを助けてくれたんですか? 先生だって自分が担任してるクラスの生徒や、陸上部の子たちのことを考えているだけで相当忙しかったはずですよね」
小寺先生は軟骨のから揚げをゆっくりと噛みしめながら、しばらくその質問について考えていた。
「何でだろうな? 友基には悪いが、俺も今となってははっきりとした理由はよく覚えてない。ただ、1回体育の授業でバスケをやったときに、ドリブルの仕方がわからない子に友基が丁寧に教えてやっている姿を目撃したことがあって、〝あいつ不良って聞いてたけど、けっこういい奴じゃん〟って思ったのはよく覚えてる。だから、少し時間はかかったとしても友基は最終的に絶対に更生できる、って自信だけはあった。他の先生たちからは、〝自分が受け持ってる生徒の様子だけ見てろ〟って文句を言われたけどな。今立派になった友基を見て、あのとき介入してよかったと思ってる」
「いや、今の僕があるのは全部先生のおかげですよ。一生感謝してますし、ずっと元気で教師を続けていてほしいです」
「あんまり褒めるなよ。感傷的になったら、せっかくの酒がまずくなるだろ。大体、そういう言い方はもっと高齢の、大ベテランの教師に対して言うもんだ」
小寺先生は明らかに照れた様子で、ヘアワックスで固めた髪をかきむしった。
「ところで、娘たちの写真また撮ってきたんだが、見るか? 最近また嫁に似て美人になってきて、困ってるんだよ」
あからさまな話題逸らしだったが、小寺先生のお子さんたちが可愛いのは事実なので友基は素直にうなずいた。先生には10歳と6歳になるふたりの娘がいて、それこそ目に入れても痛いないくらいに溺愛していた。小寺先生のiPhoneには1000枚以上の娘さんの写真が保存されており、会うと必ず1度は友基に見せてこないと気が済まなかった。
「琴乃ちゃんすごく身長伸びましたねぇ。綾乃ちゃんはどの写真見ても先生にくっついていて、よっぽどパパのことが好きなんですね」
明石海峡公園で満開のアジサイをバックに撮られた写真を次々に眺めながら、友基は言った。
「まだ小1だからな。ふたりともまだまだ子どもだけど、いつかこの子たちがお嫁に行く日まで、お父さんは頑張って働かなきゃなと思うわけよ」
小寺先生は酒の影響か、少し目を潤ませながら言った。
「いいですね。僕もいつか結婚して子ども作って、先生みたいに家族を守れる強い男になりたいです」
友基は言った。
「友基ならなれると思うよ、俺が保証する。ただ、お前の鍛え方は全然足りないけどな。腕立て伏せと腹筋くらい毎日ちゃんとやれよ。今は若いから大丈夫かもしれないが、30近くなるとあっという間に身体つきがたるんでいくぞ」
「注意しときます」友基は言った。自分でも最近筋肉がないことを気にしていたが、ダボッとした服の上からでもやはり先生には見抜かれていたらしい。
飲み会は2時間弱で終了し、会計はいつもの通り小寺先生が全額払ってくれた。友基がご馳走になったお礼を言うと、先生は笑顔で手を振って言った。
「いいってことよ。卒業してからもこんなに頻繁に会いに来てくれる教え子なんて友基しかいないから、俺は純粋に嬉しいんだよ。日曜のトライアスロンデビューも見に来てくれたら、よりよかったんだけどな」
「さすがに千葉までトライアスロン見に行くのはきついです。こっちで応援してるんで、次は先生の完走祝いできるように頑張って下さい」
最後に駅で別れるとき、ふたりはがっちりと固く握手を交わした。姫路に向かう新快速電車に乗り込む大きな背中。それが友基が小寺先生を見る最期の姿となった。