第3話 暗雲
結果的に智絵の家にたどり着いたときには、本来の訪問時間を1時間以上経過していたが、智絵も母親も特に怒った様子もなくいつものように温かく友基を迎え入れてくれた。智絵はいつものようにお団子のヘアスタイルに楽な部屋着とスカートで、母親も友基が訪問する日は心なしか化粧に気合いが入っていた。
「友基くん災難だったわねぇ。おじいちゃん大丈夫だった?」
智絵の母が訊ねた。夕食の準備をしている途中らしく、ポケットの上に可愛らしい猫のイラストが描かれたエプロンを着けている。
「かなりおじいさん歩き疲れてましたけど、無事に自宅まで送れたんでよかったです。すいません、今日到着が遅くなっちゃったんで終了時間を1時間遅くにずらしたいんですけど、大丈夫ですか?」
友基が言うと、智絵が「えぇーっ」と不満を漏らした。どうやら、2時間の授業時間のうちの半分は友基が遅刻したことでサボれると思っていたらしい。
「相変わらず、真面目ねぇ。私は全然大丈夫よ。ちょっと夕食の時間は遅くなっちゃうけど。智絵、それぐらい我慢できるわね?」母親は言った。
「仕方ないなぁ」智絵は嫌そうに言いながらも、顔がニヤけるのをごまかすことができなかった。勉強は好きではなくても、友基と一緒にいられる時間が増えるのは彼女にとってまったく苦痛ではなかった。
家人につられて玄関まで走ってきたミニチュアダックスフントの〝ペソ子〟を軽く撫でたあと、ふたりは2階にある智絵の部屋に移動した。壁紙、ベッド、小物などあらゆる物がピンク色を基調にされているいかにも女の子らしい部屋で、友基は最初来たときはひどく居心地の悪さを感じたものの、今では特に違和感なく授業に集中できるようになっていた。
ふたりは並んで座り、さっそく智絵の1番苦手な英語の勉強に取りかかった。学校のテキストを開き、彼女がどうしても理解できないという現在完了形の例文をひたすらノートに書いて覚えてもらった。友基はいくつか即興で文章を作りながら構文の成り立ちについて詳細に解説した。
「I have finish homeworkだったら、finishが過去分詞形になってないだろ。正しくは、I have finished homeworkだよ」
友基は言った。
「そっか。必ずhave~過去分詞形が必ずセットになるのね」
智絵は頭を抱えながらも、ノートに書いた文章に赤ペンでアンダーラインを引いて、間違いを修正した。友基の字より遥かに綺麗で文章のまとめ方も上手なので、ノートだけ見たらどちらが大人かわからない。友基の授業ノートは必要な要素をすべて詰め込もうとして余白もなくぎっしりと乱雑な文章を書き連ねているので、時々自分で読み返しても何て書いているのかわからなくなる。
「友基お兄さんにお願いがあるんだけど、聞いてもらってもいい?」
テキストをめくって新しい問題を解きながら、ふいに智絵は上目遣いになって言った。
「急になんだよ。高額なプレゼント買えとか言うんじゃないだろうね」
友基は言った。智絵に改まってお願いごとなどされたことがないので、何を言われるのか予想もつかない。
「そんなんじゃないよ。まぁ、プレゼントと言えばプレゼントってことになるのかもしれないけど」
智絵は言った。
「来週の英語のテストで90点以上取れたら、1度でいいから友基お兄さんにデートに連れて行ってほしいの。場所は近場の王子動物園とかで十分だからさ。ねぇ、考えてみてくれる?」
智絵が自分に対してずっと憧れの気持ちを抱いていたことは知っていたが、いざ頬を赤らめながら誘われると、友基も気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。ただ、苦手な英語で90点以上を取るというのは彼女にとってはかなりのハードルだし、勉強のモチベーションを上げるためにご褒美を用意してあげるという提案自体は悪くないように思えた。友基の彼女の明里も、まさか中学生相手に嫉妬したりはしないだろう(もちろん、事前にデートの許可を得るつもりではいるが)。
「わかった。テストで90点以上取れたら、どこでも一緒に行ってあげるよ。その代わり、真剣に勉強頑張れよ」
友基は言った。
「やったぁ! ありがとう、お兄さん! 大好きだよ」
智絵はまだデートに行けることが決定したわけでもないのに、飛び上がって全身で喜びを表現した。
浮かれすぎて逆にそのあと勉強に身が入っていないように見えたが、ふだん真面目な部分が多い智絵が中学生らしく無邪気にはしゃいでいる様子を見るのは友基にとってかなりの癒やしとなった。
1日の勉強を終えると、智絵の母親の計らいで友基は一家と一緒に晩ご飯をご馳走になることになった。これまでにも断りきれずに数回夕食を頂く機会があったが、智絵の母親の作る料理はいつもプロの料理人級に美味しかった。この日のメニューは手作りのデミグラスソースがたっぷりかかったハンバーグステーキで、1年以上ひとり暮らしをしている友基にとってはたまらなく魅力的な手料理だった。頬がこぼれ落ちそうなハンバーグに舌鼓を打ちながら智絵の両親と世間話をしていると、急に姫路の実家の一家団欒が懐かしく思えてくるほどだった。友基は食べ終えると母親に夕食のお礼を言い、満面の笑みで見送りにきた智絵に手を振って、彼女の家をあとにした。
その晩はなかなか鏡台の方が気になって眠れなかった。夜中に何度もトイレに行くついでに暗闇の中鏡を見つめたが、黒髪の女性の姿は映っていなかった。友基は今朝見たものすべてが幻だったと思い込もうと努力したが、どう考えても鏡の周囲からまがまがしい空気が発散されているのは隠しようがなかった。彼が知らないだけで、この部屋自体があるいは事故物件なのかもしれない。とても重苦しい雰囲気の中、どうにか深夜2時ごろ、眠りにつくことができた。
翌朝は多少寝不足ではあったものの、講義は2限目からだったので特に寝坊することもなく時間に余裕を持って大学に到着できた。部室にはすでに徳原恵理佳と和久井弘美の騒がしい2回生コンビがいて、スマホで何かのアイドルのTikTokを見ながら朝っぱらとは思えないテンションで大笑いしていた。友基は「ちっす」と言ってふたりと軽い感じで挨拶をかわすと、無意識に離れたパイプ椅子に座り、購買で買ってきた朝ごはん代わりのチョココロネの袋を開いた。
「友基、久しぶりだねー。彼女元気にしてる?」
恵理佳が言った。この2回生コンビは同級生ということもあり、友基や比佐司のプライバシーに平気でずかずかと踏み込んでくる。恵理佳はなぜか、会うたびにまず友基の彼女の様子を訊ねてくるのが恒例になっていた。実際に彼女と会ったことは1度もないのに。
「元気だと思うよ。ずっと会ってないから顔は見てないけど、少なくとも電話してる感じはいつもと変わりない」
友基は言った。
「つき合ってるのに会ってなくても平気なんだ。冷たい男ね」
弘美が言った。
「いや、俺は毎日でも会いたいんだよ。彼女の方が教職課程の勉強で忙しいから会ってくれないんだ。前にも説明したろ?」
友基は少しイライラしながらふたりを見た。
「友基がプレゼントでも持って彼女の家押しかければいいじゃない。突然の自宅訪問、きっと喜ぶよ」
恵理佳が言った。彼女はようやくTikTokから視線を外して友基の顔を見た。
「たぶん、そんなことしたら感動してくれるどころか、完全に彼女に振られると思う。明里、めちゃくちゃ真剣に教職を目指してるからな」
友基は言った。
「いくら勉強に真剣だからって、何週間も愛しの彼に会わずにいられるかなぁ。私だったらマジであり得ない。裏で他の男と遊んでるんじゃないの?」
弘美が言った。
「明里は人1倍真面目なんだよ。お前らと一緒にすりな」
友基は言った。しかし、明里の話をすればするほど、彼女のことが恋しくなってくる。
「私も最近彼氏と別れて暇なんだよね。このサークルで映画ばっかり見てるのにも飽きたし、今晩弘美と一緒に久しぶりにカラオケでも行こうと思うんだけど、友基もよかったら行かない?」
恵理佳が言った。
「今日は無理だよ。高校時代の先生と飲みに行く大事な約束があるんだ。陸上部の顧問だった先生で、すごくお世話になった人だからこの予定だけは外せない」
友基は言った。
「つまんないなぁ。友基のRADWIMPS好きなのに」
弘美が拗ねたような顔で言った。
「今度また行こう。今日は代わりに比佐司でも連れて行ってやれば?」
友基は言った。
「嫌だよ、比佐司はオンチだもん」
恵理佳がいかにも身の毛がよだつといった感じで、首を振りながら言った。友基はゆっくりとコロネを食べ終えると、2限の心理学の講義を受けるために5号館に向かった。
心理学は1回生から受けられる教養科目なので、教室に入ると友基は面識のある経済学部の1回生に何人か声をかけ、最近学内で溝口響花の姿を見かけなかったか聞いてみたが、ここ2週間ほど誰も響花が講義を受けている姿は目撃したことがないようだった。やはり、彼女はこのところサークルだけではなく、大学自体にやってきていないらしい。彼女は一体、講義にもサークルにも顔を出さずにどこで何をやっているのか。
心理学の講義が終わったあと携帯を見ると、見たことのない電話番号から着信が入っていた。普段ならイタズラ電話だと思って気にもかけないが、番号を眺めているうちについ最近どこかでこの電話番号を目にした記憶がある気がしたので、5号館の脇で立ち止まり、とりあえずかけ直してみることにした。相手は待ち構えていたかのように、わずか1回のコールで電話に出た。
「もしもし、菰田友基と申す者ですが…」
友基は言った。
「菰田さん! わざわざ折り返しお電話いただきありがとうございます。私、昨日あなたに道端で助けていただいだ矢内一平の義娘でございます…」
電話の向こうから、聞き覚えのある女性の声が響いた。昨日の今日なのに、さっそくお礼の件で電話をかけてくれたのだろうか。しかし、お嫁さんの声は、なぜかひどく暗かった。
「昨日出会ったばかりの方に果たしてこのようなお話を申し上げていいのか大変迷いましたけれども、義父はあなたに助けて下さったこと、とても感謝して喜んでいたので、伝えるべきだという結論に至りました。突然赤の他人と言ってもいいような方にこのようなお知らせをして、気分を害されたら申し訳ありません」
お嫁さんのすすり泣く声が聞こえた。何が起こったのかまるでわからないが、とにかく嫌な予感で全身に寒気が走る。
「それで、昨日あれから、矢内さんの身に何かあったのでしょうか?」
友基は電話の意図がわからず混乱していたが、とりあえず先方に話してもらわないことには始まらないので、そっと先を促した。
「義父は今日の早朝突然倒れて、先ほど息を引き取りました。またひとりで散歩に出かけようとしたのか、夫が発見したときには玄関口で運動靴を履いたままの姿勢で倒れていたみたいです。すぐに近くの病院に搬送されましたが、意識が戻ることなく、あっさりと亡くなってしまいました。病名はくも膜下出血です。ひょっとしたら、昨日転倒しかけたのも病気の影響かもしれませんが、策を講じる暇もなく天に召されてしまって、家族一同ただただ呆然としています」
お嫁さんは時折声を詰まらせながらも、冷静に状況を説明した。その知らせは友基にとっても青天の霹靂だった。昨日出会ったおじいさんはたしかに高齢ではあったが、血色のよい顔色をしていておしゃべりも達者で、とてもすぐに亡くなりそうな方には見えなかった。
「昨日出会ったばかりですけど、心よりお悔やみを申し上げます。ご迷惑でなければ、お葬式に伺ってもよろしいでしょうか?」
「ありがとう、そうしていただけると義父も喜びます。お葬式の日程が決まり次第連絡させていただきます」
電話が切れてからも、友基は呆然とした様子で携帯を眺めていた。昨日おじいさんと初めて会ってからまだ24時間も経っていないのに、その人がすでにこの世のものではないなんて、さすがにショックが大きかった。友基が関わったせいで寿命を縮めたわけではないとわかっていても、変な罪悪感が湧いてくる。
しかし、これがこの先延々と続いていくことになる不幸の序章にすぎないとは、友基にはまだ全然理解していなかった。