第2話 人助け
友基は3限目の〝マクロ経済学〟の講義を終えたあと軽く学内のカフェで休憩し、神戸市営地下鉄と阪急電鉄を乗り継いで阪急芦屋川駅に移動した。駅に着いたのは16時半ごろで、まだ周辺の路地は学校帰りの制服姿の子どもたちで賑わっていた。ここから教え子の住む住宅地までは15分ほど歩かないといけなかったが、すでに半年以上週に2回のペースで通っていたので、徒歩移動も苦にはならなくなっていた。
友基が教えているのは、脇町智絵という名前の中学2年生の女の子だ。いつも髪の毛をお団子にしている、基本的にシャイだが、時たま見せるはにかんだ笑顔がとても可愛らしい子だった。
学校の成績は決して悪くはなかったが、できる科目とできない科目にかなり差があるということで、友基は彼女の苦手教科の英語と国語を中心に教えていた。友基自身、英語は長年苦手にしてきたが、中学英語を教える程度の学力は十分に身につけていたし、事前に入念に下準備してから授業に望んでいたので、幸い彼に教わるようになってから智絵の成績は順調に上がっていた。おかげ様で智絵自身はもちろん、智絵の母親まで友基のことを大層気に入り、彼が家にやってくるのを心待ちにしていた。
今日教える予定のフレーズを小声でいくつかつぶやきながら芦屋川沿いの歩道を歩いていると、ふと数十メートル先を杖をつきながらよたよたと歩いている男性の姿が目に入った。見るからに80歳は越えている痩せ細ったおじいさんで、おしゃれなグレーのハンチング帽を被り、ボーダー柄のポロシャツを着ている。
視力が悪いのか、あるいは脚力に問題があるのか、明らかにおじいさんはまっすぐ歩けていなかった。彼はよろよろと電柱にぶつかりそうになったり、反対に縁石の方に近づいたりを繰り返しながら、ペースを落とすことなく必死に目的地を目指していた。これほど歩行の不安定なお年寄りが外出するのに、誰も付き添いがいないことに少しぞっとする。友基は何か助けが必要ならすぐに手を差し伸べられるよう、駆け足でおじいさんに近づいた。
「危ないっ!」
通行人が叫んだ。案の定、老人は歩道の段差に足を取られ、前方に倒れ込んでいた。杖が手元から吹っ飛び、老人は頭から固いアスファルトに突っ込もうとしていた。友基は慌てて後ろからおじいさんに抱きついて、間一髪で転倒を阻止した。危ないところだった。もう少し体重が重ければおじいさんもろとも地面に倒れ込んでいただろう。下手をしたら、自分の重みでおじいさんに大怪我をさせていたかもしれない。友基はホッとひとつ息を吐き出した。
「ありがとう、兄ちゃん。本当にありがとう。こんな年寄りのために手を煩わせて、本当に申し訳ない」
おじいさんが涙を流しながら、蚊の鳴くようなか細い声で言った。年齢からは信じられないような大量の汗をかいていて、呼吸もかなり荒れている。見た感じの通り、ひとりで歩いてきた体力の消耗は激しいようだった。
「体調が悪いようなら、今から病院に行かれますか? 必要であれば救急車呼びますけど」
友基はおじいさんの身体を支えたままで訊ねた。
「いや、大丈夫だ。私の家はそこの角を曲がってすぐのところだから、何とか歩いて帰るよ」
おじいさんは前方の団地を指差して言った。
「それなら、僕が一緒にご自宅まで歩行手助けしますよ。今おひとりで歩かれるのは、さすがに危険すぎます」
友基はそう言うと、おじいさんにガードレールを頼りて立っていてもらい、そのあいだに智絵の家に電話をかけて、少し約束の時間に遅れる旨を連絡した。通話に出たのは智絵の母親だったが、事情を話すと快く遅刻を了承してくれた。
おじいさんに杖を手渡し、倒れないようにしっかり身体を支えながら案内通りに道を進んでいったが、〝すぐに着く〟という言葉とは裏腹にいくつ十字路を曲がってもなかなか目的地に到着しなかった。五分後おじいさんの呼吸が再び乱れ始め、「タクシーを呼んだ方がよかったかな」と友基が思い始めたころ、ようやくおじいさんの自宅に到着した。オートロック付き3階立ての立派なマンションで、建てられてからまだ比較的新しい。このマンションでおじいさんは、長男の家族と同居しているらしい。
インターホンで部屋番号を呼び出すと、長男のお嫁さんらしき人が通話に出た。おじいさんに軽く受け答えしてもらったあと友基は通話に出て、偶然おじいさんが歩道で転倒しそうになっているところに遭遇したことと、ひとりで歩くのが困難だったため自宅までお送りさせてもらったことを説明した。
お嫁さんはあわてて玄関まで下りてくると、「うちの義父がご迷惑をかけてすみません」と、何度も何度も深く頭を下げた。50代くらいの上品な雰囲気の女性で、首周りに花模様のついた白いブラウスの上に素材のよさそうな薄手のカーディガンを羽織っている。何か塗っているのか、鼻がテカテカと光っていた。
「本当にごめんなさい。お義父さんは散歩が日課で、毎日近所をひとめぐり歩いてくるんですけど、普段は健康そのもので歩行にも問題ないんですが、前にも1度だけ途中で体調悪くなってしまったことがあったんです。ちゃんと私がおでかけ前に声をかけるとか、気を配っておけばよかったかもしれません…」
「転倒して大ケガされたら大変ですし、今後お散歩行かれるときはどなたか同行した方がいいと思います」
友基が意見を述べると、お嫁さんは深くうなずいた。
「本当にそうですね。貴方がいなければお義父さんはどうなったかわかりません。命の恩人です。一体、このお礼をどうやって返せばいいのかしら」
「夕食でも食べて行ってもらったらどうや? ひとり分くらいなら、余分に用意できるだろう?」
おじいさんが提案した。
「そうね。ちょうど今ビーフシチュー作ってたところだし、もしご迷惑でなければ、ぜひご馳走させていただきたいところですけれど」
お嫁さんが言った。
「すいません。実は家庭教師の時間に遅れていて、すぐにお暇しないといけないんです。僕は見返りを求めて助けたわけじゃないので、特にお礼などして下さらなくても大丈夫ですよ」
友基は言った。腕時計を見ると、すでに約束の時間に20分以上遅れていた。事前連絡してあるとはいえ、智絵は今ごろ待ちくたびれて落ち着きをなくしているかもしれない。
「それでは私たちの気が済まないわ。お手数ですけれど、お名前と住所を教えてもらっていいですか? 後日お礼の品を送らせていただきます」
お嫁さんが言った。本当にお礼などいらないのだが、ここまできっぱりとした口調で言われると断りづらい。友基は仕方なく、メモ帳に自分の名前と住所、携帯の番号を記入し、お嫁さんに渡した。念のため相手方の連絡先も教えてもらう。おじいさんの名前は矢内一平で、お嫁さんの名前は順子だった。一平おじいさんは最後に友基と力強く握手し、「今日は本当に助けてくれてありがとう」と涙目になりながらお礼を言った。あんまりしんみりとした雰囲気になりすぎるとその場から離れられなくなるので、友基はふたりに軽く手を振って矢内家のマンションをあとにした。