プロローグ
目覚まし時計のアラームが、怒り狂ったように鳴り響く。カーテンの隙間から射しこんでくる太陽光と活発なセミの鳴き声が、憂鬱な月曜日の朝を強引に開始しようとしていた。菰田友基は目覚まし時計ごと叩き落とす勢いでアラームを止めたあと、そのまま毛布を抱きしめて2度寝を始めたが、すぐに朝早くから大学の講義があったことを思い出して跳ね起きた。
古代メソポタミア文明史。どうしてそんな取っても取らなくてもどうでもいいような講義を選択してしまったのだろう。しかし、すでに前期の講義をサボりすぎてしまっていたので、進学するために必要な単位を取得するためには、どうしても今日その退屈で無益な講義に出席する必要があった。友基はしぶしぶ自分の大好きな寝床、質素なワンルームアパートに似つかわしくないおしゃれなロフトを下りていった。
昨夜サークルのメンバーで遅くまで飲み会をしていたため、頭が割れるように痛かった。同学年の陽気な恵理佳と弘美が、自分たちは大して飲めないくせに勝手に次々と彼のためにお酒を注文してくるので、煽りに乗っかってつい10杯以上ビールやチューハイを飲んでしまっていた。
ひどく気分が悪かったし、足元が未だに少しフラついていたが、どうにか洗面台で顔を洗い、室内に脱ぎ散らかされていたジーンズとハンガーに適当にかけてあったボタニカル柄のシャツに着替えた。
時計を見ると、9時の講義開始に間に合うかギリギリの時刻だった。寝癖を直す時間もなかったが、いつものクセでつい、テレビ台の隣にある鏡台を覗き込んでいた。
それは、木目の模様がとても美しい、英国製の高級なアンティーク家具だった。大きな丸い鏡面と、5つの引き出しがある台座からなり、台の上に櫛とヘアワックスと英国らしくピーターラビットの小さなぬいぐるみが4体無造作に置いてある。
友だちがやってくる度になぜ女性が使うドレッサーがあるのかと奇異な目で見られたが、もちろん友基が自ら購入したものではなく、彼の母方の祖母が10年ほど前に三ノ宮センター街の輸入家具屋で買ったものだった。英国の有名な職人が丁寧に手作りした貴重な作品で、全く同じ品は国内に5つしかないらしい。祖母は友基の母のためにその鏡台を買ったのだが、母がデザインを気に入らなかったため、2年前に亡くなるまで自分で使用していた。
友基は祖母から形見品をもらうにあたり、自らこの鏡台を希望した。祖母の持ち物の中で1番高価な物であることを知っていたし、彼女が鏡台の前で楽しげに口紅を塗っている姿が子ども時代とても印象に残っていたからだ。今でもこの鏡台の前に立っていると、おしゃれだった祖母の香水の匂いが立ちこめてくるような気がする。実際のところ、友基の部屋は洗面台の鏡も小さくて見にくいし、玄関に姿見もなかったので、祖母の鏡台はそれなりに重宝していた。
最低限髪型だけでも整えていこうと鏡を覗き込んだ友基は、そこに映っている姿に唖然として、思わず血の気が引いた。
鏡面に映し出されているのは、明らかに彼自身の姿ではなかった。そこにいたのはとても長いストレートの黒髪を両肩に垂らした友基より少し年上くらいの若い女性だった。
顔面が蒼白な上に頬も極端に痩けている、何ヶ月も地下室に監禁されてきたようなひどく貧相な見た目の女性で、鏡越しでも負のオーラをヒシヒシと感じるくらい陰気な雰囲気を身に纏っている。小顔で鼻が高いし、瞳もぱっちりとしているので、まともにメイクをすればそれなりに美人に見えそうな気もするが、両目の下の濃い隈を隠すためにはかなり厚化粧する必要があるだろう。シンプルなグレーのスキッパーブラウスを着て、アクセサリーは何も身につけていない。
鏡の中の女性は、無表情にこちらを見つめ返していた。見ていても一向に表情に変化はなかったが、彼女の強い視線を見ていると、こちらの存在に気づいているのは間違いないように思われた。ふたりはしばらく無言で見つめ合っていたが、やがて女性はかすかに口元で微笑むと、スッと姿を消した。
友基はあわてて鏡台に駆け寄り、鏡面を撫でてみたが、もちろんそんなことをしても謎の女性の手がかりは何も得られなかった。今のは一体何だったんだ? 寝ぼけて夢を見たのか、それともアパートに巣くう幽霊を見てしまったのか…。思わず鏡の前で腕組みをしながら考え込んでしまうところだったが、ふと遅刻寸前だったことを思い出し、急いで玄関を出て、ダッシュで最寄り駅へと向かった。
このときはまだ、この先自分の身に不可解な出来事が次々と降りかかってくるとは、想像もしていなかった。