【コミカライズ】そんなことも分からないの?
バルビリャン公爵家には跡取り息子の他に、二人の娘がいた。
一人目の娘、長女イザベルは才色兼備という言葉がピッタリなとても美しく優秀な女性だった。
プラチナシルバーのロングヘアーに宝石のような青い瞳、スラリとした長身に、理知的な顔だち。
三才の頃には三ヶ国語を流暢に話せるようになった上、五歳の頃には辞典を含めたあらゆる本を読み漁り、その知識量は学者にも劣らないと謳われたほどである。
この子は人の上に立つべくして生まれてきた女性だ! ――――そんなふうに考えた公爵は、彼女を王太子妃にすべく、手塩にかけて育て上げた。
その甲斐あって、イザベルが15歳のときに王太子との婚約が内定。18歳のときに国民の祝福を受けながら結婚をした。
対する二人目の娘、次女のイネスは、姉に比べて数段劣る『落ちこぼれ』として認識されていた。
ふわふわのくせ毛は、色合いこそ姉とよく似ているというのにどこか幼く見える上、結い上げたところで野暮ったく見えてしまう。
目の色だってイザベルと全く同じなのだが、その丸く大きな瞳からは知性を感じられないと不評だし、身長だって低く華やかさに欠けると言われている。
それに加えて、彼女には天才と称される姉と並び立てるほどの知識はなく、しょっちゅう比較をされ、貶される日々を送っていた。
「まぁ! イネスったら、そんなことも分からないの?」
おはようやおやすみと同じレベルで使われる姉のセリフに、イネスは内心ゲンナリしてしまう。
(いや、分かるわけないでしょう)
イザベルが求める知識の質はあまりにも高い。彼女と同じレベルを求められたところで、誰にも応えられるはずがないのだ。
もちろん、イザベルが知識を得るために努力をしていることは知っているし、素直にすごいと思っている。けれど、イザベルには決定的に欠けているなにかがある――――イネスはそんなふうに感じていた。
さて、イザベルが18歳で王太子妃となり、屋敷を出たことで、イネスに平穏が訪れた――――かのように思われた。
けれど、それは大きな間違いで、今度はイネス自身の結婚に向け、両親からネチネチと嫌味を言われるようになったのだ。
「イザベルの恥になるような縁談は結ばせられないわ」
完璧な女性の家族はまた、完璧でなければならないらしい。
イネスの結婚相手選びは両親により、とても慎重に行われた。
結婚をしないという選択肢はなく、平民や低位貴族などもってのほか。名ばかりの没落貴族も却下である。
そうすると、相手は当然高位貴族ということになるのだが、元々対象者の数が圧倒的に少ない上、容姿や資産、社交界での評判など、両親の厳しい審査が入るため、その殆どが初期段階で弾かれてしまう。
(そもそも、私に結婚なんて無理なんじゃないかしら?)
プライドの高い公爵家ゆえ、イネスを徹底的に貶したりはしない。
けれど、彼女の評判には必ず『イザベルよりは劣るが』という前置きが入る。容姿も、知識も、人柄も、全てイザベルより劣っていて恥ずかしい、と。
そんな令嬢と結婚をしたいと思う人間がどれほどいるだろう?
そのくせ、相手を絞りに絞っているのだからたちが悪い。
どちらにしたってイネス本人に選択権はない。
両親の言葉を聞き流しつつ、イネスは気ままな生活を送っていた。
しかし、それから二年後。事態が唐突に動いた。
「――――オシャロア侯爵が代替わりを?」
オシャロア領といえば、誰もが知る国の要所。
南方に位置する海辺の商業都市で、海産物等の名産が多いほか、海外との貿易が盛んで、他国の要素を取り入れた文化・文芸品等も発達しており、観光地としての人気も高い。実際に行ったことはないが、イネスもよく知っている場所だった。
「ああ。新しい侯爵は22歳のリオネル殿。かねてよりお前の結婚相手として目をつけていた男性だが、彼が爵位を継ぐと確定するまでの間、縁談を保留にしていたのだ」
「そうですか……それで今回、爵位を継ぐにあたって私と結婚を」
イザベルから『そんなことも分からないの?』と尋ねられながら育ってきたイネスは、人の思考を先読みすることに長けている。公爵がわざわざ勿体つけた言い方をするのだから、おそらくはリオネルとの結婚が決まったのだろうと察しがついた。
「そうだ。幸運なことに、侯爵側も代替わりと同時の結婚を望んでいる。すぐに屋敷を発つ準備をしなさい」
上機嫌の父親を前に、イネスは小さくため息を吐く。
結婚が決まったことは喜ばしい。だが、色んなことが腑に落ちない。
(こんなに早く話がまとまるだなんて、まったく、お父様は一体どんな取引を持ちかけたのかしら?)
イネスの父親は余程イネスを嫁き遅れにしたくなかったのだろう。
22歳の新しい侯爵が――――しかも、国の重要都市の領主が立つとなれば、沢山の貴族たちがこぞって動いたに違いない。
それなのに、イネスの父親は光の速さで縁談をまとめ上げた。この上、あちら側の気が変わらないよう、さっさと式をあげて既成事実を作り上げようとしている。
(きっと、ろくな結婚生活にならないわね)
もう一度ため息を吐き、イネスは静かに踵を返した。
***
イネスと結婚相手であるリオネルが顔を合わせたのは、結婚式の本番だった。
一ヶ月もの間、嫁入り道具とともに馬車に揺られ、海の見える美しい都市へと辿り着く。
宝石のように煌めく海に、風に帆を揺らす船たち。潮の香り、鮮やかな花々。すれ違う人々の服装は軽やかで明るく、王都とは違っている。まるで異国の地に来たかのようだった。
到着早々、教会の一室に押し込まれ、結婚式に向けた準備が行われた。
公爵家の威信をかけて作らせた豪奢なウエディングドレスを身に纏い、イネスはバージンロードを父親とともに歩く。
道の先に居るのは、今日からイネスの夫となる人――――リオネル・オシャロア侯爵その人だ。
明るい金色の短髪に少し日に焼けた肌、長身で、婚礼衣装を着ていても分かるほどに逞しい。同じ高位貴族でも、イネスの父親や兄とはタイプが違っているように思えた。
段々と近づいていくにつれ、彼の顔立ちがハッキリと見えはじめる。
形良く高い鼻梁に、朱金色に光る大きな瞳、知性を感じさせる太めの眉に薄い唇。文句なしにカッコいい、大人の男性だった。
彼はイネスを認めると、ニコリと快活な笑顔を浮かべる。それから、なんの躊躇いもなく、彼女の手をギュッと握った。
「待っていたんだ、君をずっと。ようやくこのときが来た」
「……え?」
事前に聞いていた式の段取りには、こんなやり取りは存在しなかった。二人の目の前で、神父が困ったような表情を浮かべている。
「さあ、俺と一緒に神に誓おう。神父殿、はじめてくれ!」
イネスは思わぬ展開に戸惑いながらも、ようやく通常の結婚式の流れに戻ったことにホッとする。
神父が読み上げた誓いの言葉を、決められたとおりに返す。
集まった参列者の前で、触れるだけの誓いのキスをする。
それだけで、世間は二人が夫婦になったとみなしてくれる。たとえ一度も会ったことがない相手でも、結婚後の生活がどのようなものになろうと、形さえ整っていれば構わないのだ。
けれど、リオネルとの結婚式は、やはり勝手が違っていた。
彼は聞いているほうが恥ずかしくなるような熱い誓いの言葉を述べ、イネスを前に眩しそうに瞳を細め、情熱的でとろけるような口づけをする。
当然、事前に何も聞かされていないイネスは戸惑った。
(一体、お父様はリオネル様とどんな取引をなさったの⁉)
おそらく侯爵は、『イザベルの妹』は幸せな結婚をした――――夫にとても愛されていると、周囲に印象づけたいのだろう。
けれど、それだけのために、ここまでする必要はないだろう。リオネルの胸をドンドンと叩きつつ、イネスは頬を真っ赤に染める。
「リオネル様、一体何を……!」
「ああ、俺の花嫁は最高に可愛いな」
リオネルの満面の笑みに、イネスの心臓がドキッと跳ねる。それから、しばし逡巡し、抗議の言葉を飲み込んだのだった。
***
父と別れ、リオネルとともに侯爵邸に迎えられる。
ずらりと並んだ出迎えの面々に、イネスは少々面食らった。
「おかえりなさいませ、旦那様、奥様」
侯爵家の使用人だけあって、彼等はとても礼儀正しい――――のだが、満面の笑み、爛々と輝く瞳からにじみ出る歓迎オーラがあまりにも眩しく、胸やけを覚えそうになるほどだ。
「ただいま帰った! どうだ、俺の妻はとても可愛い人だろう?」
リオネルはとても上機嫌な様子で、イネスの肩を抱き寄せる。イネスは思わず目を見開いた。
(可愛い? 私が?)
先ほども言われた言葉ではあるがどうにも受け入れがたい。公爵邸でのイネスの評価といえば『イザベルの劣化版』というものばかりで、そんなふうに褒められたことは一度もないのだから。
「ええ、本当に! 噂には聞いておりましたが、とても愛らしいお方ですね!」
「噂? けれど、私の噂と言えば、姉より劣るというものばかりで……」
「そうだろう! イネスは本当に可愛い! 誰よりも可愛い! 君のために用意したドレスを着てもらうのが楽しみだ!」
イネスの言葉を遮り、リオネルは快活な笑みを浮かべる。それから彼女の両手をギュッと握った。
「来てくれ。屋敷の中を案内しよう」
リオネルは自ら屋敷の中を案内してくれた。
広々としたエントランスには美しい花々が飾られており、明るく開放感に溢れている。
リビングや客室は壁の代わりに大きな窓が四方を覆っており、美しい自然や海の眺めをいつでも楽しむことができる。
「この部屋は朝は明るい水色に、夕暮れ時には鮮やかなオレンジ色に、夜には深い藍色に染まるんだ」
「そうなんですね。……すごく綺麗です」
今は夕暮れ。茜色に染まっていく空と海のコントラストが美しく、イネスは思わずため息を吐く。
「気に入ってもらえたようで良かった。次は君の部屋を案内しよう」
一階に負けず劣らず、イネスの部屋はとても素晴らしかった。大きな窓からはいつでも海を楽しむことができるし、バルコニーに出れば潮風が感じられる。
「ここで読書をしたら、とても楽しそうですね」
「そうだろう? 侍女に頼んだら、いつでも冷たい茶を用意してくれる。それを飲みながら海を眺めると、最高に気持ちが良いんだ。イネスも試してみると良い」
リオネルはそう言って、後からイネスを抱き締める。イネスの心臓がドキッと大きく跳ねた。
(尋ねごとをするなら今かしら)
この部屋には今、二人しかいない。
イネスはリオネルの腕をすり抜け、彼と正面から向かい合った。
「リオネル様――――あなたはどのような条件で、私を押し付けられたのですか?」
「条件?」
リオネルは首を傾げつつ、イネスの顔を覗き込む。
「なんだ、それは? そんなものが存在するのか?」
「とぼけていただかなくても大丈夫です。父は私に完璧な結婚をさせるため、色々と策を弄したに違いないのですから」
「ふむ……」
リオネルはしばらく考え込むと、やがて弾かれたように顔を上げた。
「そういえば、公爵からは『絶対にイネスと離婚をしないように』と念を押されたな。あと、みすぼらしい格好をさせないようにとも。だが、条件と呼べるようなものはそのぐらいだ」
「え……? たったそれだけですか?」
イネスは困惑したように、視線を左右にうろつかせる。
「それだけ、とは?」
「私を愛する必要はないとか。愛人を作っても構わないが世間にバレないようにとか。社交の際には夫婦仲まじく見えるよう振る舞うようにとか。そういったことを父から依頼されているのではございませんか? 父はそのための対価をお支払いしているのでは?」
公爵家のお荷物で、イザベルの劣化版であるイネスに『完璧に見える結婚』をさせる――――そのために、公爵はこれ以外にも様々な条件を付けたに違いない。金を積み、権力をちらつかせ、リオネルにもメリットがある契約だと匂わせながら。
「ああ、確かにそんなことも言っていたな! だが、夫が妻を愛するのは当然のことだ! それに、俺はイネス一筋で、浮気をするつもりは一切ないし、振りではなく、本当に仲の良い夫婦になりたいと思っている。だから、そんなことは条件にはなりえない。当然、対価の支払いも断った。あたり前のことだ」
リオネルはそう言って、イネスの頬に触れるだけの口づけをする。全身がブワッと熱くなり、イネスは思わず顔を背けた。
「そ、そんなバカな……」
「バカなのは君の父上だ。イネスは誰よりも可愛く、優しく、素晴らしい女性だ。寧ろこちらから金を積み、求婚するのが筋だろう」
「まさか。私にはとても、そんな価値はございませんわ」
夫になってくれた人に対してこんなことを言うのは申し訳ないが、誤解があるなら早めに解いておかなければならない。彼とは初対面で、容姿はともかく、優しいとか素晴らしいと称されるだけの理由は全くないのだから。
「どうやらリオネル様は私の姉への評判を、私自身のものと思っていらっしゃるご様子。
けれど私は、容姿も、知識も、人柄や人望についても、全てが姉より劣っております。ご期待を裏切って申し訳ないとは思いますが、今のうちに認識は改めていただいたほうが――――」
けれど、イネスの説明は最後まで続かなかった。
結婚式のときよりも甘く深い口づけ。イネスはリオネルを呆然と見つめつつ、彼の唇を受け入れた。
全身が熱く、ふわふわと羽が生えたように軽い。優しく頬を撫でられ、心地よさのあまり目を瞑る。
こんなふうに自分を肯定されたのも、存在を認められたのもはじめてだった。
ふとリオネルの金の瞳と視線が絡み、イネスは羞恥心に襲われる。
彼はそっと目を細めると、額や頬にキスを落とし、それからイネスを抱きしめた。
「俺は君と結婚ができたことを、心から嬉しく思っている! これから夫婦として、仲良くしてほしい」
真剣な眼差しに太陽のような笑顔。リオネルが嘘を言っているようにはとても見えない。
「よろしくお願いいたします」
そう口にしながら、イネスの瞳が少しだけ潤んだ。
***
リオネルとの結婚生活は刺激的かつ魅力的なものだった。
彼が優しくしてくれるのは結婚から数日のことだろう――――イネスはそう高を括っていたのだが、リオネルは常に親切かつ誠実で、それから情熱的だった。
「イネス、俺は君を愛している」
毎朝、毎晩、しつこいほどに、彼はイネスに愛を囁く。肯定的な言葉に耐性のないイネスはその度に顔を赤らめ、返事に困窮してしまった。
(リオネル様はきっと真面目な人なのだわ)
普通、出会ったばかりの人をそこまで愛せるはずがない。夫婦だから、公爵に頼まれたからと言い聞かせ、愛していると言葉にすることで自分を騙そうとしているのだろう。
けれど、リオネルは言葉だけでは飽き足らず、思いの丈を行動で示してくれた。
ドレスや宝石、本や調度などを買い与え、できる限り色んな場所に彼女を連れて行く。見知らぬ土地でイネスが寂しい思いをしないよう、年齢の近い侍女たちを用意し、近隣の領主の奥方たちとも繋ぎを取り、彼女の生活が充実するよう気を揉んでくれた。
イネスが嬉しかったのはそれだけではない。
屋敷には、毎日沢山の領民たちが出入りし、リオネルと対話を重ねている。その過程で、イネスは領地の特産品や文化、領民たちの暮らしぶりを多く目にした。
「奥様、こちらの陶器は海外から輸入した品物で、まだ国内には出回っておりません。産地では高値で取引されているらしく、流通に向けて、現在旦那さまと戦略を立てております」
「奥様、こちらは領地で作っている果物です。痛みやすいため出荷が難しく、王都ではあまり食べられないものです。是非試食してみてください」
「奥様、こちらは海外から輸入した絹の織物で仕立て上げたドレスです。とても滑らかな美しい生地で、若い女性に喜ばれることを期待しております」
彼らはイネスが尋ねたわけでもないのに、自分たちが知っている情報を余すことなく教えてくれる。
それは、イザベルや家族から『そんなことも分からないの?』と言われることが常態化していたイネスにとって、とてもありがたく、幸せなことだった。
知らないこと、分からないことがあるのは本来ならば当然のことだ。知らないものを『知らない』と素直に認められる今の環境が、イネスはたまらなく嬉しい。
そうして、新しいものに触れることができる――――思う存分尋ねられる。
そんな機会を与えてくれたリオネルに、イネスはとても感謝していた。
「――――王宮に?」
「ああ。王太子に呼ばれているんだ。俺は彼の近衛騎士として働いていたからな」
「まぁ! そうでしたの……」
夕食の席で明かされた思いがけない事実に、イネスは密かに息を呑む。リオネルは小さく頷くと、カトラリーをそっと置いた。
「それで、しばらくの間王都に滞在するのだが、移動期間も含めて三ヶ月ほど屋敷を留守にすることになってしまうんだ」
「……! そう、ですか」
領地から王都までのんびり馬車で行って一ヶ月ほどかかる。この上、遠路はるばる王都に行くのだから、会いたい人もいるだろうし、色々と仕事もあるのだろう。それは仕方がないことだ。
(だけど、分かっていても寂しいわ……)
婚姻期間は短いが、イネスにとってリオネルはもう、かけがえのない人になりつつあった。
聞いてて恥ずかしくなるような甘い言葉も、熱い抱擁も、三ヶ月もの間お預けになると思うと、心がズンと沈んでしまう。
「イネス、一緒について来てくれないか?」
「え?」
リオネルがそっと目を細める。イネスは目頭が熱くなった。
「君がこの土地を気に入ってくれているのは知っている。長旅で負担をかけて申し訳ないという気持ちもある。だが、俺は君と片時も離れたくない! 俺と一緒について来てほしい!」
「リオネル様……」
こんなふうに己の心に寄り添ってもらえることが嬉しい。
求めてもらえることが嬉しい。
イネスはずっと、自分の生涯はイザベルのためにあるのだと思っていた。彼女の人生を彩るため、汚点を残さないためだけに結婚をするのであって、愛されることも、愛すこともないだろう――――そう覚悟していたというのに。
「ええ、もちろん。喜んでついて行きます」
どこへでも、どこまでも。
そんな気持ちを胸に、イネスはそっと微笑んだ。
***
王都に到着した翌日、イネスはリオネルとともに王宮に向かった。
「殿下がイネスにも会いたいと仰っているんだ」
リオネルはそう言ってニコリと笑う。イネスは「殿下が……?」と小さく首を傾げた。
「ああ。君は殿下と面識があるだろう?」
「そう、ですわね」
あれはイザベルと王太子との婚約が決まった頃のこと。親族同士の顔合わせと称して茶会が開かれた。また、その後も数回ほど、イザベルとともに王宮に呼ばれ顔を合わせたことがある。
「殿下はイネスが俺と結婚をしたことを喜んでくれていて、妻として改めて紹介してほしいとの思し召しだ」
「そうなのですか……!」
緊張からイネスが背筋を伸ばすと、リオネルはクスクスと笑い声を上げた。
「そう気負う必要はない。俺はありのままの君が好きだ! 心から誇りに思っている! どこに出しても恥ずかしくない、自慢の妻だ」
「そうはいってもリオネル様、相手が王太子殿下だと思うと、やはり身構えてしまいます。それに、殿下の妻は私の姉でございますし……」
そんなふうに考えるにつれ、気持ちが重くなっていく。リオネルはイネスの頭を優しく撫でながら「大丈夫だ」と繰り返した。
数年ぶりに訪れる王宮は、以前と変わらず美しく壮麗だった。
はじめてここに来た時、イザベルが城の歴史についてあれこれ語っていたことを思い出す。自分なりに事前に勉強をし、知識をつけたつもりだったが、それでもイザベルにとっては不十分だったらしい。
『まあ、イネスったら、そんなことも知らないのね!』
こんな場所に来ても、馬鹿にされてしまう――――幼いイネスは不甲斐なさを覚えつつ、シュンと肩を落としたものだ。
「いつ見ても綺麗な城だな!」
リオネルが快活な笑みを浮かべる。イネスは彼と並び歩きながら、そっと首を傾げた。
「あの……リオネル様はこの城の歴史にお詳しかったりしますか?」
「歴史? ……いいや、知らん! けれど、歴史など分からずともこの城は美しい。それではダメか?」
分からない。けれど、それのなにが悪いんだと笑うリオネルに、イネスの胸が温かくなる。
「いいえ、悪いことなどございません! 私も、城の歴史なんて分かりませんわ」
大事なものは知識だけじゃない。そう思えることが素直に嬉しい。
二人で城の中を寄り添って歩く。ここに来るときはいつも鬱々としていたが、イネスはとても晴れ晴れとした気持ちだった。
と、そのとき、一人の女性を頂点に、数人の女性が反対側から練り歩いてくるのが見えた。
中央に立つ眩い銀の髪、青い瞳の美しいその女性は、イネスの姉――――イザベルだ。
「あら、誰かと思えばイネスじゃない」
冷たく厳しい声音にイネスは思わず息を呑む。それからゆっくりと、優雅に見えるよう、慎重に頭を下げた。
「ご無沙汰しております、お姉さま」
「ええ本当に。便りもなにも寄越さないなんて薄情な妹よね。――――だけど、仕方がないかしら。貴女はそういう世間の常識が、なんにも分かっていないのだから」
心を抉るようなイザベルの言葉。イネスはギュッと目を瞑った。
「お久しぶりです、妃殿下」
そのとき、イネスを隠すようにして、リオネルがイザベルの前に立つ。
イザベルはパッと瞳を輝かせ、ニコリと笑みを浮かべた。
「あら、リオネル。殿下への挨拶は済んだの?」
「いいえ、これから向かうところです」
気心知れた様子で言葉をかわす二人。イネスは思わず口を開いた。
「あの……お二人は面識がおありなのですか?」
「それは――――」
「まぁ! イネスったら、そんなことも分からないの?」
リオネルよりも先に、イザベルがすぐに反応を返す。そのあまりの刺々しさに、イネスはビクリと震え上がった。
「リオネル様は殿下の側近だったのよ? 当然、王太子妃であるわたくしとも親しくしていたに決まっているじゃない。まったく、貴女は相変わらず、そんな単純なことも分からないのね」
「…………はい、失礼いたしました」
そうだった――――イザベルの前で疑問を抱くこと、呈することは愚かなことだ。
自分の頭で考えなければならない。答えを出さなければならない。そのための知識を身につけ続けなければならない。
結婚してから、リオネルや周囲が優しすぎて、こんなふうに否定されるということをイネスはすっかり忘れていた。自分があまりにも情けなくて、イネスはシュンと肩を落とす。
「ところで、どうしてイネスを王宮へ連れてきたの?」
「どうして? それは当然、殿下がイネスに会いたいと仰っているからです」
当然の部分を強調し、リオネルは眉間にシワを寄せる。
「イネスに? そんな、わざわざこの子に会うなんて時間の無駄遣いだわ。
殿下にはリオネル様が一人で会ってきてくださいな。その間イネスは、このわたくしが相手をしてあげるから」
「え……?」
イザベルの言葉に、イネスは大きく目を見開く。まるで真綿で首を絞められているかのように、息が上手くできなくなった。
「だって、この子ったらわたくしと離れている間に、色々と大事なことを忘れているみたいなんだもの。王太子妃であるわたくしの妹として生きるのがどういうことか、もう一度思い出してもらわなければね。
リオネル様との結婚だって、わたくしの体面を保つために組まれたものだもの。変に思い上がったりせず、地に足をつけて生きなさいって。
この子はここまで言わなければ、そんなことも分からないのだから――――」
「分かっていないのは君のほうだろう」
リオネルの厳しい声音に、イネスはハッと顔を上げた。彼は鋭い目つきでイザベルを睨み、イネスを彼女から遠ざける。イネスの瞳に涙が滲んだ。
「なっ……! わたくしが分かっていない、ですって?」
「そうだ。君は大事なことをなに一つ分かっちゃいない。
どれだけ知識が豊富だろうと、論理的な思考ができようと、そこに真心がなければ、何の役にも立ちはしない。
どうして専門家が存在している? なんのために文官が存在している? 彼らに知識で勝ったところで、君自身に一体なにができる? 彼らに成り代わって仕事ができるわけでもないだろう? 君は、そういったことを考えたことがあるのか?」
「そ、れは……」
「君がしたり顔で披露する知識や常識は、皆が知っていて当然なものだと本当に思っているのか? 臣下が、侍女たちが、国民が理解できて当然だと。そんなにも普遍的なものだと思っているのか?
だとしたら、愚かとしか言いようがない」
リオネルはきっぱりとイザベルを否定する。
彼がこんなふうに厳しい物言いをするのを、イネスははじめて目にした。彼はいつだって優しくて温かい、思いやりに溢れた人だから。
「くっ、口を慎みなさい! 誰に向かって物を言っているの! わたくしは別に、すべての人に同等の知識を求めているわけじゃありませんわ。わたくしの妹に高い水準を求めるのは当然のこと! 貴方にとやかく言われる所以は――――」
「ある!」
リオネルはくわっと目を見開き、イザベルのことを見下ろした。
「君はイネスを傷つけた! 俺の愛する妻を侮辱した! とても許されることではない!」
イネスはもうこらえきれなかった。ポロポロと涙を流しつつ、リオネルの背中に縋り付く。
「『許されることではない』? ふふ……その言葉、そっくりそのままお返しするわ。わたくしは王太子妃よ? 先ほどから黙って聞いていれば、随分と不敬な物言いじゃない。とてもじゃないけど許せないわ」
「王太子妃だからなにをしても、なにを言っても許されるわけではない。
君はイネスだけでなく、沢山の人の心を、想いを踏みにじっている。そんな人間を素直に敬うことはできない! そもそも、偉いのは君ではなく、王太子殿下だろう?」
「なにを……! わたくしが人の心を踏みにじっているだなんてそんなこと、あるはずがないでしょう!」
「リオネルが言っていることは本当だよ」
そのとき、イネスにとっては聞き慣れない声が聞こえ、思わずそちらの方を向く。そこに居たのはイザベルの夫――――王太子その人であった。
「殿下⁉ いったいなにを……」
「これまで君と接してきた人間から、陳情が複数出ているんだ。イザベルから『そんなことも分からないのか?』と問われることで、どこにいても、なにをしていても萎縮してしまう。苦しんでいると。
自信を喪失し、既に辞めてしまった者も多数いる。
僕が君の妹に会いたかったのは、そういう実情を話したかったから、という理由もあるんだ。二人きりのときに話をしても、君は全く取り合ってくれなかったからね」
困惑しきった様子のイザベルに、王太子は淡々と事実を伝える。
これまで誰かに否定をされた経験がなかったイザベルは、驚愕に目を見開き、ワナワナと唇を震わせた。
「けれど! わたくしの側に仕えるからには、知識を得る努力をするのは当然のことです! 向上心を持つべきです! そんな当たり前のことがわからないなんて――――」
「君のものさしで物事をはかるな」
イザベルの言い分をバッサリと切り捨て、王太子は小さくため息を吐く。
「『君の当然』と『他人の当然』は全く異なる。『君がすべきだと思うこと』と『他人がすべきだと思うこと』も当然異なる。
もっと人の声に耳を傾けろ。心に寄り添え。
王太子妃に求められる能力は、知識でも判断能力でもない。
――――君は、そんなことも分からないのか?」
それは世界中のどんな言葉よりもイザベルの心に響いたのであろう。彼女はその場に座り込み、呆然と言葉を失った。
***
「すまない。君をここに連れてくるべきではなかった」
リオネルはそう言ってイネスを優しく抱き締めた。
既にイザベルや王太子の姿はなく、リオネルの誘導で人気の少ないガーデンテラスに二人で腰を下ろしている。
「いいえ、リオネル様。貴方に謝って頂く必要はございませんわ。元々姉はああいう性格ですし、今回私を呼んだのは王太子殿下ですから」
「――――本当は、それだけが理由じゃないんだ」
「え……?」
リオネルはバツが悪そうに俯き、やがてイネスに向き直る。
「ここに連れて来たら、少しは君も俺のことを思い出してくれるんじゃないかと……そんな期待をしていたんだ。本当にすまなかった」
「思い出して……って、私達は結婚式が初対面では?」
幼い日の城での記憶を振り返りつつ、イネスは大きく首を傾げた。
「いや、大した会話は交わしていないんだ。ほんの一言、二言。
ただ、俺は以前から君のことを知っていた。強くて優しい、イネスのことを」
そうして優しく頭を撫でられ、ふと過去の記憶がよみがえる。
(そういえば、以前もここで、誰かが私のことを撫でてくれたっけ)
涙でよく顔を見れなかったが、あれはリオネルだったのだろうか? そう思うと、胸がドキドキと騒ぎ出した。
「あるとき、茶会の席で茶葉の知識、歴史や紅茶の淹れ方のノウハウなど、妃殿下からの質問になにも答えられなかった侍女が居た。『そんなことも分からないの?』と問う妃殿下に、侍女は何度も謝罪をし、後でひっそりと涙していたんだ。
気の毒だと思って見ていたら、君が彼女のところにやって来たんだ」
『辛いですよね……大丈夫。私もいつもあんなふうに怒られるんです。あんな知識、持っていないほうが普通です。だけど、一度問われたことに次回も答えられなかったら、姉からの叱責が加速してしまう。ですから、今から私の言うことを覚えてください』
「――――見ていらっしゃったのですか?」
「ああ」
リオネルはそう言って力強く頷く。イネスは大きく息を呑んだ。
リオネルのことは覚えていないが、侍女を慰めたことは鮮明に覚えている。はじめてイザベルの洗礼を受け、青褪め、今にも逃げ出してしまいそうな侍女を、とても気の毒に思ったから。
「茶会では君だって何度もやり玉にされていたのに、侍女のほうを気遣い、己の知識を分け与えられる――――とても強くて優しい子だと思った。
それに、話はそれだけでは終わらない。
その次の茶会の前、イネスは侍女たちに分厚い紙の束を渡したんだ」
『これ、姉が尋ねそうなことをまとめた想定問答です。これまで私が尋ねられたこと、その模範回答を書いてきたので、参考にしてもらったら嫌味を言われる回数が少なくなると思います。もちろん、ここに書いていない内容を聞かれることもあると思うんですけど……』
イネスの頬が熱くなる。あまりにも気恥ずかしくて、イネスはパッと顔を背けた。
「そ……そんなところまで見ていらっしゃったのですか?」
「ああ、見ていた! 君は前回やり玉にされた侍女の分だけでなく、他の侍女たちの分まで想定問答を作っていた。あれを作るのは並大抵のことではない。きっと、何日もかかったに違いない。
そのときから、俺はイネスのことがとても好きだった! いつか結婚したいと望んでいた! 君を幸せにしたいと願い、己を磨き続けていたんだ」
リオネルの唇が、甘やかすように額や頬に優しく触れる。
(嬉しい)
苦しかったことも、悲しかったことも決して無駄ではなかった。あの日々があったからこそ、イネスはリオネルと出会い、彼の温かさに包まれ、幸福な日々を送れている。
「リオネル様、私、貴方が大好きです!」
イネスが思いの丈を打ち明ければ、リオネルは目を丸くし、それからとても嬉しそうに破顔する。
「ああ、知っている!」
二人は顔を見合わせると、互いをギュッと抱き締めるのだった。
本作を読んでいただきありがとうございました。
もしもこの作品を気に入っていただけた方は、ブクマやいいね!、広告下の評価【★★★★★】や感想をいただけると、今後の創作活動の励みになります。
おかげさまで本作のコミカライズが決定しました。活動報告に掲載アンソロジーの情報や冒頭4ページを公開しておりますので、是非チェックしてみてください。
また、本作のコミカライズにあわせ、スピンオフ作品『君はそんなことも分からないのか?』を公開しました。こちらは本作における悪役令嬢のイザベルがどん底からどう立ち直っていくかを描いております。是非あわせてお楽しみください。
改めまして、最後までお読みいただきありがとうございました!