不公平な話
「世の中というものは酷く不公平だね。なぁ、キミ?」
大袈裟な口調で、そんな問い掛けをする彼女の唇が、私好みの桜色に艶めく。
初夏に色付きを増す大学校舎のオープンテラスは、薄着の学生達の喧騒で溢れていた。
その人混みを避け、隅の小さなラウンドテーブルを挟んで私と彼女は向かい合う。
デザイン性ばかりに気を取られたハイスツールの椅子に腰かけた彼女は、長く流麗な黒髪を耳に掛けつつ、珈琲を一口。その後、件の問い掛けを囁いたのであった。
真っ白な半袖のブラウスと、水色のロングスカートは涼やかで。覗く手足は日焼けも無く、透明感と瑞々しさに溢れている。
長い睫毛の被さった琥珀色の瞳に見つめられ、私は「あぁ」と漏らした。
「ちょっと漠然とし過ぎてる。それだと賞金はやれない」
「ふーむ。日に日に審査の目が厳しくなっていく。もしかして金欠?」
「大学生の懐は常に寂しいもんさ」
「代表然として典型を語るには、些か烏滸がましいんじゃないかな。ふふ、身の程を弁えた方がいいと思うよ?」
「うるさい奴だな。まぁ、否定はしないが」
私が言って、彼女は笑う。相も変わらず、いちいち絵になるヤツだと胸中で零す。
見馴れてきたその顔と、聞き慣れてきた言い回しに返しつつ、熱湯じみた珈琲を口に含む。
口内に広がる苦味と僅かな酸味を味わい、飲み干した後の余韻に浸る私の顔を……何がそんなに面白いのか、彼女は頬杖をついて見つめる。
「何か付いてるか?」
「いや別に。ただ……可愛いなぁと思ってね」
生意気なヤツめ。先輩への敬意というものが足りない。
この春から大学生となった彼女が、斯様に時代錯誤な仰々しい口調を用いるのは、私の前だけの事であった。
それは1年前の私が、大学の掲示板にふざけて貼ったチラシが原因でーー小説のネタに使えそうな台詞、1つにつき三千円ーーなどという冗談を彼女が掘り返した事に由来する。
今やたった1人の純文学サークルが占拠する薄暗い六畳一間に、彼女は件のチラシを持ってやってきた。
朽ちて半分閉まらなくなったドアを引き、湿気た部室に現れた彼女は……息を呑むとはこの事か。
まるで昭和の恋愛小説の中から抜け出して来たのではないかと思うほど、淑やかで清楚な風貌をしており、私は目を奪われた。
少なくとも「そのチラシは戯れ言だから帰れ」と一蹴するには勿体無いと思うほどに、彼女は絵になる……否、文字になる。
そう踏んだ私は、すっかり忘れ去っていた冗談の中身を思い出し、彼女と契約を結んだ。
以来、私と彼女はこの様に、暇を見つけて会話を交わしているのだった。
詳しく話せば、部室に籠りきりの私を彼女が連れ出し、あらゆる状況で色とりどりの台詞を試す。それが私の眼鏡にかなったら、使用権の譲渡と謝礼を兼ねた賞金として、彼女に三千円を支払う。そんな契約である。
出不精且つ友人の1人もいない私にとっては、良くも悪くも新鮮みを感じる事の連続だ。
「悪くも」を強調して伝えた時の、不満げに口を尖らせた彼女の表情は記憶に新しい。
人好きのする顔立ちに見える四季の様な表情、小動物を思わせる愛らしい仕草、その一挙手一投足は全て彼女の計算によって成り立っている。
したたかな女だ。こうしている今も、友人らしき連中に遠くから声を掛けられ、愛想良く手を振っている。
駆け寄ろうとする輩が手前の私に気付き、踵を返してそそくさと空席を探しに行く背姿は、ほんの少し愉快だ。
誰とでも親しくなり、けれど決して深い付き合いをしようとしない彼女にとって、私は雇用主であると同時に、鳥避けの案山子なのであろう。
それはさておき。
「不公平、か」
「うん、不公平だ」
言うまでもなく、ましてや言われるまでもなく、世の中は不公平だ。
そんな事は、当たり前に生きていれば誰にでも分かる事だし、当然の話である。
公平、平等。そもそもの話、それが何を指していて、どの様にあれば成立と相成るのか、その解釈は個々人の価値観に依る。
それらの価値観全てが一致する事の無い以上、世は不公平であるという結論は揺るぎない。
私は溜め息混じりに彼女へ返す。
「そんな当たり前で、至極当然の事をわざわざ語る為に……私を此処まで連れてきたんじゃないんだろう?」
訊ねれば、彼女は「ふふ」と笑う。今日はやけに勿体振っていた。
「当たり前で、当然の事を、わざわざ語るのが愚痴というヤツさ。私だって、常に求められた役割を完璧に演じる一流役者であり続けたい訳じゃないんだよ」
「大きく出やがる。自意識過剰だ……と言えない辺りが憎たらしいな」
実際、彼女は完璧だ。
その場で求められた役割を瞬時に理解し、器用にこなす。
今だって私が求めた役を見事に演じきっている。少なくとも、先の連中よりかは彼女の事を知っているだろう私から見ても、彼女の本性は底知れない。
何を考えているのか、何を思って偏屈に構っているのか。
金の為、案山子、色々と推察を重ねても、それらが最も大きな真意であるーーという確信に到らない。そうと断ずるには、彼女の行動と言動はあまりに不可解なのだ。
彼女なら、わざわざ私を使わずとも、もっと効率的で首尾良く進められるやり方が如何様にもある筈なのである。
彼女の本質が、本音が、その愚痴とやらの中にあると言うのなら、聞いてみたい。
「で、どういう訳なんだ?」
好奇心を揺さぶられ、前のめりになるのを堪えながら、努めて素っ気なく訊ねた。
私の胸中を見透かしてか否か、彼女は邪気を孕んで愉しげに口角を上げる。
悔しい気持ちもあるが、それくらいの娯楽は提供してやらないといけない。世の中は等価交換だ。
「いや、ね」と置きつつ、無垢にはしゃぐ周囲の男女連中を遠目に眺めながら彼女は続けた。
「不公平な世界というのは、礎からして歪極まりないと思うんだよ。礎……つまり、愛という物は」
「ぶふっ!!」
思わず吹き出してしまった。
よりにもよって愛……つまりは色恋沙汰の話かよ。
私の反応を見て、彼女はいつかの様に、不満げな表情で無言の抗議を送る。どうやら酷く不快だったらしい。私は慌てて低く両手を挙げ、謝罪の意を示した。
「許せ。まさかお前の口から、愛なんて言葉が出るとは思わなかったんだ」
「もしかしてそれは謝ってるつもりなのかい? だとしたら無知蒙昧だね。愚鈍と言ってもいい。言葉選びが全くなってないよ。それでも物書きの端くれか」
散々な言われようである。が、その通りなので仕方がない。
彼女の様な人間にも、連中の様に愛だ恋だのと浮かれる心があろうとは、夢にも思っていなかったのだから。
「まったく……キミの様子を見て、半分くらいは疑念だった物が確証の形を得たよ」
「そうかい。それは……くく、何よりだが。あー、すまん。ぷ……どういう事だ? ふふっ」
込み上げる笑いを噛み殺し、可能な限り神妙な面持ちを作ろうとするが、上手くいかない。
こういう時、彼女の様に器用ではない自分が恨めしい……とは思っていないのだが、申し訳ない気持ちが無い訳でもない。
「だからさ」と、呆れ気味に。
「キミの様に、全く人から好かれようとしていない者が良い物を得て、私の様に他者への奉仕精神に溢れた人格者が、ガラクタの様な物すらロクに手中へ収められないというのは、一体全体どういう事なのか……私には不思議でならないんだ」
或いは拗ねた子供の様に。姿勢を正し、説教をするかの如く。
そんな様子が更なる笑いを誘うが、そこは何とか押さえ込む事に成功した。
あぁ、うん。しかし、なんだ。
珈琲を飲み干す彼女の言葉は、不可解だ。
私への評価と、彼女自身の自己分析の部分には大いに賛同する所だが、私の様な者が良い物を得て、彼女がガラクタすら手に入れられないというのはよく分からない。
無論、議題から察して、それが色恋に関わる話だというのは分かる。
だが、色恋どころか人付き合いからも遠い私が、正反対に多くの人々と親交を持つ彼女よりも上手く得ている物など、あるとは思えない。
「誤解じゃないか?」
未だ笑いを含んだ私の語調に、彼女は片肘を付いて手のひらに顎を乗せ、そっぽを向く。完全に子供の仕草だ。
「いいや、間違いないね」
「どうしてそう思うんだ」
「思いもするさ」
まさしく愚痴といった様な口振りは、今まで交わしたどんな言葉、台詞回しよりも彼女の本質というものを感じさせた。
それ故に愉快だし、興味深い。
彼女をしてこの様にさせる、ガラクタの様な相手というのには実に興味をそそられる。その顔は是非に拝んでみたい。
「私はね、キミ。慎ましい人間なんだよ。望めば何でも手に入れられる様に、日頃の準備こそ怠らないが……それは本当に欲しいと思った1つを得る為さ」
「ほほう、それはそれは」
「無論、それは相手に私を欲しいと思って貰う為でもある。互いの価値を比べ、真に等価であると認め合う事が出来た者達だけが、本物と呼べる愛を……」
「ぶふっ」
「……愛を! 手に入れられると! 思うんだっ!!」
不味い、笑い過ぎた。
これ程までに真剣な言葉で、怒る彼女は初めてだ。流石に罪悪感が増してきた。
「そうだな、うん。お前の言う通りだ。笑ったりして悪かったよ」
「はぁ……」
ほんの少しばかりの心を込めた謝罪の意を、彼女はどうやら受け入れてくれたらしい。溜め息を吐き、けれど拗ねた調子は変わらず、顔も合わせてはくれない。その様子も実に愛らしいものだった。
「まったく、本当に」
「悪かったってば」
「……どうしてキミには私がいるのに、私にはキミしかいないんだろう」
「……」
「不公平だ」
刹那、私の思考は停止した。
言葉の意味を、咀嚼する。これまでの会話を、思い出す。
思い出したそれらを繋ぎ合わせ、論理的に意図を組み立てていく。
「……」
「……」
沈黙がその場を支配する。それまで鬱陶しさすら感じていた周囲の喧騒がやけに遠く聴こえる。
まるで外界から切り離され、異界へと飛ばされたかの様に、今まで味わった事の無い新鮮な……重苦しい空気が私を襲った。
「あー……」
「……」
無言でこちらを見つめる彼女。淡い桃色のチークを塗った頬が常よりも赤みを帯びて、紅潮しているのが分かる。
それは、なんというか。小説から抜け出して来たのではないかと思うほどに淑やかで、清楚な、まさしくーー
ーー恋する者の前に立った乙女の様な。
「……」
「……」
悠久の様な一時の沈黙。
頭の中は空っぽだ。何も考えられなくなってしまった頭を必死に回転させていると、この頭はガラクタなんじゃないかという疑念が上る。少なくとも、今この時においてはまったくもって役立たずである。
それでも暫く考え込んで。
やがて、私は黙ったまま、足元の鞄の中から財布を取り出した。
くしゃくしゃに皺が寄った千円札を3枚、テーブルの上に置く。
彼女はそれを見下ろし、それからこちらを見て、やはり呆れた様に溜め息を吐きつつ……小さく呟いた。
「本当に、不公平だ」