短篇小説2
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瞳の美しさ、心の苦しみを、なかば感じとり、または見ぬいていた。
この女が自分に恋してくれればどんなにいいだろう! そう思ったことも一度や二度ではない。しかし、それは決してかなわぬ夢だった。彼女はいつも自分から遠くはなれていたからである。そして、彼女が自分を憎んでいることを知っていた。いや、その憎悪をふくんだ眼で自分を睨みつけている彼女を、自分はよく知っていたのだ。だから、もし自分が彼女の気持ちを変えられるとすれば、それは自分の死以外にはないと、彼は思っていた。
(ぼくは死ぬべきだ)
いま、彼が決心したのは、そういうことだった。
彼には一つの計画が、ひそかにできあがっていた。
それを実行に移すときが来たのだ……だが彼は、それがどういう結果を生むことになるかについて考えることが恐ろしかったし、また考えたくもなかった。
ただ、いまの彼にとって何よりも大切なのは自分の生命ではなくて、あの美しい女の幸せだったのである。
(ああ、ぼくはもうじき死ぬのだ……)
と、彼は胸の中でつぶやくように言った。
彼の心の中には、いま、さまざまな思いが去来していた。それはどれも、彼を責めたりなじったりする言葉ではなかった。ただひとつだけ、はっきりとわかることがあった。それは、自分の命より大切に思っているあの女のために、自分はこれから死のうとしているのだということであった。
ふっと、彼の心にひとつの光景が浮かんできた。それは、あの女が、まだ少年であった自分の手をとって、静かに微笑している情景だった。そのとき、彼の胸に熱いものがこみあげてきた。それは愛しさとも喜びともつかぬものであった。
「よし」
と、彼は声に出さずに叫んだ。
そして、ゆっくりと立ちあがると、寝台の下に置いてある小さな旅行鞄をとり出した。それから窓ぎわへ行って、カーテンを引いた。
部屋の中はすでに暗くなっていた。彼は電気スタンドをつけて机の前に坐った。そして、ペンをとった。
「これで、お別れです」
と書いた。そしてその下に、「今までありがとうございました」という言葉を書き加えた。そしてその横に「さようなら」という文字も書いた。
最後にもう一度読み返してみて、おかしなところがないかどうか点検した。手紙を書くことは、
「わたしの得意中の得意だもの!」
というあの女の言葉を、彼は思い出していた。
やがて、彼は椅子から立って、机の上に便箋と封筒を置いた。そしてその上から、そっと手をおいた。
「さようなら」
と言ったとき、彼は何か
「さよなら」
とも言いたい気がしたが、すぐにそんな気持を追い払ってしまった。なぜなら、その言葉を口に出すことはできなかったからだ。しかし、とにかく、彼としては満足すべき遺書ができたわけだった。
彼はその遺書を折りたたんで封筒に入れた。表には宛名を書いて
「あなたさま」
と書き、裏には差出人の住所氏名を書いた。それから、万年筆のキャップを取って蓋をはずすと、そこに油性インクをつけ、封をして切手を貼って、投函するために部屋を出た。
外はかなり風が強く吹いているらしく、窓ガラスが小さく鳴っていた。階段を下までおりると、彼は郵便受けのある所へ行った。
すると、そこには人影がなかった。こんな時刻なので当然なのだが、それにしても誰もいないというのは変だと彼は思った。いつもなら、誰か一人ぐらいはいるはずの時間なのに、今日に限ってなぜだれの姿もないのか? 考えてみれば不自然なことだったが、しかし今度の場合それはさほど重大なことではなかった。それよりも、彼が考えなければならなかったのは、この手紙を出しに行くべきか否かということだった。
もし出してしまえば、あとはもう何もすることはない。いや、それどころか、かえって面倒なことになってしまうかもしれないのだ。
(このままにしておいてもいいじゃないか)
と、彼は自分に言ってみた。
だが、やはり出さないではすまされないような気がした。
そこで彼は、手紙を持って外へ出た。
吹きつける風の音にまじって、どこかで犬が吠えているのが聞こえた。あたりはひっそりとしていて、物音がしない。家々の窓から洩れる明りのほかは、街灯の光もなく、道行く人も見えない。
夜空を見あげると、星がいくつか瞬いていた。月はなかった。
手紙を出すために郵便局へ行く途中、彼は何度も立ちどまっては、自分の家のほうをふりかえった。
彼はいま、自分が死のうとしているということを、はっきり意識していた。死ぬということは恐ろしいことだが、不思議にもそれほど恐れてはいないようであった。ただ、自分の計画どおりに事が運ぶかどうかだけが心配なのである。
手紙を出して帰ってみると、もう真夜中を過ぎていた。
彼は急いで食事をすませ、寝床に入った。しかしなかなか眠れなかった。朝になると起きて顔を洗い、歯をみがいた。それから服を着替えて食事の仕度にかかった。朝食のパンを食べながら朝刊を読んでいるうちに、新聞配達の少年がやってきた。
少年が帰ってしまうと、また静けさが戻った。
彼はコーヒーを飲み終えて、二階の部屋へあがっていった。そして机の前に坐った。
遺書は、昨日のうちに書いてあった。それを封筒に入れて机の上に置いてあるのだが、彼はその封筒を手にとらなかった。
これから死ぬというのに、どうして遺書など書かなければならないのか、と彼は考えた。
死ねばいいではないか! そうすれば、すべて終わるのだ。死んだ人間は、生きている人間に対して何の影響力も持たない。だから、あの女がどんなに自分を憎んでいたとしても、それでどうなるものではない。
遺書なんてものは、人間が生きていく上で、ただの形式にすぎないのではないか。それは死者が自分について語る口実のようなものだ。
遺書というものを書くことで、自分が生きていたという事実が、あの女の中に残る。そして、自分が死んでいったことが、あの女の記憶に残るだろう。
それが、彼にとっては何よりも大切なことなのであった。
彼は、遺書を机の上に置きっ放しにした。そして、そのことは忘れてしまったかのようにふるまった。
午後になって、彼は買い物に出かけた。そして、帰りぎわに、例の手紙のことを思い出して、ポストの中へ入れておいた。
その夜は、また雨になった。
彼は、いつの間にか眠ってしまったらしい。目を覚ますと、時計は九時近くになっていた。
窓の外を見ると、霧のような小糠雨が降っている。そのせいで、外はかなり暗い。
彼は、しばらくぼんやりとしていた。
そして、急に立ちあがると、机の上の封筒を取りあげ、便箋を開いて読んだ。
読み終ると、彼は封筒に戻し、机の上にそっと置いた。そして椅子から立ちあがり、部屋の中を行ったり来たりした。
やがて、彼は決心したように机の前へ行き、万年筆をとって蓋を取った。
そして、また遺書を書きはじめた。
書きおえると、彼はその紙片を持って部屋を出た。
階段をおりるとき、彼はちょっと足を止めた。しかしすぐに階段をおりきって、玄関を出ようとした。
そのとき、ふと彼は何かの気配を感じた。彼はふり返って、あたりを見まわしてみた。しかし、そこには誰もいなかった。
しかし、確かに何かの視線を感じとることができた。
彼の背筋に、冷たいものが走った。
彼は、急いで靴をはくと外へ出た。
その瞬間、彼は見た。
彼が立っていたすぐそばの家の壁に、黒い人影が見えた。彼は思わず息をのんだ。
しかし、よく見ると、それは壁ではなく、人間の背中だった。しかも、女の後ろ姿だった。
彼女は傘を差していた。
彼女がふり向くのを見て、彼はあわててその場を離れた。そして、一目散に逃げるように走り出した。
彼は夢中で逃げた。
どこをどう走って行ったのか、自分でもよくわからなかった。気がつくと、彼は、昨日手紙を出した郵便局の所まで来ていて、そのまま建物の蔭に身をひそめた。心臓が激しく動いていた。
彼は、建物の角から出て、また別の建物へと逃げこんだ。そして、また別の建物へ……。
どのくらい時間がたったろう? 一時間ぐらいだったかもしれない。
彼は、ようやく立ちどまって、呼吸を整えた。
彼は、あたりの様子をうかがってみた。
だれの姿もなかった。
もう大丈夫だろうと彼は思った。
彼は、ほっとして、歩き出そうとした。
と、その時、突然、誰かが彼の肩に手をかけた。
彼は、びっくりして立ちすくんでしまった。
ふり返った。すると、そこに男が一人立っていた。
男は、四十歳前後で、眼鏡をかけていて髪は短く刈っていた。
彼は、その男の顔に見覚えがあった。
それは、あの女の父親であった。
彼は立ちどまって、男の顔をじっと見つめたまま、声も出せなかった。
女は、彼に近寄ってきた。そして言った。
――なぜ逃げるのですか。彼は答えなかった。答えることができなかったのだ。
女はつづけていった。
――わたしには、あなたを殺す権利があるのです。
彼は黙っていた。
女は彼の前に立ったまま、しばらく彼を見おろしていたが、やがて静かに話しはじめた。
――今朝、手紙を読みました。あれは、どういう意味なのですか。
彼は、何も言わずに、ただうつむいていた。
女はつづけた。
――あれは遺書ですね。
彼はうなずいた。
女は、しばらく彼を見つめてから、ゆっくりと近づいてきた。そして、手をのばすと、彼の手からもう一つの遺書の入った封筒を奪い取った。
女は封筒を開いた。そして、中身を取り出して読んだ。読み終えると、彼女はそれを封筒にしまい、自分のポケットにおさえた。それから、封筒ごと遺書を握りしめて、彼を見た。
女の目つきが変わっていた。
彼は、女が自分を殺そうとしていることをはっきりと意識した。
女が一歩近づいた。
彼は後じさった。
女がさらに一歩進んだ。
彼は、くるりと向きを変えて逃げ出した。
女も追いかけてきた。
女が叫んだ。
――待って! 彼は、ふり返った。女が駆けよってくる。
彼は、女に向かっていった。
――来るな! 彼は、女に背を向けた。そして、女とは反対の方へ向かって、走りだした。
女も追ってきている。
彼は必死になって走った。
しかし、女の方が足が速かった。
女は、彼のすぐ背後に迫っているようであった。
彼は、恐怖に駆られた。
彼は、近くの家々の戸口に飛びこんでは、中へ入って隠れた。しかし、すぐにまた外へ出て、次の家の中へ飛びこんだ。
彼は、息がきれてきて苦しくなった。
そして、ついに彼は足をとめてしまった。
ふり向くと、すぐ後ろに女が立っていた。
彼は、その場にしゃがみこみそうになった。
女が何か言おうとしたとき、彼は、その口を手でふさいだ。そして、女の体を横へ押しやった。
彼は、また走り出した。
その先に、また別の家が見えた。彼はそこへ飛び込みたかった。しかし、その前に、何か障害物のようなものがあって、彼は立ちどまらなければならなかった。
彼は、その障害物を見上げた。それは塀だった。
彼は、また別の方角へ走ろうとした。
と、そのとき、何か大きなものにぶつかって、彼はよろめいた。そして、地面に倒れてしまった。
顔を上げると、目の前に大きな犬がいた。
それは、大きなドーベルマンだった。
女が何か叫んでいたが、彼の耳には何も聞こえなかった。
彼は、四つんばいになったまま、じりじりと後退していった。
そして、ようやく立ち上がった時、彼は、自分が逃げ道を失っていることを悟った。
女と犬が迫ってくる。
彼は、あとずさりしながら、塀のそばまで来た。
彼は、その塀を乗り越えて逃げようとした。と、その時、女の声を聞いた。
――やめて! 彼はふり向いた。
女は、犬を制止していた。
彼は、女を見て、はっとなった。
女の顔が別人のように思えたからだ。
女は、彼の方を見ていた。
女は、彼の前に立った。
そして、彼の手をとった。
彼は、女の手を振り払って逃げようとしたが、できなかった。
彼は、思わず遺書を取りかえそうとした。しかし、女は、遺書をしっかりと握りしめていた。
女は、それを持ったまま、彼から離れていった。
彼は、呆然と立ちつくしたまま、女の姿を見送った。
女は、その遺書を持って、どこかへ行ってしまった。
彼は、しばらくそこに立ちどまっていたが、やがてその場を離れた。
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