閑話 後悔してからでは遅いんです
耳元で聴こえる荒い息遣い、部屋中に広がるむせ返りそうになる程強烈な汗の臭い。
重たい肉の塊にのし掛かられつつも、私は自分の口を押さえて万が一を必死に防ぎつつ、ただ苦痛に耐え続ける。
私の上にいる男の口からは何やら気持ちの悪い言葉が発せられているが、そんなの全く聞いてなどいなかった。
私はただ、この辛い時間が一刻も早く過ぎ去ることだけを願っていた。
やがて男が達すると、やはり私の唇を奪おうとしてくるので必死に阻止する。
それだけはダメなのだ。他の全てを汚されてしまった私にとって、それが最後の砦なのだから。
こうして私は、今日も男と寝ることで命を繋ぐ。
けれど最近思うのだ。
そんな私の生に、一体どれ程の価値があるのかと。死んでしまった方が良いんじゃないのかと。
けれど、それでは生きたくても生きられなかった大切な人に顔向け出来ない。
……いや、今の私の生き方では既に手遅れか。
そして私は、汚い男の腕に抱かれながら眠りに落ちて行った。
どうか目が覚めたら、あの輝かしい日々が帰ってきていますようにと祈りながら。
◇
「……うぅん、んんっ!?」
目を覚ました私は、ボヤけてしまうほど近くに大好きな人の顔を見て、というかこの感触ってもしかして……!?
少しヒンヤリとしていて、それでいてプルプルとした柔らかいそれが何故か私のそれと重なってしまっていて……。
私は朝から叫び出したいのを必死に堪え、なんとか平静を保とうと試みる。
今日も見てしまったあの忌々しい夢の中では必死に守っていた唇が、こうも簡単に奪われてしまうとは……。
でも、ある訳がないと思いながらもこうなる事を望んで守ってきたんだから、もう少しこのままでもいいよね?
「(おはようございます、キルシュさん。お邪魔かと思いますが、他の方々が起きる前にお止めになったほうが良いと思いますよ)」
「(……っ! び、びっくりした……、声出るかと思ったわよ!)」
突然頭の中に直接響いてきたのは、私が"死霊術"を使う時にいつも呼び出す、アイという名の女の子の声だった。
酷く呆れたようなその子の声に私はちょっと気まずい気持ちになりながらも、お兄ちゃんの唇から自分のそれを離した。
「(そんな悲しそうな顔しないでください。それ程までに好きなら、もっと大胆にアプローチしてしまえばいいのでは?)」
そんな事は分かっている。けれど、どうしてもあの記憶が私の決意を鈍らせる。
私はすっかり汚され切ってしまった。
それに対してこんなにも綺麗な美少女に生まれ変わったお兄ちゃん。そして同じく綺麗で穢れの一切感じられないカミラさんと芹奈さん。
この三人の中に私が入るのは、新築の新婚さんの家に汚い土足で入り込んで私も混ぜてと言うような、そんな背徳感があるのだ。
「(少し比喩の癖は強いですが……、気持ちは分かりますよ。でもそれだと、一切進展しないじゃないですか。しかもキルシュさんは吸血鬼になってしまい、寿命も失っているんです。いつかは腹を括らないと、苦しいだけですよ)」
「(それは……、分かってる、つもりなんだけどね)」
「(多分ですけど、本当の意味では分かっていないんですよ。不老不死になってしまったこと、そしてその辛さを)」
私は、何も反論出来なかった。
日本人としての記憶が強く残っている所為で、不老不死なんてものが想像出来ないのは事実だ。
老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ。
私が大好きなアニメキャラクターの台詞で、そして私はその美しさを図らずも失ってしまった。
「(ふふっ、まるでウチは鬼だね)」
「(なっ、何を言ってるんですかキルシュさん! 私はお、鬼じゃありませんよ!?)」
「(えーと、何の話?)」
何故か鬼という単語に過剰に反応するアイの様子に、思わず首を傾げる。
そういえば私、アイのことあんまりよく知らないな。
というより、"死霊術"を使って呼び出す霊魂の過去は、誰であろうと詮索しないようにしている。
私の呼び掛けに応えてくれる霊魂は絶対私に牙を剥く事はないし、何より死者にどうして死んだのとか、遺族に会いたくないのかとか聞くのはあまりにもデリカシーが無いと思ったから。
「(別にウチはアイの過去を詮索しようとしてるんじゃないよ)」
「(うっ、少し過剰に反応してしまいました。申し訳ありません)」
そんな謝らなくてもいいのに。そう思って私はアイの頭を撫でようと手を伸ばし、そして逆にその手をガッチリホールドされてしまった。
「(油断しましたねキルシュさん。"死霊術"者は霊魂と触れ合える、それはつまり私から触れることも出来るってことなんですよ)」
「(……な、何をするつもり?)」
「(何もしませんよ。ただ逃したくないだけなので)」
アイはそう言って、今まで見たことがない程真剣な眼差しを私に向ける。見た目は少女なのに、まるでお母さんに見つめられているかのような錯覚をする程の鋭い視線に、私は思わず息を呑んだ。
「(これはキルシュさん、アナタの人生です。なので私が生き方を決めることは出来ません。ですが想いを伝えられる機会があるのなら、伝えられる内にしっかり言うべきなんです。……後悔してからでは遅いんです。キルシュさんには、私と同じ失敗をしてほしくないんです。人生何が起こるのかなんて、誰にも分からないんですから)」
「(アイ……)」
その気丈な眼差しに相反して、彼女の身体は震えていた。
それで分かった。これは、彼女の実体験からくるアドバイスなのだと。
アイは死霊だ。それはつまり、成仏することもが出来ず、それでいて悪霊になる事もなくこの世に留まっている霊魂ということ。
この世に強い未練を持ちながら、誰の事を恨んでもいない特殊な霊。だからアイも、強い未練を抱えているって事で、その未練とはつまり……。
「(……ごめん、アイ)」
「(謝らないでください。私は同情を求めているのではありませんから。それでも申し訳ないと思うのでしたら、前に進んでください。それが私と、オイゲンさんの願いなのですから)」
「……え?」
どうしてここでお父さんが出てくるんだろうと不思議に思って、つい『念話』ではなく声を漏らしてしまう。
それに気付いたのかは分からないけど、「うぅ……」と少し唸ったからお兄ちゃんが目を覚ました。
「おはようさくら。今日も私のベッドに入ってたの?」
寝ぼけ眼を擦るお兄ちゃんの姿は本当に綺麗で、女の子同士という垣根を超えて私の心を掴んでくる。
……本当に、私はこの人の事が大好きなんだな。
アイにも背中を押してもらったことだし、私もそろそろ前に進まないといけない頃かもしれないね。
私は一つ深呼吸をして覚悟を決めてから、口を開く。
「おはようお兄ちゃん。ねえ、今日一日ウチとデートしない? カミラさんと芹奈さん抜きで」