第三十八話 走馬灯
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「うらぁ!!」
地の底まで轟くような気合いと共に、空気を引き裂く鋭い風切り音が響く。その直後、金属同士が衝突する甲高い音と共に猛烈な威力の衝撃波が辺りの瓦礫を根こそぎ吹き飛ばした。
「これすらも耐えるとは、よもや魔人族とは思えない強靭さだな。そしてその籠手、一体どんな素材を使っていたらこの一撃を受けられるのだ?」
「お兄ちゃんの魔法とウチの力、舐めると痛い目に遭うわよ」
二メートルを超える屈強な大男オイゲンと対峙するのは、身長の程150程度の少女キルシュだ。傍目には圧倒的に不利と思えるその体躯の差に反して、これまでの打ち合いで優位に立っていたのはキルシュの方だった。
キルシュは格闘技の心得など皆無であり、素人同然の動きながらその一撃の威力は凄まじく、オイゲンが仮に斧で受けようものなら数発で粉砕してしまうであろう程であった。
それ故にオイゲンは全ての攻撃を躱していたものの、キルシュの拳が振られた軌跡をなぞる様に生み出される衝撃波によって既に肋骨を三本折られていた。
対してキルシュは全くの無傷。Aランク冒険者でもその得物ごと引き裂いてしまうであろうほどの攻撃をも簡単に弾き返してしまうのだから、彼女の"怪力"はやはり並外れている。
しかし決定打を与えるには技術が無さすぎるのもまた事実。状況は膠着し始めていた。
だからこそ、キルシュは出し惜しみすることをやめた。
「お父さん、最初に言っておく。ごめん。絶対に死なないようにするから、それまで頑張ってね」
「……なに? 待て、お前まさか!!」
キルシュが何をしようとしたのか察したオイゲンは、今日初めて見せる焦燥しきった顔で高速の一振りを見舞う。
しかしそれより速く、キルシュは手にした勾玉の封印を解除した。その瞬間、出鱈目な転生者アリスと五分の戦いを繰り広げた怪物、両面宿儺が姿を表した。
オイゲンの攻撃はキルシュに届く前に両面宿儺に阻まれ、あっさり弾かれてしまう。
そうして体勢を崩した彼に向かって、両面宿儺は腕を振るった。それはまるで羽虫を払うかのような、力のこもっていない一撃。しかしそれだけで彼は十メートル以上も吹き飛ばされ、教会の壁にめり込んだ。
その衝撃で教会に設置されていた巨大な鐘が落下して轟音を響かせる。仮にアリスが『雑音相殺』を教会の周囲に施していなければ、【トーノ】村の全住人が目を覚ましていた事だろう。
「がっ、は……。何故お前が、両面宿儺を……っ!?」
「私は何度も言ったはずだよ、お父さん。ウチはあなたの娘なんだって。それなら当然、受け継いでいると思うのが普通じゃない?」
「た、確かにオレは宿儺を封印した勾玉を持ってはいなかったが、このオレが手放すなど……」
「お父さん、ウチのこと溺愛してたからね。本当、恥ずかしいくらいに」
「う、恨むぞその時のオレ……」
「逆だよ。記憶を失ってしまった自分を恨むべきなんだよ、お父さんは。そして思い出そうとするべきなんだよ、ウチやお母さんと過ごしたあの暖かい日々を」
「……」
キルシュの想いを聞いたオイゲンは、彼女をただじっと見つめていた。
しかしそんな状況など知ったこっちゃないと言わんばかりに容赦なく、両面宿儺は次々に矢を放っていく。
オイゲンはそれを見るや否や即座に壁から抜け出して地面を転がって矢を避けていく。やはり長年両面宿儺を扱い続けていたこともあり、その癖は把握しているのか全て難なく躱している。
しかしその顔には焦りの色が浮かんでいた。彼は確かに両面宿儺の戦い方を熟知しているが、もし宿儺が剣を取り出したならば彼に勝ち目は無い。
それは単純に、身体能力も技のキレも全てにおいて両面宿儺が上回っているからだ。知っていたら勝てる程、両者の実力の差は小さく無い。
「おいおいおい、やっぱり反則だろそれを出すのは! 全然勝てる未来が見えないぞ!」
「いいのよ反則でも。ウチはお父さんに思い出してほしいだけなんだから」
「このままだとオレは死ぬがな! それにオレの記憶は恐らくピグロ様に消されているんだろう? それなら二度とその記憶が返って来ることは無い!」
「じゃあなんでお父さんはあの時手加減したの? 最初にお父さんが私に斬りかかって来た時にウチが使っていた短剣、素人が打ったレベルの粗悪品だったのよ。どう考えても、ウチが生きているのはお父さんが手加減したからとしか思えない」
これはお兄ちゃんからの受け売りだけどね、とボソッと呟くキルシュ。オイゲンは、そんな彼女の言葉に狼狽えた。
「オレが手加減……? そんなバカな。あの時お前が使っていた得物は、もう一人の標的が作った業物では無かったのか!?」
「自覚無かったんだ。そうだよね、それはお兄ちゃんも言ってた。記憶は完全に消されてしまっている、だけどもしかしたら心は残ってるんじゃないかって」
キルシュは、脚にグッと力を入れて地面を強く踏みしめる。
「もし、ウチがお父さんの心に触れる事が出来たなら……。だからウチは、絶対に負けられない!」
「……っ!?」
キルシュの声に合わせるかの様に、両面宿儺が腰に差していた剣を抜き一気に距離を詰める。
オイゲンはそれを無駄だと分かっていながらも、斧の面を向けて受け止めようと試みる。
そして宿儺の刃が届き、斧ごと彼を両断するかと思われたその瞬間、突然両面宿儺の姿が掻き消えた。
驚きに目を見開くオイゲンが次に見たのは、腰を捻って強く握りしめた拳を振りかぶるキルシュの姿だった。
そう、キルシュは両面宿儺の影に隠れてオイゲンとの距離を詰めたのだ。そして当然、斧で防御体勢を取っていたオイゲンに対処する術は無く……。
獣の様な咆哮と共に振り抜かれた拳は容易く斧を砕き、尚も威力そのままにオイゲンの胸を貫こうと迫っていく。この瞬間、彼は自身の死を確信した。
この一撃を躱す事は不可能、そしてその威力は直撃すればあのドラゴンでさえもただでは済まぬ程に出鱈目だ。
ああそうか、オレはここで死ぬのか。
まるで時が止まったかのように錯覚するほどに加速した思考で、彼は想う。
"猟犬"最強だと崇められて、ピグロ様の為だからと何人も何人も殺してきた。
魔族で最強とは思わないが、自分より強い魔人なんて存在しないと信じていた。
それなのに、なんて情けない……、無様な最期だ。
嫁さんにも娘にも何にもしてやれずにこんなところで散るのか、オレは。
オレの所為で貧乏になった家庭を投げ出す事なく笑顔で支えてくれた嫁。そんなオレたちを助けようと、魔王の配下にまでなった娘。
何が最強の"猟犬"だ。男の癖に一番使えないじゃないか。それなら、オレは何のために"猟犬"を辞めたんだ?
……何を考えているんだオレは? オレに嫁なんて、ましてや娘なんて。
「ここにいるんだよ! その娘が!! いい加減、思い出せ!!!」
女性のものとは思えない程の鬼気迫ったその怒号に、オイゲンがハッと顔を上げたその瞬間、キルシュは握っていた拳を開いて彼に思い切り抱きついた。
「お、お前は……」
「お前じゃない、キルシュだよ!! お父さんが付けてくれた大切な……、大切な名前なんだよ……」