第三十四話 集団操作
「さくら、大丈夫!?」
私は慌ててさくらの元へ駆け寄り、震える彼女を強く抱きしめる。その身体は小刻みに震えていて、彼女がどれ程の恐怖と苦痛を味わったのかが如実に伝わってくる。
「お兄ちゃん……、お父さんどうしちゃったの? どうして私を殺そうとしたの? なんで? どうして……」
「さくら……」
この世界に来て、さくらにとっては家族こそが一番大切な存在だった。それこそ、私に一度殺されてまで助けようとするくらいには。
そんな彼女にとって、実の父親にあれだけの殺意を向けられるのは相当辛いはずだ。
「……有栖君、改めて聞いていい? 一体何が起きてるの?」
「私は大体察しましたけど、その予想が当たっているなら"怠惰"は私が思っていたより相当醜悪な心を持っていることになります」
カミラちゃんは、その瞳に青く燃えるような怒りを携えながらさくらの背中を優しく摩った。
「多分、カミラちゃんの予想は当たっているよ。と言っても、私の考えだって仮説に過ぎないけどね」
私はそれから、自分の考えを語った。
結論から言えば、もうオイゲンさんには家族の、つまりさくらとマリーさんと過ごした日々の記憶は全て消されているだろう。これは芹奈ちゃんにも分かっていたみたいだ。
しかしそうなると、何故今なのかという疑問が湧いてくる。昨日だってオイゲンさんは一家団欒の時を過ごしていたんだし、わざわざ日を空ける必要なんて無い。そんなことしたら、こうやって妨害されるリスクが上がってしまうのだから。
これを解明するヒントは、オイゲンさんの言葉の中にあった。
「"猟犬"を動かしているということは、"怠惰"はこの村に来ているはずだ」
この言葉の意味するところ、それは"猟犬"を動かすためには"怠惰"もその近くにいなければならないということだ。
例えば魔王城に居座ったまま、"猟犬"だけを各地に放つようなことは出来ないということになる。
では何故出来ないのか?
オイゲンさんを見れば分かるけど、"猟犬"は個々にしっかりとした意思と目的がある。傀儡にされている訳ではないのだ。
それなら別に、"猟犬"と"怠惰"が近くにいる必要は無いはずだ。それなのに、必ず一緒に行動するのはどうしてなんだろう?
ここからはより推測の色が強くなってしまうんだけど、多分"怠惰"の魔法有効範囲がそんなに広くは無いんだ。
そしてその魔法とはおそらく、『集団洗脳』と『集団記憶操作』。
『集団洗脳』は文字通り、一定数の集団に暗示を施してある程度の行動を操る魔法。これにより、"猟犬"は裏切ることのない最強の駒と化す。
しかしあくまで暗示程度のものなので、強力な意思を持つ存在には無効化されてしまう。それが多分、家族への愛情を理由にオイゲンさんが"猟犬"を離れられた理由なんだと思う。
『集団記憶操作』はさっき私達が相手した"猟犬"を見たら分かるように、複数の対象に対して記憶操作を行う魔法だ。
記憶操作魔法自体が無効化され易い上に集団へ施すのだから、必要な魔力量はかなり多いだろう。そしてその射程も無限だとは考えにくい。
何故なら、魔力を体外に放出した場合は距離減衰が発生するからだ。
摩擦のように魔力が熱に変換されてしまっているのか、拡散が異様に速いのかは分からない。けれど、放った魔力が減衰しなければ、例えば私が怒り狂った時に放出した魔力は周囲の空間に溜まり続けていたはず。
けれど実際にはそんなことなくて、溢れた魔力は身体から離れると次第に消えていった。
そして普通の記憶操作魔法は私が普段しているように、対象の頭に触れて行うのが普通だ。それくらい濃密な魔力が必要だというのに遠隔で発動するなんて出鱈目過ぎるんだよ。
そこで推測したのが、事前に魔法が発動するのに必要な印を対象に付けておいて、僅かな魔力で起動するようにしておくという手段だ。
「あれ? でも有栖君、さっきの"猟犬"達は死んだり捕まったりしたら自動的に記憶が消されるように仕組まれていたって推測してなかったかしら?」
「その考えは今も変わらないよ。ただ記憶操作なんて強力な魔法が、術者の魔力無しに発動するなんて考えられないんだよ。だから多分、"怠惰"は"猟犬"達を自分を中心に据えた円形に放って、自身は魔力を拡散させ続けているんじゃないかな? 『集団洗脳』で、その魔力が消え切らない範囲内でしか行動しないように暗示をかけた上でね」
「そういうことですか。確かにそれなら、"怠惰"自信が敢えて前線に出てこない……、いえ、出てこれないのも納得できます」
「あー、自分が前線に出たら円の中心位置が変わってしまうものね。やっと理解できたわ。でもオイゲンさんは最初記憶操作されてなかったわよね? それはどうしてなのかしら?」
「多分だけど、泳がされていたんじゃないかな。裏切りは、仲間が完全に信じ切ったタイミングでするのが一番効果的だから」
「……確かにそれは最悪ですね」
自分で想定した仮説に過ぎないのに、そう考えるだけで胸糞悪くなって仕方がない。けれど、私にはこの考えが間違っているとは思えなかった。
「……お兄ちゃん、それじゃあお父さんはもう私達の事を思い出す事は無いの? さっき言ったよね、倒した"猟犬"達の記憶が消されていたって。つまりそれって、お兄ちゃんでさえもその人達の記憶を復元することが出来なかったってことなんだよね?」
さくらは光の灯らない瞳で虚空を見つめながら、私が敢えて触れなかった事実に触れる。
私はすぐに答えようとして、でも息が詰まって言葉が出ない。
今のさくらの精神状態で、その悲しい現実を突きつけるのは間違いなく彼女の心を壊してしまう。
けれど、ここで嘘をついても後で余計に辛くなる。
……だから私は、何も言えなかった。
「やっぱりそうなんだね。じゃあもうお父さんは、二度と私のこと好きだって、愛してるって言ってくれないんだ。もう二度と撫でてくれることも、一緒に遊びに行くことも、お母さんとくだらない冗談言って笑い合うことも……」
それは、ある意味で死んでしまうことよりも辛い現実かもしれない。
人を動かす原動力は心だと言うけれど、その心を形作るものは記憶だ。それが消されてしまったなら、さくらの言う通り、もう二度と……。
その時、ふとさくらが手に持つ短剣に目が止まった。
元々さくらはこんな物持っていなかったし、一体どこから持ち出してきた物なんだろうかって気になっていたそれは、正直玩具と言っても差し支えないほどに粗雑なものだった。
それが、刃こそ欠けているものの折れることなく原型を保っているんだ。
私が駆けつけた時には、既にさくらはオイゲンさんの攻撃をこの短剣で受けていた。
そう、あの巨大な斧による攻撃を。"猟犬"すらも簡単に両断してしまう程の威力と斬れ味を持った攻撃を。
「……さくら、もしかしたらまだ間に合うかもしれない」
「……え?」
私は彼女の手を取り、そしてしっかりとその瞳を見据える。
「勿論絶対にどうにかできるだなんて都合の良い事は言わない。だけど希望はある。ただ、それも多分時間の問題だと思う」
彼の記憶は、既に完全に消されてしまっているのだろう。けれど、もしかしたら心はまだ形を保っているのかもしれない。
そしてオイゲンさんはおそらく、"怠惰"の元にいる。他の場所に行く理由が思いつかないしね。
そしてその場所は、これまでの"猟犬"の動きから推測するのは簡単だ。
「だから着いてくるんだ。もう二度と大切な家族を失わない為に、自分の足で歩くんだ」
私はさくらをそっと立ち上がらせ、彼女の手を離す。
「……まだ、終わってないんだね。だったら私は行くわ。ほんの少しでもあの幸せな日々が帰ってくる可能性があるのなら」
次に私が彼女を見た時、その目には確かに青く燃える炎のような強い光が灯っていた。
「案内して、お兄ちゃん。私を、お父さんのところに」