第三十三話 最悪のシナリオ
私が何から聞き出そうかと考えていた、その時だった。項垂れた状態でいた男の身体がぐらりと揺れて、その場に倒れたのは。
「ちょっと、え、どうしたんですか!? カミラちゃん!」
「は、はい! 解除します!」
私はカミラちゃんが『氷牢』消してくれると同時に男へ駆け寄って首元に手を当てる。彼の脈は、既に完全に止まってしまっていた。
「この人、まさか自分で……」
「流石は隠密部隊といったところね。でも有栖君が死体からでも記憶を読み取れると分かった上で死ぬのは、ちょっと理解できないわ」
見通しが甘かった。人は自分の死を現実のものとして見せつけられた時、生への渇望が勝るものだと勝手に思い込んでいた。
「……なんでそんな簡単に自分の命を捨てられるの? 命に勝るものなんて、絶対に無いのに」
「命に勝るものは命ですよ、アリス姉さん。私だって、アリス姉さんの為なら自分の命を捨てられます。彼にとってその相手が誰だったのかは分かりませんが、不思議なことではありませんよ」
自分の命よりも相手の命を優先する、か。
そう言われると、私だってカミラちゃんや芹奈ちゃん、さくらの命を守る為なら自分の命を差し出せると思う。
でも、私は事前に死体から記憶を読み取れる事は伝えてあったはずだし……。
「ま、まさか!?」
私はすぐに男の頭に手を当てて『サイコメトリー』で記憶を読み取ろうとして、しかし彼の頭には全く何の記憶も残されていなかった。
もう一人の上半身だけどなってしまった男も、やはり記憶が無い。まるで彼らが精巧に作られた人形かのように感じられて、酷く不気味だ。
「記憶が無い!? なんでそんな……」
「考えられる可能性は二つですね。一つは彼らが死ぬ直前に自分自身へ記憶消去の魔法を施していた、若しくは尋問を受けると記憶が消されるように脳に細工がされていたか、ですね」
「げっ、魔族ってそんなことも出来るの? 魔族も十分チートじゃない」
「自分の記憶を消すだけなら兎も角、複数人に条件起動式の記憶消去魔法を付与するなんて普通の魔族には不可能ですよ。これはあくまで、相手が魔王の配下だという前提があっての話です」
私は二人の会話を聞きながら、"怠惰"という存在に恐怖を感じていた。
状況から考えて、『プロミネンス』で死んだ男が自分の記憶を消す時間なんて無かったはず。
つまり、彼の記憶は"怠惰"に消されたと考えるのが自然だ。そしてそれは、その人物が超強力な記憶操作魔法を使えるということに他ならない。
私達なら正直、相手がどれだけ強力な記憶操作を行おうとしても無効化出来ると思うんだけど、他の人は違う。
例えばさくらやその家族だ。さくらを含めてあの一家は全員魔力量が少なかったから、当然無効化なんて出来はしないだろう。
そして特に問題になるのはオイゲンさんだ。一度は"猟犬"に所属していた彼が、果たしてその呪縛から逃れられているのか?
いつかは裏切る可能性があるからって、保険をかけられている可能性は?
特に彼は、当時の"猟犬"で最強だった男なんだから。
良くないと分かっていても、悪い想像ばかりしてしまう。
彼はもう何年も自由に暮らしていたのだろうし、今晩だって"猟犬"を何人か葬っても特に何もされていなかったし、問題無いと考えるのが自然なんだ。
自分にそう言い聞かせていた、その時だった。オイゲンさんのとある言葉を思い出したのは。
「……待てよ、そういえば」
彼は確かこう言った。
「"猟犬"を動かしているということは、"怠惰"はこの村に来ているはずだ」
今は無い心臓が、ドキリと跳ねるような錯覚を覚えて頭から血がサッと引いていく。
「しまった! どうして思い当たらなかったんだ!!」
私は馬鹿だ! オイゲンさんのあの言葉、スルーしていいはずがないのに!!
「芹奈ちゃん、カミラちゃん! 目標変更! 今すぐさくらの家に戻るよ!!」
「ええ!? 今から? なんで?」
「アリス姉さん、今は元凶を叩いた方が良いと思いますけど……」
言いたい事は分かるし、私自身もそう思ったからこうして前線に出てきた。だけど、もし私の考えが正しければ最悪の結末を迎えるかもしれない。
「いいから早く着いてきて! じゃないと手遅れになるかもしれない!!」
私は困惑する二人を置いて全力の浮遊魔法でさくらの家に向かった。この距離なら、イメージを固めるのに時間を要する『転移門』を使うよりも飛んだ方が速い。
飛び始めてすぐ、私はそれを見つけて歯噛みした。
それは、暗闇に散る橙色に輝く火花だった。そして聞こえてくる、金属と金属がぶつかり合う甲高い音。
私は迷う事なく"紫炎"に魔力を流して斬れ味を上げ、浮遊魔法の速度そのままに音の中心に向かって斬り込んだ。
ギィン! と耳をつんざく金属音と共に、私はその巨大な斧を弾き飛ばした。
いくら私が全力で魔法をぶつけた訳ではないにしろ、"紫炎"であの斧を斬ることは出来なかった。一体どれだけ強固なんだ、あの斧は!
私は心の中で舌打ちしつつも、勢いを止めることなく刀の峰で追撃を放つ。
音速に届こうという速度で振り抜かれたその刀は、しかしあろう事か空を斬る。
まさか、あれだけ巨大な斧を弾かれて崩れた体勢でこれを躱すなんて、信じられない!
追撃が失敗に終わった私は一度バックステップで距離を取りつつ、刀を正眼に構えて息を整える。
"紫炎"が妖しく放つ紫の光に当てられて、暗闇に隠されたその人の姿が浮かび上がる。
「やっぱりこうなりましたか……、オイゲンさん!!」
そう、そこにいたのは私が想像した通りの人物だった。
「お、お兄ちゃん、どうして……?」
そして私の背後にいるのが、さくらだ。彼女はその手に短剣を持ち、目に涙を溜めてへたり込んでいた。
今オイゲンさんが斬りかかっていた相手は、さくらだった。この意味は、最早語るまでも無い。
「オイゲンさん、貴方は今自分が何をしたのか分かっているんですか?」
「へぇ、オレの名前を知ってるのか。まったく、一体どこから漏れたのやら。まあいい、オレはそんな小さな事は気にしない性質だからな! がはははは! ……それで、何者なんだ貴様らは」
夜にも関わらず大きな声で笑ったかと思ったら、まるでアイスピックを突き立てられたかのように錯覚する程の鋭い眼光で私を射抜く。
ついさっきまで仲間として接していたはずなのに、この殺気には一片の曇りもない。確実に、彼は記憶を消されている。
私とオイゲンさんが睨み合いをしている中、遅れてやってきた芹奈ちゃんとカミラちゃんも状況を見て察したらしい。迷いなくそれぞれ剣と封魔の杖を構える。
「……まだいたのか。これは流石のオレでも不利と言わざるを得ないみたいだな。命拾いしたな標的。オレは一旦引かせてもらうぜ」
「させると思いますか?」
オイゲンさんが逃げの体勢に入ったその瞬間、"紫炎"の灯りによって生じた影から無数の手が生えてきて彼を絡めとる。
そして同時にカミラちゃん渾身の『氷牢』が発動、オイゲンさんを完璧に閉じ込めた。
「へぇ、中々のやり手みたいだな。だが、これでどうかな?」
その瞬間、"紫炎"が突然輝きを失い辺りが再び闇に包まれた。私は慌てて『ライト』で辺りを照らしたけれど、その時には既に『氷牢』内にオイゲンさんの姿は無かった。
一体どうやって逃げ出したのかは分からないけど、完全に取り逃してしまった。
「くそっ、どうやって!?」
思わず口から悪態が漏れ、「落ち着いて」と芹奈ちゃんが肩に手を置いてくれる。
しかし、この焦る気持ちが収まる事は無い。
何故なら今正に、考え得る限り最悪のシナリオが動き出そうとしているのだから。