第四話 ハノーヴァー邸
さて、私は今とっても綺麗で大きな門の前にカミラちゃんと一緒に立っている。壁のせいで中を見ることはできないけど、ホワイトハウスと同じくらいには大きいんじゃないかと思う。
"適性検査"を終えた私達は、まず私の両親の元に向かって事情を説明した。当然二人は驚いていたけど、高ランク冒険者だった経験からかお貴族様と関わる機会があったみたいで、接し方を手短に教えてくれた。
お貴族様を見る時には必ず顔を肩から後ろに向けないこと。振り向く際には、必ず身体ごと振り向かなければならない。聞かれたことは濁さずハッキリと答える。目を合わせる際には直接相手の目を見ず、おでこの辺りを見る。テーブルマナーや基本作法は既に学んでいるから問題なし。
ただカミラちゃんは孤児らしく、そういったマナーを学んでいなかった。なのでその点については、必ず先に私から説明するようにと言われた。
凄く素敵なドレスを着ていたから孤児ではないんだと思っていたんだけど、どうやら孤児院にはハノーヴァー伯爵夫人が"適性検査"のために毎年ドレスを寄付しているんだそう。
本当にいい方達だと思う。あの方達が領主で本当によかったよ。もしここがベルマン子爵の領地だったらと考えるとゾッとする。
そんなことを考えていると、突然荘厳な扉が音を立てて開いた。突然のことすぎてポカンと口を開けていた私とカミラちゃんだったけれど、そこから現れた人物を見て慌てて姿勢を正した。
「ようこそお越しくださいましたわ、アリスさん、カミラさん。改めまして、わたくしはニーナ・フォン・ハノーヴァーと申します」
まさかのニーナ様直々のお迎えに、背を嫌な汗が伝うのを感じる。完全に使用人さんが迎えに来る者だとばかり思っていたのに、いきなり本番だなんて聞いてない。とにかく、ここは私が積極的にお手本を見せないと!
「ご、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私はアリスと申します」
「わ、私はカミラと申します。よ、よろしくお願いいたします」
カミラちゃんは事前の打ち合わせ通り、私に倣ってスカートの端を摘み上げてお辞儀した。これでとりあえず、ファーストステージ突破、かな?
「そんなに畏まらなくても大丈夫ですわよ。といっても、わたくしの身分でそれを言っても難しいですわよね」
ニーナ様はそう言って困ったように苦笑した。本当に良い人なんだろうし、とっても可愛いけど確かにはい、その通りでございます。特に内気な日本人気質の有栖の性格が悲鳴を上げてるよ……。
「こんなところで長話もなんですから、中に入りましょうか。案内しますので、ついて来てくださるかしら?」
「はい、承知しました。よろしくお願いいたします」
「お、お願いいたします」
私達が頭を下げると、ニーナ様はニコリと微笑んで中に入っていった。私とカミラちゃんも、慌てて門を潜る。
そこには、宮殿の庭ですと言われても疑うこともないであろう程に、素晴らしい景色が広がっていた。
門を抜けてすぐ、綺麗に切り揃えられた緑のカーテンが道を作っている。そこを抜けたら噴水があり、その周りをグルリと一周できるように道がある。広々とした庭には色彩豊かな花々が綺麗に咲き誇っていて、とても美しい。
正面に見えるお屋敷は煉瓦造りの三階建てで、横に大きく広がっているからもの凄く大きく見える。いや、実際に大きいんだけど。有栖が子供の頃、旅行でフランスに行った時に見た貴族の大邸宅を思い出させる。
「と、とっても綺麗ですね。外からは壁であまり見えませんでしたけど、こんなに美しいとは思いませんでした」
私が思わずそう口にすると、ニーナ様はとても嬉しそうに微笑んでくれた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、庭師さん達も報われるというものですわ」
上機嫌なのを隠しもしないで笑うニーナ様のお姿は、年相応の少女そのもので。私は少しだけ肩の力を抜くことができた。
それから屋敷の中に入り、客間に通された。途中何人ものメイドさんや執事さんとすれ違ったけど、みんな朗らかに挨拶してくれたし、なんて良いところなんだろう。
カミラちゃんも大分落ち着いてきたみたいで、さっきまでよりオロオロしていない。相変わらず伏し目がちだから、視線については十分に注意してもらわないといけないけどね。
「わたくしはお父様を呼んできますので、こちらで少々お待ちくださいな。お菓子はご自由に食べて構いませんので、どうぞごゆっくり」
ニーナ様はそう言ってからメイドさんに何やら指示を出して部屋を出て行った。
私は知っている。こう言われたら、お菓子は食べなければむしろ好意を踏み躙ったとして失礼に当たることを。つまり、私にはお菓子を食べる権利が、否、義務があるのだと。
机にはアフタヌーンティーのお店でよく見るケーキスタンドがあり、そこにはとっても美味しそうなケーキやフルーツ、焼き菓子が置かれている。
そこから漂ってくる甘い香りは、前世以来七年間も嗅ぐ機会がなく、そのあまりの懐かしさに腹の虫が鳴くのを抑えることができないものだった。
……そう、この世界で甘味とは、平民は口にするのを許されないほどに貴重なものなんだ。王都とかでは平民でも食べることが出来るらしいけど、それ以外の街ではまず砂糖が手に入らない。
砂糖はサトウキビから作られるけど、ノルトハイム王国の気候ではそもそも栽培ができないんだよね。だから輸入に頼っているんだけど、それ故に高値で取り引きされていて数も少ない。お貴族様の分を除いてしまうと王都で消費しきってしまう程度にしか残らないんだそう。
もう一つ重要な甘味としては蜂蜜があるんだけど、なんとこの世界には養蜂技術が存在しない。そのため、蜂蜜は全て天然物だったりする。
当然貴重だし、というか何なら砂糖よりも手に入れにくいので更にお高くなっているのだ。
だから、私はこれまでお菓子と言ってもしょっぱいものか果物しか食べてこなかった。ましてやケーキなんてもっての外。しかしそれが今、目の前にある……。
「カミラちゃん、いただきましょう。あのケーキスタンドで輝いている、至高のスウィーツを」
「い、いいんでしょうか。フォークもスプーンも無いみたいですけど……」
なんやて? と思わずエセ関西弁が出そうになるのをグッと堪えて、テーブルを見回す。
……確かに、ない。これは、ケーキを食べるのは禁止だということなのかな。まあ、アリスとしては甘いもの自体何も食べたことがないから、クッキーとかフィナンシェとかの焼き菓子もカメレオンが如く舌を伸ばして食べてしまいたいくらいなので、何の問題もないです。
「こちらをどうぞ」
「ぎにゃぁ!?」
それこそ下品すぎて死罪にされそうなことを考えていると、突然横からコトリとティーカップが置かれて心臓が口からまろび出そうになる程驚いた。いや、下品な声は出ちゃったけど。
「こちらはニーナ様お気に入りの紅茶でございます。こちらのスタンド最上段がフィナンシェでありまして、この紅茶ととても合いますよ。是非ご賞味ください」
どうやら私が甘い物にご執心であったことは筒抜けだったみたい。ちょっと恥ずかしいなと思いながらも私とカミラちゃんはお礼を言って、フィナンシェを手に取った。
「「い、いただきます」」
そして私達は、恐る恐るそれを口に運んだ。そして、口の中に広がる幸せの味。七年ぶりの焼き菓子は、とても優しい甘さで、そして抜群の美味しさだった。
「お、美味しすぎる……! ふわふわなのにしっとりしてて、バターの香りと蜂蜜のしっかりした甘さが絶妙にマッチしてる! こんなの食べたことないよ!」
「こ、これは夢ですか? わ、私が本当にこんな美味しいものを食べているんですか? 許されるんですか!?」
私とカミラちゃんはあまりの美味しさに涙を流しながら、チマチマと味わいながらフィナンシェを食べた。というかカミラちゃん、そんな大きな声出せたんだね……。
"適正検査"では汚貴族様のせいで不快な気分になったりしたけど、そんなものはすっかりどうでもよくなってしまう程の幸せが、今口の中に広がっている。
でも、これで終わらない。先程メイドさんが用意してくれた紅茶を口に運んだ。その際に、鼻腔をくすぐったのは爽やかなレモンの香り。口に含めば、仄かな甘さとレモンの爽やかな香りがまろやかな紅茶の香りと混ざり合い、絶妙なハーモニーを奏でていた。
「美味しい……。甘いフィナンシェを食べた後にこの甘すぎず爽やかなレモンティー、あまりにも罪深い組み合わせだよ!」
「私、一生分の幸せを全部使い切ったかもしれません……」
私とカミラちゃんは、それはそれはふにゃっとしただらしない笑顔を浮かべて、この至福の時を楽しんでいた。
だからだろうか。私はここがお貴族様のお屋敷であることも忘れ、あまつさえ自分の身に迫る危機に、全く気付くことができなかった。
「ふむ。楽しんでくれているようで何よりです、御客人」
「ふふっ♪ おもてなしのし甲斐がありましたわね」
突然耳に入ってきた聞き覚えのある声に、私とカミラちゃんは雷に打たれたようにピシッと固まってしまった。
全身を嫌な汗が伝うのを感じる。それでも、なんとかゆっくりと声がした方に顔を向ける。
……そこには、朗らかな笑顔を浮かべるハノーヴァー伯爵と、顔に少し悪戯っぽい笑みを貼り付けたニーナ様が立っていた。
……ああ、完全にやらかした!