第六話 ボスエリア
あの戦いから、何日経っただろうか。
『土要塞』で休養を取った私達は、新鮮な空気の中で過ごしたのが功を奏したのかすっかり体調を回復することができた。
その中で、私と芹奈ちゃんは共同してより効果の高いマスクを作り出した。土魔法で活性炭、つまり多くの微細な細孔を持つ炭素の塊を作って、それを薄く広げてハンカチで包む。これが口元に当てられるように調整してあげれば、即席の防毒マスクの完成だ。
活性炭の持つ細孔は微粒子や細菌を吸着させる効果がある。芹奈ちゃんの"世界眼"でその効果についても保証してもらえたから、安心して瘴気の中を歩けるようになったのだ。
問題はそこからだった。
疫病の脅威は無くなったものの、このダンジョンは恐ろしく広かった。どれくらいかというと、一つの階層を一日で終えることすら難しいレベルだった。
代わりにそんなに強い魔物は出てこなかった。既に十五階層まで来ているけれど、それまで特にボスらしき魔物の姿は現れておらず、二層のドラゴンゾンビのパワーだけ桁違いだったことが分かった。
雑魚ばかりと言っても、やはり粉塵爆発の危険とは常に隣り合わせだったし、"退魔症"が完治した訳じゃないカミラちゃんは戦闘に参加出来なかったりで殲滅には結構な労力が必要だった。
魔法の定石として、殲滅力といえば火属性ってところがあるから、それを封じられるのはやっぱり辛かったのだ。
それと、途中何度か"血の契約"に基づいて吸血を行ったんだけど、不思議なことにいつも私達を苦しめていた魔力酔いが起きなかった。
多分、カミラちゃんが"退魔症"を発症していたことが関係しているんだと思う。いつもより血が美味しく感じなかったし、吸血した後私もちゃっかり"退魔症"を発症してしまったから、無関係ではないはずだ。
あれは地獄だった。すぐに『キュア』で治したけど、倒れるまで我慢できていたカミラちゃん凄すぎるよ。インフルエンザで高熱出した時みたいにフラフラになったからね。
こんな状況で、めちゃくちゃ広くて薄暗いダンジョンを十五階も下ったんだ。当然疲労困憊、気分もどんどん悪くなっていった。
「芹奈ちゃん、このダンジョン何階層まであるか分かる?」
「……その質問、もう二十回目よ。わたしの"世界眼"でも、それはさっぱり分からないのよ」
「ごめんなさい、私ずっとおんぶして貰ってばっかりで」
「全然、カミラちゃん軽いし大丈夫だよ。でも、ダンジョンにはうんざりするよ……」
こんな会話を、果たして何回してきただろうか。もはや見慣れ過ぎて見たくなくなってきた魔物達を殲滅しながら、私達は溜め息を吐きながらトボトボと進んでいく。
私、別にダンジョン攻略がしたくて魔族領に来た訳じゃないのになぁ……。
毎日毎日、同じ魔物を倒しては寝てを繰り返すだけの日々。そんな感じで肉体的にも精神的にも疲弊しきっていた私達は今日、漸く希望を見つけることが出来たのだ。
「これ、もしかして……」
私達の目の前には今、高さにして十メートル以上もある大きな扉があった。気味の悪い装飾が施され、紫色の瘴気を放つそれは正にボス部屋と呼ぶに相応しい出立ちだった。
「……うん。この扉、"瘴気の洞穴"のボスエリアで間違いないわよ。やっと辿り着いたぁ……」
汚い地面を気にすることもなくペタリと座り込む私達。本当に、本当に長い道のりだったよ……。
私はすぐに『土要塞』を発動して、扉のすぐ前に拠点を作った。そして三人で食事を摂ってから、芹奈ちゃん用の剣を新調する。
「アリス姉さん、今回は私も戦わせてくれませんか? ボスということはおそらく、あのドラゴンゾンビよりも強いと思いますし」
そんな感じで戦いの準備を整えていると、意を決したようにカミラちゃんがそう言った。
確かにそれはそうなんだけど、私と違って魔力を自力で回復できない彼女が、症状は治っているとはいえ"退魔症"を患っている状態で戦闘に参加するのは、リスクが高い気がする。
「それは分かっています。ですが、無理しない程度の援護なら出来ると思います」
「……本当に、無理しない?」
「はい、絶対に無理はしません。だって、私が死んでしまったらアリス姉さんも死んでしまうんですから。何があっても自分の命を投げ出すようなことはしません」
まるで命がリンクしていなかったら命を投げ出すのも厭わないような言い方に、思わず苦笑してしまう。
「分かった。それじゃあお願いしようかな」
「はい! 任せてください!」
今まで戦闘に参加できなかったことがよっぽど悔しかったのか、封魔の杖を握ったカミラちゃんは満面の笑みを浮かべた。
「うっ、確かにカミラさんって可愛いのね……。今のは女のわたしでも少しキュンと来ちゃったわよ」
「あ、私アリス姉さん一筋なのでそういうのは結構です」
「わたしだって有栖君一筋よ! でも、有栖君が好きになっちゃう気持ちも分かるなと思っただけで」
「ちょ、ちょっとタンマ! ボス戦の前にそんな恥ずかしい話するのはやめて欲しいかな!? 私もう行くよ!」
き、気持ちは嬉しいけどあんなにストレートに一筋だとか言われると恥ずかしいってば……。
そんなこんなで戦いの準備を終えた私達は、再び扉の前にやってきた。あまりにも現実味のない大きさに、思わず息を呑む。
でもこれが、私達が何日も何日も探し求めていたものなんだ。だから、いつまでも立ち止まってはいられない。
私は二人を見て頷き合ってから、意を決して扉を開いた。
そして三人で中に入った瞬間、轟音と共に扉が勢いよく閉まり、そして二度と開けることが出来なくなった。
こういうところは妙にゲームっぽいし予想はしてたけど、それでも心臓が飛び出るかと思うほどにびっくりした。
この世界に来て、いや有栖の人生を含めても一番驚いた瞬間かもしれない。だけど、そんなのが些細なものだと思えるくらい、目の前に広がる光景は酷いものだった。
「何、あれ……。魔物? どうして魔物が、吊るされてるの……?」
芹奈ちゃんが指差す先には、確かに魔物がいた。キャンプしていた時に私達を散々苦しめた一つ目の狼。それが、白い糸でぐるぐる巻にされて天井に吊るされているのだ。
それも、軽く百を超えるくらい夥しい数が。
「あれは、蜘蛛の糸……? アリス姉さん、もしかしたらボスの魔物って……」
「うん、多分カミラちゃんの想像通りで合ってると思う。……物凄く嫌な想像だけど」
「あ、やっぱり? 良かった〜鼠じゃなくて」
全然良くないけどね! と心の中で泣き叫びながら、私は剣を構えて前へ進む。
ドラゴンゾンビと戦った場所よりも広い大空洞の中には、下手な建物よりも大きな蜘蛛の巣が張り巡らされている。
それだけで全身に鳥肌が立つほど気持ちが悪いのに、まだボスが控えているのかと思うとうんざりする。
そう、テンションだだ下がりで広間を歩いていたその時だった。
「……っ! 有栖君、避けて!!」
切羽詰まった芹奈ちゃんの声が響き、私は咄嗟にその場から飛び退いた。その刹那、私がさっきまで立っていた地面が突然沸騰したようにジュワッ! と音を立て、鼻を刺す刺激臭が辺りに広がる。
「何これ!? 酸!?」
少し甘いような、それでいて痛みを伴うこの臭い、まさかフッ酸か!?
私は、日本で医薬用外毒物にも指定されている最凶の酸が飛んできた方を見る。
そこには、虫嫌いなら絶対に卒倒してしまうであろう怪物の姿があった。
「私、蜘蛛は大っ嫌いなんだよ……!」