本能寺にて明智は憤怒
焼け焦げた一つの寺。
つい最近、歴史的な人物が関与した事件により、燃えた寺。
建物の中心となる柱はわずかしか残っておらず、屋根は全焼し、所々に死体が転がっていた。
かつては美しかったこの寺、本能寺も今となってはただの荒地、見るも無残だった。
「……」
私はその寺に足を踏み入れ、静かに瞑想をしていた。
胡坐を掻き、息を整え、目を瞑る。
心が落ち着くことは、体を休めることにも繋がる、戦場でも同じだ。
いつも先陣を切るときはこうして、心を落ち着かせていた。
「でも、その燃え滾る復讐心は消せない、ってところですかね?」
「……煕子か」
目を開けると、そこには妻がいた。
冷静で、気高くて、いつも傍に居てくれた妻が。
「普通だと思います、あんなに酷い事をされたんですから、一度殺しただけでは足りません」
拳を握りながら、まだ生きている、とでも言いたげな妻の表情に、私は目を見開いた。
「……やはり、あのお方は生きていたか」
うっすらと笑い、私は自分の腰の刀に手をやった。
「焼いたぐらいでは死にはしないとは思っていたが、最早人間ではないな」
その笑い方はどこか辛そうで、どこか嬉しそうだった。
妻はそんな私の表情を見て、私の手を掴んだ。
「光秀様、まさかとは思いますがあの大うつけをまだ見限ってないのですか?」
「まさか、私はもうあのお方に従うつもりはない、……ただ」
「ただ、何です?」
唇を引っ込め、妻の視線から目を逸らすが、威圧的な存在感がそれを許さない。
私はため息をつき、静かに言った。
「……あのお方は、こんな遊びがお好きでした」
ゆっくりとその場から立ち上がり、そのまま右を向いて歩き始めた。
ガシャガシャ、と、来ている甲冑が軋む音だけが、焼け焦げた本能寺を駆け巡った。
私は十歩ほど進んだその先でしゃがみ込み、何かを凝視した。
それは、焼け焦げた柱だった。
「あのお方は悪戯がお好きで、私や猿にいろんなことをしてきました」
「……例えば、どんな悪戯を?」
妻の質問に対し、私は柱に書いてある何かを読み上げた。
「……×月×日、今日は信長様に皿を投げられた、大切なものだったので必死に受け止めた、信長さまはそれを笑った、何が面白いんだか」
煤を払いながら、私は淡々と読み上げる。
「×月×日、今日は信長様にバケツ一杯の水を掛けられた、私もバケツを持って信長様に水をかけた、なんだかんだ楽しかったのが癪に障った」
次々と、自分の思い出が積み重なる。
柱を指す指は上へ上へと上がって行き、ついには燃え尽き消えた虚空へと指が投げ出された。
私は、暫くその指を見ていた。
付いて行くべき道を失った指が、その場で立ち止まる。
動くことも、戻ることもできないまま。
「……なあ、煕子」
私は指をだらりと下げ、自分の妻を見据える。
「時々思うんだ、自分がここに居ることが間違いなんじゃないかと」
妻は、何も言わない。
何も、言えない。
「私は、羽柴に勝つべきだったのか?」
下を向いていた顔を上げ、私は言う。
「私は、死ぬべきではなかったのか?」
しばらくの間、沈黙が場を包んだ。
妻は何も言わず、ただ私を見つめていた。
「……死ぬべき人なんて、いませんよ」
吐き捨てるように言った妻は、その場から立ち上がった。
「貴方は天下を取ってください、あのうつけ者は私が殺します」
そう言って、妻はどこかに歩いて行った。
残された私は、暫く焼け焦げた柱を見ていた。
「……殺せる訳がありません」
歯噛みし、刀を抜く。
「女如きに! 殺せる訳がないっ! あってたまるかぁっ!」
ズバアッ! と、柱を刀で真っ二つにした後、私は落ちた柱の片鱗を踏みつける。
踏む、踏み潰す。
ただ、完膚無きまでに。
潰れるまで。