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『東の大陸』から西に広がる大海を、何処までも真っすぐ航海した果てに何があるのか?
今までも数多くの航海士たちが大海へと挑んだが、荒れ狂う嵐や大渦の脅威に抗えずに引き返すか、耐え切れずに航行不能となり消息を絶つのが常だった。
とある国を出立した命知らずな船団を見送った時も、誰もが逃げ帰るか消息を絶つものだと思っていたのだ。
だが彼等が旅立って三年を僅かに過ぎた頃。その船団の一隻が東の大陸に持ち帰った見たこともない動植物や鉱物資源といった財宝の数々と、それ等を発見した西の大海の先にある新しい大地――『新世界』の存在を持ち帰ると事態は一変する。
諸国は争うように造船技術を高め、次々と『新世界』へ向けて船団を送り出すようになったのだ。
これが、世にいう『大開拓時代』の幕開けである。
彼等が目指す『新世界』に土着する人々は、部族単位で狩りや遊牧、農耕を基盤に自然を崇拝し、平和に暮らす者が大半だった。
そこへ突然東の海の向こうから来たと名乗る《来訪者》たちが現れ、彼等が齎した洗練された文明や革新的な技術の数々。それを目の当たりにした《原住民》たちの反応は大きく二分する。
半数以上の部族は未知なる力に対して純粋な恐怖心から拒絶反応を示した。だが抵抗しようにもこれまで部族単位で個々のまとまりしかなかった習慣が仇となってしまう。
組織だって統一された来訪者の軍隊と、圧倒的文明技術の差の前では手も足も出ず、沢山の原住民たちが捕虜とされて奴隷や農奴へと身を落としていった。生き残った部族たちは来訪者たちの手の届かない『新世界』の西側へと逃れている。
その一方で、三分の一程度ではあるが来訪者を友好的に迎え容れていれる原住民たちも存在していた。
東の大陸にある『アーデルハイド帝国』は、そんな原住民たちを懐柔して『新世界』の東岸北部に湾岸都市を整備し、それを起点に周囲へ次々と開拓地を築いている。
現れた来訪者たちは何も支配者が率いる軍隊だけではない。中には新天地で一攫千金を夢見る貴族の次男や三男、農民や商人たちを中心とした一般市民も数多く含まれていた。
彼らの中には現地の原住民と婚姻し、家庭を持って子を成す者も現れるようになっていく。
少しずつゆっくりとした歩みだが、『新世界』に東の大陸の異文化が溶け込み、新たなる文化が芽吹きつつあった。
『新世界』の発見から、三十年。アーデルハイド帝国の開拓地――エメラルダス。
エメラルド色の美しく輝く港を持つことから名付けられたこの湾岸都市は、交易の玄関口として最も盛んに船が行き来している。
今では東の大陸から来た者たちの大半が、まず最初にエメラルダスを訪れてからそれぞれの目的地へと向かうことが多い。
そんな地理や情勢に不慣れな来訪者たちにとって、何より最初にやらなければならないのは案内人となってくれる《冒険者》を雇うことである。
何故彼らが冒険者と呼ばれるようになったのか?
それは単なる案内人という役割だけでは、『新世界』で何の役にも立たないことが多かったからだ。
街道の整備が行き届き、辺境まで開拓された治安の良い東の大陸とは違ってね『新世界』では開拓地から一歩外に出ればまったくの未開の地だったからである。
そこは危険な魔物や敵対的な《原住民》たちが数多く潜んでいて、ありとあらゆる危険や災厄から身を守り、死地を切り抜けられる腕や才覚が必要だった。
貴族や豪商の様に軍隊を護衛として行動しているならともかく、開拓者や旅人といった数の力を持てない個人にとって、雇う冒険者の良し悪しは『新世界』での目的達成にダイレクトな影響を及ぼす。
いつしか腕の良い冒険者を雇う為には数多ある酒場兼宿屋を訪れ、そこに常駐する冒険者を酒場の主人から仲介してもらうのが習慣となっていた。
主人も仲介料として報酬の一部を依頼人から貰っている以上、店の名前に傷が付くような冒険者を安易に紹介しない。
だから子飼いの冒険者の経歴や腕前もある程度理解しており、依頼人から依頼内容を聞いた上でそれに見合った冒険者を手配する。
だが何の仕事に対しても一番手の冒険者を紹介すれば、報酬は常に依頼人にとって高すぎるものとなってしまう。
適切な報酬で依頼を達成できる実力を持つ冒険者を仲介できるか? そこが彼らの腕の見せ所なのだ。
元々冒険者になるのに、特別な試験も制度も存在している訳ではない。つまり誰でも簡単に冒険者と名乗ることができる。
中には冒険者と称した盗賊くずれも紛れていて、自身で依頼人に売り込みをかけて依頼を受け、街から離れたところで依頼人を殺して身ぐるみを剥ぐような事件も頻発していた。
その為日頃彼らと接している酒場の主人を仲介して冒険者を雇う方が依頼時のトラブルが発生することは少なく、いつしかそれが慣例となっている。
もちろん盗賊が集まりそれを冒険者として派遣する心無い酒場もあったが、他の酒場にいる良識的な冒険者や官憲たちに目を付けられたりして、やがて何らかのトラブルが元で潰れてしまうことが殆どだ。
その為、冒険者を必要とする《来訪者》の殆どはまず酒場を訪れ、そこで冒険者を雇って必要な準備を済ませ、目的を達成する為の行動に出ていく様になっている。
依頼内容は人によって様々だ。『新世界』に生息する珍しい動植物の捕獲や採取、新たなる鉱物資源の捜索、各地に潜む様々な魔物の退治や狩猟、開拓地や他の都市と交易する商人たちや旅人の護衛、新天地へと逃れた犯罪者や賞金首、行方不明者の捜索等々……。
《最後の選択亭》はエメラルダスの中でも指折りの冒険者たちが集う店として、『新世界』に広く名の知れた酒場兼宿屋だ。
街の美しい港から続く大通りの一等地に構えたこの店は、ルシアーノという名の元冒険者が引退後、常連だった依頼人たちから出資を受け十数年前から店を続けている。
長い月日の経過はかつて精悍だった体形を、丸々とした小太りの中年へと変えてしまい、腕利き冒険者だった過去の名残りを殆ど消し去ってしまっていた。
だかその人当たりの良さと誠実さから、沢山の冒険者や依頼人たちに信頼されており、数多くの人々が好んで店に出入りしている。
一人娘であるフィリアと僅かな数のメイドだけで、四階建ての大きな店がやりくりできているのも彼の人柄によるところが大きいだろう。
店の一階は酒場のスペースがその殆どを占めており、仕事のない冒険者たちが酒を酌み交わしたり、食事を楽しんだり思い思いに過ごしている。
ルシアーノはカウンター内と奥にある厨房の間を忙しく動きながら、彼らの様子を眺めているのがいつもの日常だった。
そんな忙しい彼の視線が、カウンター奥の席に座っていた背の低い赤毛の少年の前で止まる。
少年の肌は多少日に焼けていたものの、アーデル人を始めとする来訪者特有の白色の肌を有していて、褐色の肌を持つ原住民との違いは一目瞭然だった。
加えて少年は帝国製の動き易く飾り気のない黒の衣服を身に纏い、片方の腰には少年の背丈と変わらない長さの片手半剣が、もう片方の腰には火打石式の小型銃を下げていることからも、東の大陸で洗練された教育を受けている事は容易に想像が着く。
銃器は『新世界』では高価で珍しく、取り扱う者の殆どが来訪者に限られていた。
彼の名はヴァレリウスという。まだ十代前半といった風体で、この店に冒険者として出入りするようになってから二年程度である。
名前を聞いて東の大陸の人々が真っ先に思い浮かべるのは、古の伝承に遺っている《紅の巨人》ヴァレリウスだろう。
巨人はこの世界を創造した原初の存在であり、世界を統べる《四大神》を生み出したとされていて、数多くの神話の起点となる重要な存在だが、伝承の巨神と比べると少年の背丈はお世辞にも高いとは言えなかった。
だがこの店で少年の背について口にするものは、初対面でもない限り殆どいない。いつも決まってその返答は、激怒した少年から繰り出される問答無用の鉄拳だったからだ。
以前に二メートル以上の体格と筋力が自慢の帝国出身の冒険者が、少年の名を知って本人にその背丈を馬鹿にしたことがある。
その場で激怒した少年の鉄拳数発でその冒険者が嘔吐して気絶してしまい、以後店の冒険者たちで彼の背丈を馬鹿にする者はいなくなった。
代わりに少年の事を古の巨神と分ける意味で、短く『ヴァレリー』と呼ぶ事で解決したのだ。
ヴァレリーの喧嘩の腕も然ることだが、剣技や銃の腕前、機転の利いたその場その場の状況判断も申し分なく、冒険者としての資質が充分なのはルシアーノ自身も認めている。
今まで仲介した依頼はすべて卒なく熟していて、最近では並の冒険者には手に余りそうな厄介な依頼も頼むようになっていた。
強いて難点があると云えば、背丈の話題になると急激に短気になる事と、悪戯好きの彼のペットだけだろう。
そのペットは食事をするヴァレリーの隣で、丸まって眠っているかのように見えた。
ジェラルドという御大層な名前を持っているが、ヴァレリーを始め殆どの者は愛称である『ジェラ』と呼んでいる。
街の港と同じくエメラルド色の美しい毛並みを持つフェレット(イタチ)で、時折厨房やカウンターに入り込んでは食料を勝手に飲み食いしたり、他の客の食事にもちょっかいを出したりしてルシアーノたちを困せらせていた。
そう言えば以前、ヴァレリーにジェラの名の由来を聞いたような気がしたなとルシアーノはふと思い出したが、その会話の内容を思い出せずにもやもやとした思いを抱かせる。
しかし今考えなくてはならないのはそのことではない。と、ルシアーノは首を小さく横に振った。
これからヴァレリーに依頼人を仲介をしなければならないのだ。
どちらかと言えば余り気乗りのしない内容だが、普通の冒険者では持て余してしまう面倒な依頼なのは確かだった。
しかもこの時期に依頼もなく身体が空いていて、尚且つある程度信頼できる実力の冒険者となると他に選択の余地がほぼなかったのが実情だ。
悪態の一つでも吐きたくなる気分のルシアーノだったが、それを断ち切るようにして咳払いすると赤毛の少年の前へと歩みを進めた。
「よう、ヴァレリー。調子はどうだ?」
「ルシアーノ。俺も、コイツも元気だよ。」
顔を上げて店の主人に小さく笑いかけたヴァレリーは、カウンターの上で丸まっていて眠るジェラを軽く撫でながら返答する。
一方ジェラは少し片目を開けてヴァレリーとルシアーノを見やると、興味なさげに欠伸をしてすぐ目を閉じてしまった。
「……依頼か?」
店主の表情から何かを悟ったらしい冒険者の問いに、ルシアーノは少し間をおいてからゆっくりを頷いて言葉を続ける。
「ああ、オマエさんに頼みたい案件がある……が、ちょいと面倒な話だ。時間は空いてるか?」
ヴァレリーが頷き返したのを確認してから、ルシアーノはカウンターに鍵を置いて酒場の壁際にある登り階段を指す。
「詳しくはあっちで話そう、一番奥の個室だ。先に行っててくれ。」
酒場と直結した階段を上がった二階部分は、冒険者と依頼人との個別の商談やグループでの相談事ができる個室スペースが用意されていた。三階から上の階はヴァレリーたち冒険者や依頼人が宿泊できる客室となっている。
鍵を受け取って立ち上がると、ヴァレリーはジェラを促すようにそっと手で触れた。
「わかった……。ジェラ、行くよ。」
頷いてから階段を昇っていく赤毛の少年と、面倒そうな顔をしながらその後に続いたフェレットを見送ったルシアーノは、改めて大きな溜息を吐いた。
その様子を見ていた給仕の娘が眉を潜め、手を止めて父親の元へと向かう。
「お父さん、どうしたの?」
見咎められたことにやや苦笑をしながら、ルシアーノは「何でもない。」と優しく彼女の頭に手を置き、そそくさと厨房の奥へと消えていった。
娘はそれ以上問い詰めることはなかったが、大凡の察しは既についている。恐らくヴァレリーにかなり厄介な依頼を仲介するのではないだろうか、と。
(ヴァレリーさん、大丈夫かしら?)
心配そうに一瞬登り階段を見つめたフィリアだったが、後ろから響く注文の声に慌てて振り返り、大きな返事をしてテーブル席へと向かっていった。
先に鍵を開けて個室へと入ったヴァレリーとジェラが席に着いてしばらくすると、ルシアーノが一人の女性を連れてやってくる。
ルシアーノは先に女性に席に着くよう促し、彼に頷いてから話を始めた。
「ヴァレリー、こちらは依頼人のアリス=キルリアン嬢だ。アーデルハイド帝国学院――アカデミーの学術員でいらっしゃる。」
紹介されたアリスは眼鏡越しに視線をヴァレリーへと向けて一礼する。
茶色の髪をやや長めに伸ばし、アカデミーの人間と示す紋章の施されたビロウドのローブを纏った知的な印象の女性だ。
学院と言えば、帝国で学術系の頂点に君臨する最高帰還である。その学術員ともなれば、権威も知性も相当なものだということはヴァレリーにも直ぐ分かった。
「アリス嬢、こちらが冒険者として紹介するヴァレリーです。連れているのは彼のペットのジェラといいます。彼なら貴女の依頼にも柔軟に対応してくれるでしょう……。」
興味なさげに欠伸をしながらテーブルの上で丸まって再び眠ろうとするジェラを尻目に、ルシアーノがやけに勿体ぶった言い回しをするなとヴァレリーは感じていた。
が、それ等は表情には出さないまま無言でアリスへと会釈する。少年が挨拶から間を置かず、ルシアーノは言葉を続けた。
「依頼の内容はアリス嬢自身から直接お話になるそうだ。くれぐれも失礼のないようにな。」
そう告げると、ルシアーノは早々に個室から退散しようとする。
「おい、ルシアーノ。」
呼び止めようとしたヴァレリーだったが、アリスが入れ替わるように立ち上がったことで、彼の言葉を阻んだ。
「随分お若いのに慣れてらっしゃる感じね。冒険者になって長いのかしら?」
彼女はヴァレリーが腰に下げた片手半剣と短銃と交互に見比べながら尋ねてくる。
その間にルシアーノはそそくさと個室を後にしていった。ヴァレリーは視線をアリスに戻さざる得ず、小さく頭を振って視線を戻す。
「……まぁ、それなりに。」
やや歯切れの悪い返答をしながら、ヴァレリーは部屋を去っていったルシアーノを諦め、アリスの言葉の続きを待つ。
どうやら彼女とルシアーノの間には、有無を言わせぬ何らかの事情が働いているようだ。
(帝国学院の学術員ともなると……これは街のお偉方から相当圧力かけられたか……?)
この時点でルシアーノから厄介な依頼を押し付けられたのだと、ヴァレリー自身も薄々は勘づき始めていた。
アリスはそんな相手の思考を気に留めるでもなく、はっきりした口調で話し始める。
「私の恰好を見てもお気になさらないのは、帝国のご出身だからかしら?」
問いかけられて、思わずヴァレリーは顔を上げた。
不意を突かれた顔を見て、アリスはしてやったりとした笑みが零れる。
エメラルダスに到着してから彼女の格好を物珍しそうに見てくる人々が大半だったのに対し、極自然な対応をする相手は帝国本土にいたことのある人間に限られてくる。
アカデミーの学術員が『新世界』まで遥々やって来ることなど、今までの常識では考えられないことなのだから。
「良いのです。お分かりの方が話もしやすいですから。」
やんわりとした口調で追及を避けたのを見せたアリスに、ヴァレリーは苦笑を浮かべる。
「私はアカデミーで『新世界』の歴史について研究してますの。」
『新世界』が発見されてから既に大分経っていたが、現地史をアーデルハイド帝国で研究されることになったのはごく最近のことだった。
だが固有の文字が存在せず石板に絵を刻む程度の文明しかなかったこの大陸で、歴史を探るには大半が口伝の伝承を頼るしかなく、遅々として収集研究が進んでいない。
「その中でアカデミーが最も興味を惹かれているのは、この大陸に伝わる精霊信仰についてです。」
『四大神』を主神とした多くの神々を崇める東の大陸とは異なり、『新世界』では自然崇拝という土着の概念があった。
様々な自然現象にはそれぞれ精霊たちが宿っていると信じられていて、原住民たちは部族毎に異なる崇拝する精霊が主に信仰している。
部族は主とする精霊の名を冠していて、自身の名より先に《風の民》《水の民》といった部族名を名乗るのが通例だ。
「私があなたに依頼したいのは、数多くの精霊を束ねるとされる『大精霊』についての伝承を詳しく調べ、その痕跡を持ち帰ることです。」
数多ある精霊たちを束ねている存在が、『大精霊』と定義付けられている。その中でも名の知れた四つの『大精霊』――大地、水、炎、風。この名を冠した部族が四大部族と呼ばれ、最も大きな勢力を占めていた。
この部族の内、水と風の二つの部族は来訪者たちとの共存を選び、残る二つの部族は来訪者に抵抗して敗れ大陸の西へと去ってしまっている。
共存を選んだ二つの部族は元々平和的で争いを好まない性質の精霊を崇めていたからこそ、新たな支配者を受け容れることができたのだろう。
そのことが部族全体にとって良かったのか、悪かったのかは今も賛否が分かれるところだが。
「『大精霊』……ねぇ。」
これは確かに面倒な依頼だ。そう心の中で呟いたヴァレリーは腕組みをして考え込むような仕草を見せた。
そもそも精霊というのはごく一部の例外を除いて誰にでも見えるものでもないし、殆どの原住民にとっては神聖なもので余所者に気安く伝承を話すものでもない。
「原住民たちの中で、帝国の支配を受け容れた大部族は二つ。水と風の大部族なのは……。」
当然知っているとばかりに小さくアリスは頷き返すのを見て、ヴァレリーは言葉を続けた。
「でも。精霊の声が聞こえるとされる《巫女》は……今はもういないらしい。」
各部族の中には巫女と呼ばれ、自身の部族の崇める精霊たちと交信する者がいた。
かつては部族内で絶対的な権力を有していて、原住民たちは必ず巫女に一度はお伺いを立てた上で何事も決している。
だが東の大陸との交流が始まってから間もなく、洗練された文化を持つ来訪者たちによって巫女と称していた者の殆どが騙りであり、精霊との交信の力を実際には持ち合わせてはいないと暴かれてしまう。
長年に渡って巫女の一族が自身たちの既得権益のみを守り続けていたという事実。それが水や風の民を東の帝国との迎合へ舵を切らせた理由のひとつでもあった。
「確かに、水と風の民の巫女たちは精霊との繋がりを既に失っていると聞いています。ですが、他の民はどうです?」
その流れは当然アリスも知識として有している。その前提の上で、彼女は更に尋ねた。
「彼等の領域はここよりずっと大陸の内側にあるんだが……。」
やはりそうなるか。とばかりに、ヴァレリーは考える。
もし『大精霊』の痕跡を探すとなれば、巫女が未だ存在する可能性がある他の部族を当たるのが一番近道だとは彼にも見当が付いた。
しかし来訪者を緩やかに受け入れた水と風の民と異なり、大地と火の民を始めとする大多数の部族は今も頑なに彼等との交流を拒んでいる。
「……ずっと帝国と争ってきた連中だ。無計画に彼等の領域へと足を踏み入れるのは得策ではないと思う。」
アーデルハイド帝国の開拓地は大陸の東部沿岸とその周辺に集中しており、未だ大半は未開領域のままだ。
彼一人が旅するなら何の問題もないことだが、未開地には危険な魔物や猛獣、街には居着けない盗賊やならず者達が徘徊しており、それ等から彼女を護りながら道なき道を進み、何処にいるかも定かではない他の民を探し当てるのは無謀と言って良い。
加えて彼等と東の大陸から来た人間を接触させるのは、自殺行為にも等しいとヴァレリーは判断していた。
「でも水と風の民から『大精霊』についての伝承を聞く術はまだ残っているよ。《語り部》って知ってる?」
アリスは一瞬逡巡したような仕草を見せ、ゆっくりと肯いてから返答する。
「確か、部族内の者たちへ伝承を代々口頭で伝える方々がいる。と」
「そう。この街や海沿いの開拓地には水の民の語り部が、周辺にも未だ風の民の語り部は残っているはずだ。」
『新世界』の東部沿岸の内、沿岸部には水の民が多く定住し、内陸側には風の民が多く点在していた。
川辺や港に街を形成して恵みを受ける水の民とは違って、風の民は狩人や遊牧をして生計を立てる者が殆どの為、あまり一所に定住することなく気ままに暮らしている。
帝国によって創られた開拓地は何れも『新世界』の東岸に位置している為、風の民の殆どは未開領域で普段は生活し、時折ふらりと交易に都市へと現れるような状態だ。
「まずはここから東岸沿いの開拓地を回って、そこにいる水の民や交易に訪れる風の民から『語り部』の居所を聞き出す方が、闇雲に荒野を彷徨うよりずっと効率的だと思うけど。どうかな?」
アリスがその提案に二つ返事で了承したところで、ヴァレリーは片手を挙げて制した。
「この依頼を引き受ける為に三つ、俺から条件があるんだ。」
そう告げると手を握り、人差し指を立てて一の形を取る。
「一つ目。この依頼で掛かった費用はすべて必要経費としてそちらで用意すること。報酬に関してはルシアーノに提示した通りで、しかも成功報酬で構わない。」
「もし、何の痕跡も見つからず失敗したら?」
「その時は、必要経費のみの負担で構わないさ。失敗したのに金は受け取れないよ。」
肯定するようにアリスが頷いたのを確認してから、ヴァレリーは更に中指を立てて二の形を取る。
「二つ目。これからはどんな時でも危険が伴う。だからこの旅の間は、命が惜しかったら何事も俺の指示に従ってほしい。」
そう言いつつ、ヴァレリーは心の中で小さく苦笑していた。
この二つ目の条件に従わなかった依頼者が実に多く、そのせいで幾度か窮地に陥ったことを思い出したからだ。
まあ警告として取ってくれれば良い。今ではそんな程度の思いで彼も伝えている。
この条件はアリスの返答を待つことはせず、間を開けないままで薬指を立てた。
「三つ目。これが一番大切で、最も守ってもらいたいことだ。」
アリスの瞳をまっすぐに見つめ、息を吐くと言い聞かせるように語る。
「この依頼の旅に出ている間、理解できない不思議な出来事や光景を目や耳にするかもしれない。だがそれを一切誰にも口外しないでもらいたいんだ。」
ヴァレリーは視線を真っ直ぐ射貫くようにして依頼人を見つめた。
赤毛の少年の強い意思の力を重ねた口調に対し、アリスは少しだけ首を傾げる。
前の二つの条件は何となく理解できた。報酬のやり取りは前もって行わなければ後々トラブルの元になるし、旅の間彼の指示に従うことも最大限のリスクヘッジになるだろう。
だか最後の不思議な出来事や光景とは、一体何を指しているんだろうか? 何故誰にも口外してはならないとわざわざ前置きするのだろう?
アリスはそれが何を指しているのか、まったく理解できていなかったのだ。
「ルシアーノさんにもですか?」
「うん、誰にも。」
少し不審に感じた様子の彼女を見て、ヴァレリーは小さく笑って翳していた手を下げる。
この条件を伝えた時の依頼人の反応は、だいたい似たり寄ったりなので気にはしていない。
「あ、もちろんアリスさんの依頼内容に関することは除いて。だけどね。」
そう付け加えると、ヴァレリーは自身のこめかみを掻く。
「その条件で良ければ。この依頼、引き受けさせてもらうよ。」
アリスは一瞬迷ったが、エメラルダスでトップクラスの仲介役と紹介されたルシアーノが、自分相手に人選ミスをするとはとても思えない。
一見してどこにでもいる平凡そうな赤毛の少年だが、依頼を口にしてから間もなく効率的なプランを提示できる等、機転が利く冒険者なのは間違いなさそうだ。
「わかりました。頼りにしてますわ。」
アリスが条件を受け容れたのを確認して、ヴァレリーは軽く伸びをしてから席を立つ。
「それじゃあ、早速行こうか。」
それに気がついたジェラが、唐突にむくっと起き上がってテーブルから飛び降りる。
「この街に残ってる水の民の語り部は、俺のよく知ってる人なんだ。」