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ここで、医学的な知識のない瑛二の代わりに、記憶が欠落する要因を主に二つ上げてみよう。
疑われる病名として、『逆行性健忘』が一つ目に挙げられる。これは交通事故などで脳に激しい衝撃が与えられ、脳が破損することによって起こる意識障害だ。だがその晩、近隣で人身事故は発生していないことと、検死結果から高度からの落下による身体の損傷が認められたことから、その可能性は限りなく低い。
二つ目の可能性としては、『一過性全健忘』だ。この場合は、心理的要因や過度な飲酒、違法薬物の摂取などが原因とされる。しかしこれも、愛理の証言から可能性はないのかもしれない。
つまり、愛理の脳には異常はなく、健忘の要因は皆無である。
だとすれば、記憶の欠落は何故起きたのだろう。
解決の糸口が掴めず、肩を落としてショッピングモールをあとにした二人は、このまま残念でした諦めましょうとはいかなかった。
そこで、他に手懸かりが残っている場所はないかと、愛理の自宅や、よく立ち寄る店をいくつかあたってみた。しかし、途中コンビニで間食タイムを挟みつつ回ったが、苦労の甲斐もなく何処もハズレだった。
会社に戻って来た瞬間、瑛二は深い溜め息を吐いた。辺りも社屋もまだ暗い。御社の元社員の成仏の為の尽力を労って、少しくらい明るく迎えてくれないかと、無理な要求を求めたくなったことだろう。
「ショッピングモールに行っても無駄だった。かと言って、ここに戻って来たところで何も変わらない……このままじゃ、愛理さんが成仏できない」
瑛二は途方に暮れてしまう。どうすれば、愛理の欠けた記憶は戻るのだろうと。
忘れた時と同じ衝撃を与えれば記憶を取り戻せる、というのを聞いたことがあった。しかし愛理は既に幽体だから、八階から落ちたとしても地面の中に入ってしまうだろう。衝撃もへったくれもない。
愛理も疲れたようだった。幽霊が疲労を感じるかは謎だが。
「……もしかして、無意識に行動したのかな」
「放心状態とかですか?」
「と言うか……精神的なもの。会社はいい企業だと思うけど、上に立つ社員が“ブラック”なのよ」
門扉を背に、愛理は体育座りした。
「うちの上司って、大した仕事してないくせにふんぞり返って偉そうでさ。そのくせ上には媚びへつらって、いくらでも頭下げてダサいったらないのよ。そんな上司に毎日グチグチ、仕事が遅いだの新人をちゃんと教育しろだの、いちいち呼び出されてうんざりだったの。後輩からも仕事の相談されたりミスのフォローしたりで、ストレスが溜まる一方だった」
「板挟みってやつですね」
「彼に愚痴は聞いてもらったりしてたけど、発散しきれてなかったのかな」
「結構なストレスが、溜まってたのかもしれないですね」
「瑛二くんはまだ若いから、板挟みなんてないんでしょうね。羨ましい」
その通りだった。バイト先の店長に多少の不満はあるものの、全体的に見ても人間関係に問題は抱えてないし、毎週カラオケボックスでやっている発声練習で大声を出しているから、そんなにストレスは感じていない。
「上司はあんなだし、私も結婚適齢期だし、だから彼氏との結婚も前向きに考えてたのに。これからは、幸せで平穏な日々を過ごせると思ったのに……何でこうなるのよ」
「愛理さん?」
「何で私死んだのよ!ねぇ、何で!?教えてよ!」
「ちょ、ちょっと待って!死のオーラがオレを襲ってます!」
ストレスを抑えきれなくなった愛理が、瑛二に襲い掛かる。
闇夜でわかりづらいが、瑛二には愛理からドス黒い煙のようなものが出ているのが見える。それは絶対に浴びてはいけない。呪いのオーラを必死に払おうとする。
「あなた、解決してくれるんじゃないの?私が飛び降りた原因を、見つけてくれるんじゃなかったの!?」
「落ち着いて、愛理さん!」
「私はあの世に行けないの!?どんどん幸せになってく友達や同僚を羨ましがりながら、永遠にこの世に彷徨い続けるの!?そんなの嫌ぁ!」
「本当に落ち着いて下さいって!このままだと、解決する前にオレも自殺しそうになっちゃいますから!」
愛理のオーラに瑛二は巻き込まれかける。ちょっとだけ、道路に横たわろうかと考えたりしただろう。
だが、このままでは本当に愛理は成仏できない。浮遊霊から地縛霊になるか、解決するまで瑛二に憑いたままになる。
すると。二人が騒いでいるところへ、真夜中の道を歩いて「誰か」がやって来る。
「何騒いでんの」
二人の様子をこっそり見学していた俺は、素知らぬ顔で近付いた。