透明の春――僕の彼女に恋をした
「あんたって……つまんないやつ!」
夢から覚めてパンチのある言葉に心臓がバクバクなった。聞き覚えのある声は幼く、それが誰かは思い出せない。いやでも、
「ただの夢だ……」
今日もまた彼女が飛び降りたビルへ行く。でも今回は昨日と違う。彼女の友達がいるビルへ行く。ただそう変わるだけで僕は昨日よりもすぐに向かいたかったが、流石に早く行き過ぎて一人で待つというのも退屈だ。そういえば時間は約束してなかったな。しまったと後悔するも昨日と同じ時間でもいいかなととりあえずご飯を食べることに。
手帳と自分が好きな数冊の本を持っていき、一階へ降りた。昨日と同じパンと、コンロにある鍋には母が朝早く作った味噌汁があり、それを温め一緒に食べた。パンに味噌汁と変だろうが僕は結構これが気に入っている。食卓に山積みにした本の一番上に手帳を置き、テレビを見ながら食べていると、休日で遅く起きた父が下りてきた。
「なんだその手帳、買ったのか?」
「いや、これはもらいもの」
「そうか、ん、そのロゴ……そのカバーあとで色が変えられる奴じゃないか」
「色が変えられる?」
「それプレゼント用でレシートと一緒に持っていくと、透明の色を変えられるんだ。少し高いから結構いいのもらったな。」
「そうなんだ……」
思えば、彼女はなんで手帳に書いたのだろう。物語を書くのに手帳には向いてないし。
「なんでこれに書いたんだろう……」
「それはあなたが恥ずかしくならない為よ」
昨日と同じ髪型に、服は白と黄色のスカートと女の子らしい姿で来た空波さんは、沼咲さんが書いた物語を読む。その片手間に沼咲さんについて色々教えてもらっていた。
「何のために」
「例えばあなたが、あの子の好きなピンクの花柄のノートを渡されて、それを持つようだったら恥ずかしいだろうってことよ。流石にあなたの好きな色とか分からなくて焦っていたし、だから後で色が変えられるその手帳を選んだってこと。それに手帳だと文字失敗しても、ノートと違ってその紙破いて次の紙にかけるから便利なことも言っていたわね」
「そうだったのか……」
どれだけ考えていたんだろう。
手帳のいたるところに彼女の優しさがあった。なんだか照れ臭く、嬉しかった。そしてそれを知ることができた空波さんと知り合えて本当よかったと思った。
「そういえば、ここっていつから来るようになったの?」
「小学生のころかな? ここって昔、子供が秘密基地に使っていて、私は幼稚園からの付き合いのある友達に教えてもらったの。今はその子別の町に引っ越ししてこられなくなったけど、別の友達に誘われた麗子もここに通うようになった感じ。今ではここに通っていたいのは、私と麗子だけだったわ」
「そう……だったのか」
あれ? 小学生の頃? ぐらりと頭が揺れる感覚がした。何かを忘れているようで、それは懐かしく、苦しく、吐き気がする感覚。……あの時僕は――
がちゃ――
錆びた扉の開く音がした。そこに現れたのは先日学校で久々に話した小林だった。空波と対象的で紫の長いワンピースを着ていた。心なしか目が死んでいる。
「お前……なんでここに」
「私の家のマンション、ここが見えるんだよね。仲良く二人で話しているのが見えて気になってきちゃった」
「え……ここ見えていたんだ」
秘密基地の存在が秘密じゃなかったことにしょげる空波に対し、僕は何か嫌な予感がしていた。雰囲気だけじゃない。この声は今朝聞いたあの夢の声と似ているようだった
「でも、本当久しぶりにきたよね、しーちゃん」
「え?」
嬉しそうにほほ笑む小林。だが一歩、二歩とこちらに歩いてくる姿が何だか恐ろしかった。
「あれ? もしかしてまだ思い出してないの? それもあってここにきたんだけど……」
ちらりと空波さんの方を見る。
「一人減ったのにまだここに通って……未練タラタラね。」
「え? どういうこと」
「はっきりいわないと分からないかしら? あなた達邪魔だったって言っているの」
「え?」
突然ニコニコとした顔から出てきた吐き捨てる言葉に体が固まる空波と僕。
「そんなことよりしーちゃんは、本当に覚えてないのかな? 昔ここで私に酷いこといったよね?」
「なんのことだ」
「あれ? まさかまだ思い出してないの??」
かしげた顔にたりとした口笑っているが見開き切った目は笑っていない。
「はっきり言えよ」
「そっかぁ……そうだよねー。あの頃もしーちゃん。はっきり言わないと分からない子だったものね」
「あの頃?」
「覚えてないの? 私がしーちゃんの本を取り上げて破っちゃったあの頃のこと……」
本? 破る? 何のことだと思ったが、
「あ……」
「また読んでいる!」
小林は小学生の頃、よく話しかけてくる子だった。ここは昔クラスの特に仲がいい子が集まる秘密基地で、ゲームやおもちゃを持ち寄っては遊んでいた。だけど
「いいじゃないか別に」
僕はどちらかというと本を読むのが好きでインドア派だった。でも家だと頻繁に親の仕事で人が出入りして、子供という僕の居場所がなかったので、同じクラスではなかったがよく話しかけてくる小林に誘われてここで本を読んでいた。
「楽しくない! せっかく来たんだから遊ぼうよ!」
本をひっぱり駄々をこねる小林。
「やめろよ! これはお父さんが買ってくれた高い本……」
びりり。と、血が凍るような音。
三ページ真ん中から斜めへ破れた。
「お前……なんてことを……!」
「遊んでくれないからじゃない! そんなもの読んでもつまんないよ!」
「そんなもの……?」
あまり怒らない子といわれていた僕だったが、その時は喉が裂けるんじゃないかと声を荒げた。
「本にそんなものなんてない! バカなお前とはもう遊ぶもんか!」
「なによ! ただの本にそこまで怒ることないじゃない!」
「うるさい! 二度と話しかけんな!」
怒る僕の背中に吐かれた言葉。
「あんたって……つまんないやつ!」
その言葉を最後に僕はこの秘密基地からこなくなった。その後家から帰る間ずっと泣いて泣いて、沢山泣いて熱を出した。それは一週間も寝込むほどで、多分本を破られたショックと小林に言われた言葉と親の教育で本を大事にしない子は本が読めなくなると言われて育ったのでもう本が読めなくなるのではという恐怖からそうなってしまったんだと思う。ただそれが治るとすっかりそのことについて忘れていた。小林のことも、あの秘密基地のことも……。
その日から僕は学校であっても、無意識に小林と距離を取った。小林も小林で僕の事を無視していたんだと思う。だから僕たちはすれ違いのまま高校生になったんだ。
「お前は……あの時」
「あれから学校にきても、すっとんとーんって忘れた顔しちゃって、ちょっとむかって殴っちゃおうかなって思ったんだけど、面倒くさかったしもう知らないって。でも……やっぱりムカつくんだよね、しーちゃんもあの女も……」
「あの女?」
「私の思い出の場所に住みついて、しーちゃんの事思いながら物語を作ったあの女がさ」
「……え?」
「だからちょーっと意地悪するつもりだったんだけど……全然へこたれないし、しーちゃん告白オッケーしちゃうし、そんでここにきた理由がその子の為なんでしょ?」
「なんだよその言い方……まるでお前が沼咲のことを」
舌打ちをする。
「そいつの名前出さないでよ! あんなゴミ、ポイしたって何も思わないでしょ、実際みんなそうだったじゃない!」
「まさか……お前が殺したのか?」
「殺したんじゃないわよ! ポイよ!」
「……うそ」
空波から出た言葉とゴミを捨てるような動作。それに絶句する空波。
自殺じゃないとわかってはいたのに、他殺で、まさか幼馴染がそれに関わっていたことが恐ろしくて恐ろしくて……その程度のことで人を殺すことができる小林が……自分より腐った奴がそこにいた。そして後ろ手で出してきたのは包丁。
「あいつの嬉しそうな顔。いつもの手帳を持ってなくて気になってここに来たら恋が成熟したですって。あんたの名前嬉しそうに言って……うるさくってうるさくって……」
「なんでだよ小林……」
「私がなるはずったのに……あいつみたいな泥沼に負けるなんて、取られるなんて認めない!」
「僕のこと嫌いじゃなかったのかよ」
「なんで私が同じクラスじゃないあんたをここに誘ったと思うの?」
「わかんねぇよ」
「なんで私があんたみたいな普通の奴好きになったと思うの?」
「わかんねぇよ」
「あんたのお話、好きだったのはあの子だけじゃないんだから……!」
顔をあげたその目には涙が流れていた。
振り上げたその包丁を僕は防御することができなかった。
死ぬ。
その覚悟がどれだけ長く感じたか……
しかしその包丁は僕の胸すれすれで宙を舞いコンクリートの地面にガランと音を立てて落ちた。
代わりに叫ぶのは小林。
腹に一発、膝を打ち込む空波。
「ぐえぇっ! うぇええええ!」
「あんたのせいだったんだ!! ……あんたが私の友達を殺したんだ!」
それからはというもの、頭、背中、足、腕へ蹴り殴りが入り、僕は小林とは別の恐怖で止めることができず、しばらくその攻撃を見ていることしかできなかった。そして最後にと首を締めあげた瞬間、流石にやばいと止めに入った。
小林は病院送り、僕と空波は警察へ連れていかれた。
後になって聞くと、空波は沼咲の為に、鍛えていたそうだ。虐めから守るべく。それは沼咲にはできなかったが、僕に使えてよかったとほほ笑んでいた。
小林の最後に言っていた言葉。僕は物心ついたときから物語を書いていた。それが小学生の作文の時に作った物語が彼女の心を射止めてしまった。最初は僕と喧嘩別れしたけど、中学生の時に作った、沼咲さんも読んだあの小説でまたその気持ちに目覚めてしまったらしい。なんということだ僕の書く物は。僕はお話を書くのは好きだけれど、字がうまくなれなく、高校に入る頃には辞めてしまったというのに。
そして僕が人と関わり合いができなかったのもどうやら小林のせいで、裏で自分に酷いことを言った酷いやつとなっていたらしい。でも本当にそうだ、だから僕は沼咲さんを結果的に死なせてしまったから……。
確かに彼女と僕は同類だった。だけど彼女は特別だった。
一人きりで本を読む僕と、友達と仲良く読む彼女。
僕だけの暗く腐った沼の世界に、彼女は花を咲かせてくれた。僕はこの手帳に救われた。
そして僕は空波と良き友人となった。
大人になった今でもご飯を食べながら、沼咲さんについて語り合った。その頃は二人とも結婚をしていた。もちろん別々の人で、僕は僕でその人を愛した。友情と愛情を手にした僕は時々ある情を彼女へ捧げる。
沼咲麗子。
その名前は僕に不思議な感情を抱かせる。
熱くて、辛くて、苦しくて、恋しくて、触れたくて、また喋りたくて。溢れるばかりの気持ちを彼女にぶつけたくてそれでも彼女は透明で見えない人。
だから僕は……僕は――
「僕は麗子が好きだよ」
透明の手帳を握りしめる。僕にとって彼女は本の中のと空波から聞くお話の住人で、それでも僕は君に恋をした――
透明の春。
彼女の作品の名前だが、僕の恋心もまた、掴めることのできない透明の春の中にあった。
――透明の春、完――