序の章・第一の章 巫女と鬼と少年と~第十一の章 潜入と信頼と少年と
作者の出身地にこだわり抜いたローカル・ファンタジーです。
序の章
良光寺参詣の折、立ち寄った村の入り口には巨大な鉄の棒が突き立っていた。
「到底人間に扱えるものではない、飾りだろう」と村人に言うと、彼らは大げさに否定した。
かつてこの金棒を振るい、村を守った人物がいたのだと言う。
全く信じられないという私に、村人たちは口々にこんな昔話をしてくれた。
第一の章 巫女と鬼と少年と
ガン、ガン、ガン!
物見やぐらから半鐘の音が響く。
「鬼だ、鬼が来るぞ!早く神社に逃げこめ!」
村人たちが、次々と鳥居をくぐって神社の境内に逃げこんできた。
「みんな、逃げて来られてますね?もう大丈夫ですよ」
この神社の巫女であるさやかは、人々の間をめぐって力づけていた。
みんな地面に座りこみ、頭を抱えて震えていた。「こわいよう!」と泣き出す幼子もいて、母親たちが必死でなだめている。
「大丈夫ですよ。鬼たちは、ここに入っては来られませんから…」
そう声を掛けながらも、さやかの心は苦悩に締めつけられていた。
「何で…何故わたしたちは、こんなに怯えていないといけないんでしょう」
そう呟いて、玉垣の向こうにやった視線の先にいるのは―鬼。
「何だあ、まだこんなに溜めこんでいやがったか」
見慣れたくもないのに見慣れてしまった異形の姿で。
「奪え!米粒一個たりとも残すな!」
そう言って、俵を担いで運んで行くのだ。
玉垣の中から不安げに外を見ている村人たちの目の前を、これ見よがしに鬼たちが通り過ぎていく。
「いやあ、今日は大漁だぜ」
「待ってくれ!その米を奪われると明日の飯も困るんじゃ!」
鳥居から飛び出して老人がわめくが。
「ん?何か言ったか?」
鬼たちがじろりと睨むと、
「うわあ何でもありませんっ!いくらでも持って行ってください…」
真っ青になって境内に引っこんだ。彼らは大笑いして、どんどん作物を運び出していく。
中にはこちらに向かって金棒を振り上げて脅す鬼もいたが、玉垣に近づくとばしっと光が走り、飛び退いていた。
「もういい!奪えるだけのものは奪った。戻るぞ!」
そんな声が響き、鬼たちが去って行くのを…みんな、悔しげに見送った。できるのは、それだけだったから。
鬼たちが村を出て行った後も、村人たちは集まって囁き交わしていた。
「このままじゃ、お代官さまが取り立てる年貢も出せないぞ。何とか出そうとしたら、村が飢えるか最悪、逃散しかない」
「何とかならないのか!よそから武芸者を雇うとか…」
「あいつらに敵うと思うか?」
「確かに…鬼だもんな、あいつら」
そこらの侍より強そうだった。
「いっそ、逃散しちまうか…」
「どこに逃げるって言うんだよ。土地から離れたら生きてけねえぞ、俺たち。雇われ小作人にでもなるか?水呑み百姓ですらないんだぞ」
飢えは、すぐそこまで迫っていた。
「お代官さまに守ってもらうとかはないのか」
「名主さまが頼みに行っても、会ってくれないらしいぞ」
そんな会話を漏れ聞いて…さやかは、傍らの神主の顔を見た。
「どうした?さやか」
「わたしたちにできることを、やるべきだと思うんです」
かくして。
「もう、神さまのお力を借りるしかないと思うんです」
「しかし、神さまの御助けと言っても…どうしてもらえばいいのか」
戸惑う神主に、さやかは必死に言いつのる。
「相手は鬼なんて言うとんでもなく強い奴らなんです。もう、神さまにでもお願いしないとどうしようもありません。このままだとこの村は滅んでしまいます!」
「そうか…よし、やってみよう」
神主と巫女のさやか―この神社にはこの二人しかいないのだが、とにかく二人で神さまに精一杯の祈りを捧げることになった。
神主が祝詞を上げ、さやかが神楽舞を奉納する。ぴん、と張りつめた空気の中、祝詞が流れ…さやかは、鈴を手に舞った。
「どうか…」
必死に、願いを届けようとした。
「鬼におびやかされるこの村を、お救いください…」
―三日三晩、舞い、祈り、舞い…さすがにへろへろになったが、さやかは諦めなかった。
「お願いします、神さま…!」
願いをこめて舞い…ついに祝詞も舞いも途切れがちになった頃。
不意に、ご神体の鏡がきらりと光った。
「何でしょう…?」
驚いて舞いを止めると…蒼白い光が鏡から上に向かって伸びた。
バリバリバリバリ!
凄まじい音が響く。
「あれは…」
「ご神木の方角だ!」
雷でも落ちたか…と二人で慌てて飛び出してみると、音を聞きつけた村人たちも駆けつけてきたところだった。
「ご神木は…?」
さやかたちはご神木を見上げ…はっとなった。
ここのご神木は古い小さなお堂を包みこむように幹と枝を伸ばした欅の木なのだが、その枝葉が蒼白い光を放っていた。
さらに、その根元には。
「おい!人が倒れてるぞ!変な服を着た…」
人間が一人、大の字になって引っくり返っていた。
「神さまに『この村を助けてください』とお願いしたら、ご神木が輝いてこの人が現れた…」
「と言うことは、この人は神さまがお遣わしになったのか?」
「確かにここらでは決して見かけない恰好だが」
オレンジのダウンジャケットに、よれよれのシャツ。ぼろぼろのジーンズとスニーカー…と表現したいところだが、そういう服装を説明できる語彙がここにはない。
「変わった綿入れを着ておるのう」
上着―つまりダウンジャケット―に村人の一人が手を伸ばし、ちょん、と触れて慌てて引っこめた。
「木綿ではないぞ!ふにゃんとしている…つるつるだし」
「じゃあ絹か?こいつ金持ち…?それとも異国の者か」
「そもそも神さまのお遣いさまじゃろう」
「そうだよな…髪の色などは儂らと変わらんが、神さまがお遣わしになった者なら当然かあ」
いつの間にか、「神さまのお遣い」という合意ができつつあった。
「しかし、目覚めんのう」
そう、倒れている者…十五、六の少年に見えたが、彼は周りが大騒ぎしているのにちっとも目を覚まさない。
「ここは、さやかさまに何とかしてもらうところではないか?何と言っても神さまがお遣わしになった方なんじゃしなあ」
「そうそう。さやかさまは神さまに仕える巫女さまなんじゃからして」
「え?わたし?」
いきなり話を振られてさやかは戸惑う。
「何とかって…どうすれば」
「口づけでもすれば目を覚ますんではないかのう」
「く、口づけ?」
「そうだそうだ。やーれ、やーれ、やーれ…」
無責任にはやし立てる。
「ひ、他人事だと思ってみんなひどいです…」
そうは思うが、「巫女の務め」と言われれば反論しづらい。
「とにかく目を覚ましてもらえばいいんですよね」
口づけはともかく、何とか起こしてみようとさやかは少年の上にかがみこんだ。
暗闇の中に、横たわっている感覚だった。
そこから浮かび上がるように、意識がゆっくりと覚醒していく。
異様に重い瞼を、何とか上げてみると―そこには。
「え…?」
青みを帯びるほど黒い瞳が、一心にこちらを見つめていた。
愛らしい顔立ちに、抜けるような白い肌。
わずかに開いた口元からは、甘い息が香った。
要するにとびきりの美少女が、息のかかる距離まで近づいてこちらの顔を覗きこんでいたのだ。
「うわー、萌え…じゃなくて!何だ何だ何だあっ!」
そこでやっと意識が完全に目覚め、びっくりした鉄平は飛び退いて美少女から距離を取った。
「おお、お遣いさまがさやかさまの口づけで目覚めたぞ!」
周りで人々が大騒ぎしている。
「まだ何もしてませんってばあ!」
「何だ、まだかい」
「『まだ』じゃないですよっ!しないですって!」
少女は真っ赤になって言い返していた。身につけているのは純白の小袖に、緋の袴。長い黒髪を後ろで一つにくくっていた。
「み、巫女さんだ…ますます萌えー」
「?何が燃えてるんですか?」
「う、それはその…何か、燃えてるのを見たかなーと思ってさ」
我ながら苦しい言い訳だなとは思うが。
「あ、ここに来られる前になんですね」
あっさり納得されてしまった。
(くうっ、嘘ついちまった…)
何か罪悪感を覚える鉄平である。
「ところで、ここは…どこなんだ?」
「『信陽の国』とわたしたちは呼んでいますけれど。その中の、『川の中洲村』と言う所で」
「うーん…」
はじめて聞く地名だ。
「あなたは、どこからここに来たんです?」
「神さまのお遣いなんだから、神さまのお国じゃないのか?」
周りの人がひょいと口を出した。
「か、神さま!?」
「そうじゃないのけ?」
双方でびっくりする。
「神さまのことは知らないなあ。俺がいたのは…あれ?」
言いかけて…鉄平は首を傾げる。
「どうしました?」
「い、いや…あらためて考えてみると、俺、今までどこで何をしていたのかまるっきり思い出せない…」
何となく「こうだったかな~」と言う感じはあるのだが。
いざ説明しようとすると、具体的な記憶というものがさっぱり出て来ないのだ。
「どうなってんだ…?」
鉄平はあらためて周りを見回した。
周りにいる人々の服装などが…妙に懐かしいのに見覚えがない。
「何か時代劇の村人みたいだな…でも『時代劇』って何だっけ」
口をついて出てくる言葉に自分で困惑する。
「とにかく、ここで座りこんでいても仕方ありません。名主…父ですけど、その家にとりあえず行きましょう」
考えこむ鉄平に、見かねたさやかが声をかけた。
「そうだな。そうすべえ、お遣いさま」
「お、お遣いさま!?」
「神さまがお遣わしになった、お遣いさまだぞあんたは」
戸惑う鉄平に、一同はたたみかけた。
「さやかさま!心配しただ、ずっと帰ってこなくて…」
神社の隣の、一際大きな茅葺きの民家―名主の家に連れて来られた鉄平は、名主の五郎蔵をはじめとするさやかの家族に迎えられた。
「うちは代々、次男が隣の神社の神主をやることになっていまして。で、娘は嫁に行くまで巫女を務めるのがしきたりなんです」
「そうなんだ…」
その中に、鉄平やさやかと同じ年頃の少女がいた。こぼれるような笑顔でさやかを迎え…鉄平には鋭い視線を向ける。
さやかとは対照的に日焼けして、いかにも俊敏そうな娘だった。くるくるとよく動く瞳が印象的だ。
しかし、その目は今鉄平を睨んでいる。
「ほら、おまきちゃんも自己紹介して」
「おらは、さやかさまの専属召使いのまきだあよ」
笑顔もなしにそう言う。
「召使い…ってことはメイドさんか。萌えー」
「冥土が燃えるってどういうことだべ」
「い、いや、メイドってのは、冥土じゃなくて…」
思わずそう言いかけるが。
「…あれ?そう言えば『メイド』って何だっけ…」
口に出す時にはしっかり覚えているつもりなのに、いざ思い出そうとするとこれがまるっきり思い出せない。
「これが記憶喪失ってことなのかなあ」
「さっきっから何訳のわがらねえことくっ喋ってるんだべ」
「お遣いさまにそんな口をきくもんじゃありません」
どっちが立場が上かわからない。
「とにかくおらは、さやかさまのお世話をするついでにあんだの世話もするように言われたんだよ。嫌だがやってみるってもんだべさ」
「うわ、なまってる上にツンだ…これはこれで萌えー」
「ふう…」
囲炉裏の側に座り、大きな湯呑みでお茶をすすりながら鉄平は息をついた。
見上げると、真っ黒にすすけた巨大な梁が目に入った。
「何か…見慣れてないのに懐かしいって言うか…」
磨きこまれた柱も、妙に懐かしい。
鉄平の隣では、さやかがきちんと正座してお茶を飲んでいた。
「それで…えーと、さやかさんでしたっけ。俺が、神さまに遣わされてきたってのは…」
「はい。この村は、今大変な状況で…あなたは、それを解決するために遣わされてきたはずなんですよ」
恐ろしいほど真剣な口調で、彼女は続ける。
「この村は、一ヶ月ぐらい前から…鬼に襲われているんですよ」
「鬼?鬼って…角が生えていたりする、あの鬼?」
そんな馬鹿な、鬼なんている訳がない…とは思うが、目の前の少女はあまりにも真剣な様子だった。
「何年か前から、幾つもの村を滅ぼしてきて…今、この村を襲っているんです」
「お、鬼なら豆とかまけば逃げてくれるんじゃないかなあ」
「やってみたんですが…無視されました。うちの鳩が喜んで食べちゃっただけで…それっきりです」
冗談のつもりで言ってみたが、駄目だった。
「あいつらは西の方に仮住まいしてて、時々この村に攻めこんでくるだ。そして奪うだけ奪っていって…どうも北の方に本拠地があるらしくってなあ。噂によると、大女の鬼が俵や宝を抱えてすごい速さで山の中に走って行くっていう話だ。本当の鬼の里に運んで行くんだって言われてるけんど、確かめた者はいねえ」
急須を手におまきが続ける。
「鬼…鬼ねえ。ちょっと検索して…あれ?」
鉄平は無意識にポケットをさぐっていた。
「どうしたんだべさ」
「いや、ここに確か…スマホが…」
「『須磨歩』?」
「いや、それは違うけど…まあいいや、俺どうせ性能の一割も使えてなかったし」
「でも、もう大丈夫です。お遣いさま…あなたが、来てくださいましたから」
「へ?俺が?」
「神さまが、あなたをお遣わしになったんですから」
「い、いや、そんなこと言われても…」
神さまが遣わしたことになっているらしいが、全く覚えがないので「鬼を何とかできるはず」と言われても困る。
「俺、どうやったら鬼からこの村を救えるかなんて全然わからないし。何をどうすりゃいいのか」
そもそも、自分が何者だったかも思い出せないのに。
「でも、『救ってください』って祈ったら、ご神木が輝いてあなたが現れたんですから」
さやかはあくまで真剣だった。
「たとえ覚えがなくても、あなたはお遣いさまです。どういうかたちであるにしろ、この村を救ってくださるはずです」
(そ、そんなきらきらした目で見られると…どうしたら…)
星を飛ばしそうな目で見られて、正直困惑する…が。
(でも…)
この少女の期待を、裏切りたくはなかった。
(こんな可愛い子が、俺にさっきは…キ、キスしそうになってたんだよな)
飛び退かなかったら、キスされたんだろうか。
(ちょっと勿体なかったかも…もう、キスしてくれって言ってもしてくれないだろうしなあ)
などと妄想していると。
「何を考えこんでいるんですか?お遣いさま。何か…思い出したとか?」
不思議そうに巫女の少女が聞いてくる。
「い、いえ!何でもないです!」
そう慌てて答えた。
「良かったら、これに着替えてください」
木綿らしい着物が目の前に並べられた。
「その恰好ではあまりにも目立ってしまいますので」
「あんまり着替えたくないなあ…」
嫌だと言う訳ではない。
ただ、忘れたとはいえ「過去」とのつながりが切れることが嫌だった。
「いいですけど、洗濯の時にはこっちに着替えてくださいよ?きれいにしないと病気になりますから」
「お、おう…うう、女の子ってどこでも一緒だなあ」
まあ、覚えていないのだが。
(でも、こんなに良くしてもらったことない気がする)
こんなに触れ合ってなかったような…そんな気がした。
…その時。
ガン、ガン、ガン!
半鐘が鳴り響いた。
「鬼が!鬼が攻めてきたぞ!」
「みんなを早く!神社の中に集めて!」
人々があわただしく動き出した。
「え?鬼が来た…って!?」
「お遣いさまも早く神社の境内に!」
さやかは、鉄平を隣の神社に引っ張って行った。
「早く!みんな、急いで!」
鳥居をくぐって、村人たちがどんどん玉垣の中へ逃げこんでくる。
「ど、どういうこと…なんだ?」
「何日かに一度、あいつらは食料を奪いにこの村を襲うんです」
さやかは青ざめていたが、それでも気丈に説明した。
「食料を奪うって…そんなヒャッハーな奴らが…」
「は?」
「いや、何でもない…でも本当に、そんな奴らが?」
「見てください…あれが、鬼です」
言われるままに玉垣の外に目をやり、鉄平が見たものは。
「あいつら…が?」
身の丈三メートル…とまではいかないが、少なくとも二メートルをはるかに超える身長の男たちが、蛮刀やら金棒やらを振り上げてこちらに突進してくるのだ。
その頭には―
「つ…つ、角っ?」
そうとしか呼べないものが、生えているのだ。
一本角の者も、複数の角を持つ者も…色々だが、どれも頭に角を生やしている。
「ほんとだ…大げさに言ってるのかと思ったけど、ほんとに鬼だ…」
赤鬼、青鬼…黄色の肌の鬼もいる。
口には、鋭い牙。
「ほ…ほんとにヒャッハーな奴らだ。さすがにバギーには乗ってないけど…」
「大丈夫です。ここにいれば襲われません」
さやかが、きっぱりと言った。
「どういうことだ?」
「鬼は、神聖な場所には入って来れないらしいんですよ。だから襲撃があるときには、みんな神社やお寺に逃げこんで、奪えるだけ奪って去って行くのを待つだけで」
「そうなのか…」
「この神社はそんなに力がないので、境内しか守れなくて。もっと大きな神社やお寺なら、村全体を守れたりするんですが」
そう言っているうちに鬼たちは、それぞれ別れて民家の中に消えて行った。
「みんな、逃げて来られていますね?大丈夫ですね?」
人々がうなずく中、一つの家族が騒ぎ出した。
「大変だ!うちのチビがいない!」
「お寺の方に逃げこんだのかもしれないけど…」
「わたしが見てきます!」
そう言ってさやかが鳥居をくぐろうとした。
「そんな、いくら何でも危険すぎる…」
「大丈夫です。鬼は、わたしには触れられませんから」
にこっと笑って襷を自分の身体にかける。
「きちんと精進潔斎していると、身体に清浄なる結界が張られて鬼が触れられなくなるんです。心配しないでください」
そう言い置いて、さやかは飛び出して行った。
「ちょっ…待ってくれ!」
そう鉄平が叫んでも、さやかは立ち止まらない。
「どうすりゃいいんだ…」
そう呟いても、応える人は誰もいない。逃げこんで震えている村人たちには、そんな余裕などないのだ。
「きゃあっ!」
そこに―間違いなくさやかの悲鳴が届いた。
「さやかさん!」
鉄平は反射的に、駆け出し…鳥居をくぐって、飛び出した。
「さやかさん!さやかさーん!」
必死で、走った。これ以上必死だったことはないぐらいに。
怖くないと言えば嘘になるが。
でも、ここで彼女の元に行かなかったら…自分がものすごく最低の奴になる、そんな気がしたのだ。
だから、足を踏み出す。
時間は少し遡る。
飛び出したさやかは、村内を駆け回っていた。
「…見つけた!お夏ちゃん…」
小さな女の子が、うずくまって泣いている。
「泣くな!うるせえ!」
隣では、金棒を手にした青鬼がわめいていた。
「助けなきゃ…!」
女の子に飛びつき、ぎゅっと抱きしめて自分の身体で隠す。
「こいつ!」
さやかが近づいただけで、鬼の顔が苛立ちに歪んだ。
「この…清浄な気配を漂わせやがって!むかつくんだよ、この女!」
怒りのままに掴みかかると。
「ぎゃっ!」
ばしっと光が走り、鬼は火傷でもしたかのように手を引っこめた。
「くっ…わかってるぞ。直接触れるとはじかれるが…」
鉄の棒を、振り上げた。
「武器は、お前の身体に届く…!」
「…っ!」
さやかは目を閉じ、縮こまった。
―鉄平が駆けつけたのは、そんな場面だった。
金棒が振り下ろされる。
「さやかさん!」
その時―「自分に何ができるか」などという疑問は、頭から吹っ飛んだ。
「やめろーっ!」
どうして、そう身体が動いたのか、後でいくら考えてもわからなかった。
ただ飛び出し…金棒の軌道に、彼女をかばう位置に、身体を割りこませる。
ばきっ。
鈍い音が響いた。
「お遣いさま…!」
鉄平が、その肩に金棒の一撃を受けていたのだ。さやかが驚愕の呟きをもらす。
「痛ってえ…でも、これぐらいなら!」
痛みを怒りに替えて、鬼の身体に強烈なぶちかましをかけた。
「どわっ!」
はずみで、金棒ががらんと鬼の手から落ちた。とっさに鉄平はそれをひっつかむ。背丈ほどもある鉄の棒が、軽々と持てた。
「うおおっ!」
頭の隅に、「あれ、こんな重いもの持てたっけ、俺…」という疑問が浮かんだが、そんなことを気にしていられないぐらい必死だった。
金棒をぶんぶん振り回し、青鬼に殴りかかる。
「こいつ!」
「さやかさんから離れろ!」
棒を大きく横に振って叩きつけると、鬼の身体は吹っ飛ばされてごろごろごろんと転がった。派手に転がったので大した傷ではなさそうだが、呆然としている。
「貴様、何者だ…何故我らに歯向う?」
(『何者』…?)
気になったが、それどころではない。さらに金棒を構え、臨戦態勢を取った。
「こんな強い奴がいるなんて…聞いてないぞ!」
「おい!退くぞ!もう奪えるものは奪った!」
鬼の中でも一際背の高い赤鬼が、呼びかけてきた。
「お、おお…」
青鬼は少しためらったが、さっさと逃げ出した。
「…あ!こら、待て!」
思わずそう呼びかけたが…それより大事なことがある。
「さやかさん!大丈夫ですか!」
「あ…」
さやかは驚愕の表情を浮かべて、鉄平を見上げていた。
「どうしました?」
「お、お遣いさま…鼻、が…」
「鼻?って…えーっ!」
無理矢理自分の「鼻」に目の焦点を合わせて…鉄平はぎょっとした。
ただでも上を向いている自分の鼻が、もっと上に伸びている。
目の高さまで突っ立った、硬質の―まるで、角。
「な、何だこれ?どうなってんだ…?」
さらに自分の身体を確認してみると、筋肉が異常に肥大化して身体が二回りほど大きくなっている。
―その姿は、まるで…鬼、そのもの。
「そんな…!」
しかし、さやかは驚いてはいたが、怖がってはいなかった。
「鬼じゃないです…あなたからは、凶暴な気配は感じません。ただ純粋にわたしたちを気づかっているだけ…そうでしょう?」
にっこり、笑ってみせる。
「そ、そうか…」
心底ほっとする…と、ぷしゅうと音がしそうな勢いで身体から力が抜けた。すーっと「角」が引っこみ、筋肉が元に戻っていく。
「うわ!うわうわうわ!もうこの棒、持ってられねえ!」
慌てて金棒を放り出すと、ごとーんと音を立てて地面にめりこみ、動かなくなった。
「さっきまで振り回せてたのに…どうなってんだ」
鉄平が恐る恐る触れてみるが、ぴくりとも動かない。
「良かった。元に、戻ったんですね」
「あ、ああ…どうなってんだ、俺の身体」
鼻をこすってみるが…もう、角は跡形もない。
「何かの拍子にまた角が出て、他の人にばれたら嫌だなあ」
「そうですよね…わたしは、鬼じゃないってわかりますけど」
「うーん…あ、あれがあった」
ポケットから小箱を取り出す。
「たまたま持ってて良かったぜ…」
「これは…?」
「絆創膏って言うんだけど」
一枚取り出し、ぺたんと鼻の頭に貼りつけた。
「これで少しはごまかせるかな」
「長く伸びたら突き破りそうですけどねえ」
全くである。
「とにかく…助けてもらいましたね。ありがとうございます…こうやって、村を守ってくださるんですね、お遣いさま」
「その『お遣いさま』っての、さやかさんだけでもやめてくれないかなあ。ちゃんと名前で呼んでほしいよ。俺は鉄平…大江鉄平って言うんだからさ」
「わかりました…鉄平、さん。わたしは、辛島さやかと言います」
「さやかさん…」
「鉄平さん、どうぞよろしく」
何故か二人して照れた。
鬼たちが去ったことを確認し、やっと境内から出て来れた村人たちは鉄平を「さやかたちを守ったお遣いさま」として褒めたたえた。ちょっと心苦しかったが、どういう姿で戦ったかは二人とも内緒にして、褒め言葉を聞いていた。
夕刻、名主の家に戻った二人は、箱膳を運ぶおまきに迎えられた。
「お遣いさまさは、ここに住んでおらがお世話することになるべ」
無愛想にそう言い、一汁二菜ぐらいの夕飯を出してくれる。
「そう言えば腹減ってたな…でもその前に、ちょっと、トイレ…」
「『戸入』って何ですか?」
「うー、えーっと…その、『用を足したい』って言うのかな」
「あ、厠ですね。外に出て、裏に回ると小さな建物があって、それです」
「そ、外…」
「中じゃ臭くなるべ。早よ行って来」
「う…もう、外は真っ暗、だな…」
この中を「厠」に行かないといけないのか。
「何しとるべ。…もしかして怖いんだべか?」
目をきらきら輝かせておまきが笑う。
「う…いやそうじゃなくて!こういうの慣れてないから、ちょっと戸惑ってるだけで…怖くない!ないぞ俺!」
「やっぱ怖いってことだべな」
バレバレであった。
「鬼にはあんなに強いのに、暗いのは駄目なんですか…」
「だって何かいそうだよ…幽霊とか…」
「今までどんな厠に行ってたんだべ」
「それは…明るくて、家の中にあった気がする…」
少なくとも、夜に屋外に出ないといけないことは無かった気がする。
「さすがに神さまのお国ですねえ。便利なんですね」
さやかが素直に感心した。
「とにかく行って来いや。ぐずぐずせんで」
「た、確かにしんどいけど…うう、行きたくねえなあ…」
鉄平がじたばたする間にも、夜はしんしんと更けていくのであった。
「粗相すんじゃねえぞ、お遣いさまさ」
第二の章 浪人と犬と少年と
鉄平がこの村に来てから、数日が過ぎていた。
村人たちとも、かなり顔見知りになってきた。
「お遣いさま!今日は平穏無事でいいですなあ」
「さま」付きで呼ばれるのには、慣れなかったが。
「兄ちゃん!お遣いさまの兄ちゃん!」
その中でも、利吉、杉作、弥次郎の三人組の子どもたちが一番先になついてくれた。この村でも評判の悪ガキだが、いたずらばかりしてもみんなから嫌われていないのが面白い。
「兄ちゃん遊ぼー!」
…単に遊び相手としか見ていない気もするが。
「お相撲さんごっこしようよ。今日は負けないよ!」
「お前ら三人がかりで来るからしんどいんだよなー」
そう言いつつも相手をしてしまう。名主宅の縁側から降りて四人で転げ回るのを、さやかが微笑ましげに見ていた。
「あー楽しかった!じゃあね、兄ちゃん!」
子どもたちが去ったと思ったら、次は名主がやってきた。縁側に腰を下ろし、何やら桐の小箱を取り出す。
「いやあ、馴染みの骨董屋がこんなものを持って来ましてな」
箱から何やら短い棒のような物を取り出した。
「いいものが手に入ったんですよ。平安時代の守り刀…それも相当な名門が持つようなもので。高かったんですよ」
小刀らしきものを手に、聞いてもいないのにどんどん語りだして止まらない。
「お父さま、そんなこと言って今までに本物を買ったことがありましたっけ?」
「いや、今度こそ本物だ。掘り出し物だぞ、これこそ!」
さやかが笑うが、名主は真剣にそう主張した。
「…すみません。父の趣味が骨董なもので」
「あー、古い値打ち物を集めるやつね」
「みんながらくただと思うんですけどねえ」
「今度は本物だよさやか!」
「ああ、そうですか…」
鉄平が昔いた所でも、こんなことを言ってどつぼにはまっていく人がけっこういたような。
「もう買わない!買わないからこれだけは自慢させてくれ~っ」
駄目人間モードまっしぐらである。
「大体、こんなことにお金を使ってる場合じゃないのに…」
全くである。
「ほら、見てくれこの細工を」
良く見ると鞘に螺鈿細工がされて、上品なつくりになっているらしいが…何しろ汚れ過ぎていて良くわからない。
「いや、これこそ古くてさらに本物の証だ。この分だと刀身もさぞや…あ、あれ?」
名主は刀を抜き放とうとするが、錆びているのかいくら引っ張っても抜けなかった。
「抜けないんじゃ刀の意味ないんじゃ…」
「う…こ、これこそ古いという証拠だ!」
…誰もまともに聞いていない。
(参ったな、こりゃ)
ため息をついた鉄平の視界の端を、一人の子どもがかすめた。妙に色白で、村の子どもたちとは少し服装が違う。身ごなしにどことなく品があった。
「何だ、あの子…」
その子は鉄平の視線に気づくと、こちらにぺこりと一礼した。
「どうしました、鉄平さん?」
「いや、その…あれ?」
ちょっとさやかに気を取られていたら、もう子どもの姿は消えていた。
「すごく足の速い子どもなのかな…」
そこに、
「わらび餅できたよー」
おまきがお盆を手に縁側にやってきた。
「お米はなるべく取っておきたいでね」
お盆には、半ば透き通ったぷるぷるの餅が載っている。
「あ、結構うまい…」
「今はまだわらび餅が出せるが…このまま鬼に襲われ続けたら、これどころじゃねえ『わらもち』が出ることになるべさ」
「『わらもち』…?」
「文字通り、藁を混ぜたお餅ですよ」
「あれは食いづらいべな」
「え!?『わら』って…稲の藁か!?どんな味なんだ…?」
「知らない方が幸せだべ」
一言で片づけられてしまった。
「…あの子は、六年前にこの近くでぼろぼろになって行き倒れておりましてな」
お盆を手に戻っていくおまきを見送って、名主が笑った。
「さやかがどうしても助けると言って聞かず、面倒を見ることになったのですが…今となってはこちらが世話になっています」
「相当辛かったらしくて、昔のことはあまり話してくれないんですよ。辛い思い出なら無理に聞こうとは思いませんけどね」
「結構ハードな過去なんだ…」
色々事情がありそうだった。
「あっちが千隈川で、向こうが境川って言うんだよ」
川の土手に来た鉄平を見かけて、利吉がこの辺の地理についてざっと説明した。
「はさまれてるんだな」
「だから『川の中洲村』って呼ばれてるんだ」
自慢そうに川を示す。
「どう、大きい川だろう。ね、お遣いさまの兄ちゃん」
「そうかな…もっと大きい川を、前に見たような」
はっきり思い出せないが…そんな気が、確かにした。
「えー、大きいと思うんだけどなあ」
利吉は不満げだ。
「まあ、狭くはないけど…」
「ちぇー。もういいよ」
ふくれた利吉が駆け出し…鉄平は苦笑して、土手に腰を下ろした。
「ここでしたか、鉄平さん」
そこに、さやかが来た。並んで座る。
「みんな、良くしてくれるな…」
「わたしたちを、守ってくれるとみんな信じてますから」
「うん…でも、俺に角が生えて鬼みたいになること、みんな知らないから優しくしてくれるんだよな、やっぱり」
「それは…!」
「角を見たら、村のみんなに鬼の仲間だって思われるかなあ」
間違いなさそうだった。
「この角…腹が立つとか、必死になるとか…とにかく興奮して心臓がどきどきするってことに関係してるみたいなんだ。もちろん、ただ出そうと思っただけでも出てくるけどさ。うう、何かのはずみで出てきたらやだなあ」
「ばれたら…みんな、怖がりますよねやっぱり」
さやかが信じ続けていられる方がおかしいのである。
「お面でもかぶったら…」
「でも、俺が『お遣いさま』だとわかってるのにお面かぶっても…かえって怪しまれそうな気がするんだよなあ」
「た、確かに…」
下手に怪しまれたらアウトな気がする。
「みんなを逃がしてから変身するしかないか…」
「自由に境内から出られるのは、わたしだけですから…ごまかせると思うんですけどね」
はなはだ頼りない予想であった。
「俺が鬼でないなら…何で角が生えて、怪力が出せるのかがわかんないんだ。俺…大丈夫なんだろうか」
不安に駆られ、思わず呟いてしまった。
「俺は…鬼なんだろうか」
「鉄平さん…」
「いつか、身も心も鬼になっちまうんだろうか…」
「鬼じゃありませんよ」
さやかが力強く言う。
「でも!」
「鬼じゃありませんよ…ほら、だって」
さやかはぱっと鉄平の手を取り、何のためらいもなく自分の胸元に持っていった。
「ちょ、ちょっと、さやかさん…!?」
場所が場所なので、鉄平はうろたえるしかないが。
「ほら、はじかないでしょう?」
真剣な面持ちで、彼の手を胸に押しつける。
「鬼なら、光が走って手がはじかれるはずなんです。鉄平さんは鬼じゃありません…それは、わたしが保証します」
「でも、俺今角出してないし…」
「それでも、悪い気があったらわかります」
「そ、そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど…その…」
「どうしたんですか?」
「いや、その…胸が、結構あるなって…」
柔らかい感触が、伝わってくるのであった。
「え…って、あああっ!」
そこで、自分が「何」をしたのか気づいたらしい。
さやかの白い頬がかーっと赤くなった。
「わ、わたしったら…やだ、もう!」
慌てて飛び下がろうとして、勢い余って鉄平の頬をばっちーんとひっぱたいてしまった。
「な、何でー!?」
吹っ飛ぶ鉄平である。
「す、すみません!わたしったら何を…」
さらに数日が過ぎたある朝。
「頼もう!お取次ぎ願いたい」
名主の家の人々(鉄平含む)は、突然の大音声に起こされた。
「何ですかな?お侍さま」
名主の家の前に立っていたのは、よれよれの紋付き袴に身を包んだ若い武士だった。
「川の中洲村というのはこちらでござるか」
「そうだが…どうなされた?」
名主の問いかけに、若侍は胸を張って答える。
「この村が鬼どもに襲われて難儀していると聞いた。助太刀いたす!…ただ…」
「…ただ?」
「何か食わせてくれ。このままでは力が出ない…」
へなへなと座りこんでしまった。
「何だべ、食いつめ浪人じゃないかい」
「何を言う、義による助太刀でござる…」
で。
「まあ食ってくだされ、お侍さま。立派なものは出せませぬが」
「かたじけない。この恩は必ず返す」
盛られた麦飯をかきこみつつ、浪人はうなずいた。
「拙者は木下新之助と申す。よろしく」
「…うー…」
「…でも、戦える人手が増えるのはいいことですよ」
障子越しに様子を見ながら、鉄平はちょっと不満だった。
「鉄平さんをないがしろにしている訳じゃありませんから」
さやかがお茶を注いでくれる。
「ただ、いかに『お遣いさま』と言っても…たった一人では、不安なんです」
「わかってるんだけど…でも…」
「…拙者は剣の達人であってな…鬼の百人ごとき、ばったばったと切り倒してくれようぞ!」
その間にも、侍の大言壮語は続いていた。
「おお、これは頼もしい。お遣いさまと共に、戦ってくだされ」
「…お遣いさま?」
「では、引き合わせましょう。誰か、お遣いさまを呼んできてくれ」
手を叩いて人を呼んでいる。
「…はーい」
様子を見ていたのがばれるのも恥ずかしく、鉄平はやや間を置いて名主たちの元へ顔を出した。
「おお、良く来てくれました。木下さま、こちらが神さまがお遣わしになった方です」
「遣わしてくださったのですか…」
疑いのまなざしを向けられ、むかっとした。
「…この妙な服装の方をでござるか」
「く…!」
「拙者一人で充分なのだが…まあ、よろしくお願いいたす」
「何だよあの上から目線!えっらそうに…」
聞こえないようにして、鉄平はぶーたれていた。
「『うえから』ってわかりませんが…まあ、お侍さまですからね」
さやかが慰めの言葉をかけるが、あまり響いてこない。
「自分が鬼退治の英雄だって気分なんでしょう」
「鬼退治…ねえ」
一度戦ってみて、そんな気楽なものじゃないと思うのだが。
「…私も苗字帯刀を許された身で、少し剣術をかじったことはあるが…あの浪人、相当使えるぞ。一人で鬼退治ができるというのもあながち嘘ではない」
名主が笑って言った。
「名主さんまでそんなことを言うんだ」
意地悪を言っている訳ではない、正当な評価なのだとわかっていても…正直傷つく。
「まあ鬼が攻めてきてからの話ですけどね」
「うー…」
どうにもここの人たちと顔を合わせているのがしんどくて…鉄平は、名主の家を出た。あてもなく歩き…川の土手に出て、一人座りこむ。
「『お遣いさま』なんて、呼ばれたくないんだけどなー…」
虫のいい話だとは思うが…「お遣いさま」とちやほやされているのも照れくさくて嫌だし、かといって今さら落とされるのもやっぱり気に入らないのだ。おかしな心理ではあるが。
「何かすっきりしないな…うー、むしゃくしゃするー」
そこに。
くぅーん…。
鳴き声と共に、頬に冷たい鼻が押しつけられた。
「わっ!?」
びっくりしてそちらを見ると、熊のように大きな白い犬と黒い犬が、尻尾を振ってじゃれついてきた。
「わあ!?ちょっと、いきなり何だよ!重いーっ!」
二頭にのしかかられて顔をぺろぺろなめられ、鉄平は思わず悲鳴を上げた。
「どこの犬だよ…野良にしちゃなつこいなあ」
飼い主がいるのかもしれない。
「お前ら、どっから来たんだ?ご主人さまは?」
くーん…。
ただ尻尾をぶんぶん振って甘えてくるだけ。
野良犬の薄汚れた感じは正直しないが、とにかく全力でじゃれてくるのは飼い主がいなくなったせいかもしれない。
「毛並みはきれいだけど…お前ら、もしかして腹減ってるのか?」
わわん!
全力で肯定された。
「待ってろ、今何か持って来てやるから」
さっきまですねてたことは棚に上げ、名主の家で残りご飯をもらってきた。
「ほら、仲良く食べろよ?」
器に入れて地面に置くと、すぐに二棟並んで顔を突っこむように食べはじめた。
「やっぱり腹減ってたのか…うまいか、なっ?」
わわん!
千切れるように尻尾を振り、また鉄平の顔をなめにかかる。
「わっ、やめろ!ぺろぺろすんな~っ!」
そんな時…半鐘が、けたたましく打ち鳴らされた。
「鬼だ!鬼が攻めてくるぞー!」
鉄平が走っていくと、木下が刀を手に走ってくるのに出くわした。さやかも神社から駆け出してくる。
「鬼たちはこっちから来ます!村の入り口で食い止めましょう!」
「まあとにかく、拙者に任せておいてくれ。鬼の一団ぐらい拙者一人で充分だからな」
「あー、さいですか。俺は前に出ないでおくわ」
「そうか。それは有難い」
皮肉のつもりで言ったのに、伝わっていなかった。
「任せておいてくれれば問題ないからな」
村の入り口に着いてみると、ちょうど鬼たちが金棒やら野太刀やらを手に入りこもうとしていた所だった。
「見ておれ、鬼の三十人ぐらい拙者がばったばったと斬り倒してくれるわ!」
木下は刀を抜き放ち、斬りかかっていく。
「面白い、やってみろ…!」
一際背の高い赤鬼が、にやりと笑って前に出た。彼のかざした右腕に刀が深々と食いこみ…そのまま。
「だあああ…って、へっ?」
「嘘っ!?」
そのまま、刀は右腕をすっぱりと斬り落としていた。腕は何故か血も流さずにすとんと地面に落ちる。
「うわ、斬れちまった…」
と思ったら、鬼は慌てず騒がず、斬り落とされた腕を取り上げて切り口をくっつけた。
するとあら不思議、傷口はぴたりとくっついて、跡も残さず元通り。
「便利だなー、鬼…」
「鬼なんでな」
牙のある口でにやりと笑う。
「ずるいな、ほんとに!」
「くっ…まだだ!まだ!」
浪人は呆然としていたが、気を取り直して何度も斬りつける…が。
「やっぱり…」
すぱり、くっつけ。すぱり、くっつけ。
いくら鬼に斬りつけても、斬られた端から身体がくっついていってしまう。
「やめてくれんかな。痛いことは、痛いぞ?」
「ひ、ひいっ!?」
凄絶な笑みを浮かべる鬼に、ついに心が折れた。
刀も放り出し、木下は這いずるように逃げ出す。
「刀じゃ駄目なのか…なら、俺が…!」
鉄平は進み出た。鼻の頭がせり上がり、絆創膏を突き破って「角」が伸びた。
一歩ごとに身体がふくれ上がり、力がみなぎる。
「お前がリーダー…じゃ通じないか、隊長か」
「鬼武・喜兵衛だ。若長を務めている」
のっぽの赤鬼が笑った。角と牙を除けば、ハンサムといっていい青年だ。
「行くぜ…!」
さっきまでは動かすこともできなかった金棒を手に取る。双方睨み合う…そこに。
わん!わん、わわん!
二つの竜巻のように、飛びこんできた者がいる。
「お前たち…!」
先程の、二頭の犬だった。わんわんとけたたましく吠えながら、鬼たちに食らいつき地面に押し倒す。
「こいつら、鬼に負けてない…!?」
刀傷はすぐにくっつくのに、この犬たちの牙は効くらしい。噛みつかれると、鬼たちは悲鳴を上げて下がった。
犬たちがさらに飛びかかって噛みつくと。
「うわ、やめろ!痛え!」
「ぎゃああ!」
二頭が歯をむき出して唸ると、彼らは遠巻きにして様子を見ている。村の中に入ろうとはしなかった。
「ありがてえ…行くぞ、鬼ども!」
鉄平が金棒を振り上げると、鬼たちはわっと逃げ出した。
「やった!お前たち、ありがとうな!」
くぅ~ん…。
二頭はさやかにも甘えて身体をすりつけている。
「うわ、くすぐったい…でもほんと、いい子たちですねえ」
「何で俺たちを助けてくれたんだろう…」
その疑問はあったが。
鉄平とさやかから離れようとしない二頭の犬は、自然と村にいつくようになった。
白いオスの方をハチ、黒いメスの方をクマと名づけてみたりなんかする。
村人たちもはじめは、あまりの大きさに怖がっていたがすぐに慣れた。
「ハチ、クマ、遊ぼう!」
毎日子どもたちと転げ回って遊んでいる。
「どこから来たのか知らないけど…すっかり馴染んだな」
「それなんですけど…」
縁側で、庭で遊んでいる子どもたちと二頭を眺めながら、さやかが真剣な表情で言った。
「ここの神社には、狛犬というものがいないんですけど」
「そう言えば、いなかったな」
「その『いない』狛犬が、現れたんじゃないかと思うんです」
「へ!?」
そんな訳…と言いそうになるが、鬼がいることも自分が来たこともあって、ある訳ないとも言えない。
「わたしたちを、手助けにきてくれたんじゃないかと…まあ、他の神社で見る狛犬って、どう見ても普通の『犬』じゃないんで、確証はないんですが。でも、そんな気がしてしょうがないんですよ。鬼に勝てるほど強いし…」
「うーん…お前たち聞いてたか?『そう』なのか?」
くぅーん…。
聞いたって返事はない。ただ尻尾を振って甘えてくるだけだ。
「まあ、いいか。これからもよろしくな?」
かくして。
熊のように大きな二頭の犬は、神社で飼われることになったのである。
第三の章 牛と泥棒と少年と
その朝鉄平は、さやかが箒で神社の境内を掃いている所に出くわした。
「あ、おはようございます鉄平さん。早いですね」
その両肩に止まってくうくう鳴いているのは。
「これ…」
「鳩です。ここの神社のお遣いの」
白鳩が二羽、こっちを見ていた。
「へー、こいつらが本当の『お遣いさま』か…」
「わたしには懐いていて、結構色んなお願いを聞いてくれるんですよ。連絡を届けたりとか」
「ああ、足に手紙をくくりつけたりできたっけ」
「…あ、そういう方法もありますね」
考えてもいなかったらしい。
「わたしには、この子たちの考えていることがぼんやりと伝わってくるんです。だからいつも鬼が来ないか見張ってもらって…でも、確かに手紙をくくればわたしたちから連絡することもできますね。それは便利です」
「そうだよなあ。よろしくな…っておいこら」
鉄平は鳩を撫でようと手を伸ばしたら、怒ってつつかれた。さやかがくすくす笑っている。
午後、おまきが盆を手に縁側の鉄平とさやかに近づいた。
「お小昼だべ」
盆の上には、こんがりと焼かれた丸いものが何個か載っている。
「これ何だ?焼きまんじゅうか?」
「おやきだべ。野沢菜と切り干し大根の」
「あ、これがおやきか…」
ほかほかと湯気を立てるおやきにかぶりついた。
「あ、結構うまい…うん、いくらでも食べられそうだ」
「やっぱりお小昼はこれですよねえ」
名主夫妻も出てきて、みんなで食べる。
その視界の隅で、大きな袖をひらつかせた少年が一人駆け抜けた。
(あれ、誰だろう…)
しかし、誰も何も言わないので鉄平も聞かなかった。
「はー、食った…」
そんなくつろぎの一時は、逃げてくる人々に破られた。
「鬼だ!鬼が来たぞ!」
その声に、慌てて鉄平とさやかが村の入り口にたどり着いた時には、もう鬼たちは引き揚げた所だった。
「あれ、あいつら今回はあっさりしてるな」
「鉄平さんやハチたちが頑張ってくれますから、鬼たちも最近は何も奪えずに引き返しますものね」
さやかが弾んだ声を出す、そこに。
「大変だ!」
村人の弥惣八が駆け込んできた。
「どうした?」
「大変だあ!おらの、おらのクロがいなくなってる!」
「九郎!?」
「クロだ。おらの可愛い牛だああ…小屋の扉が壊されてただ」
「じゃあ、もしかして…」
鉄平は逃げていく鬼たちの後ろ姿に目を凝らした。…と、なるほど何人かで黒い大きな何かを担いで走っているのが見てとれた。
「あれがクロかよ…こないだまで代掻きしてたあいつか。牛盗んで逃げてるのか…」
「このままだと、おらのクロがすき焼きにされてしまうう…大事な大事な働き手がああ…」
弥惣八は泣き伏した。
「お願いするだ…うちのクロを何とか…」
「わかった、わかった。食われないうちに助けるよ」
「必ず、無事に帰します」
「ハチ!クマ!来い!」
わわん!
二頭の犬が駆け寄ってきた。
牛を担いで疲れたらしく、鬼たちは人里からかなり離れた所でキャンプ(?)をはじめていた。火を焚き、みんなで一息入れている。
「さーてこいつ、どうやって食おうかな…」
「やっぱ丸焼きじゃ!ずっぷり串刺しにしてぐるぐるじゃ!」
「いやいや、今風に『すき焼き』というのも悪くないぞ。こう、鋤の上に載せてじゅうじゅう焼いてなあ…」
「丸かじりも悪くない!早く食っちまおうぜ!」
ぶもー、ぶもー…。
殺気ですらない「食い気」を叩きつけられ、クロはぶもーぶもーと恐怖の声を上げて縮こまった。
「…何とか、助けないと」
その状況を近くの茂みから窺いながら、さやかが呟いた。
「…でも確かに、牛肉食いたいよなー。こっちに来てから食ってないし…」
「食べるんですか!?不浄ですよ、それ!」
「ご、ごめん。大事な仲間だもんな」
ぽろっと口に出したことに拒否反応を示され、鉄平は謝るものの。
(覚えてないけど、前にいた所では毎日動物性のもの食べてた気がするなあ)
良くて魚、という状況には辛さを感じてしまう。
(動物性蛋白が食いたい…)
隣のさやかの手前、口にはしなかったが鉄平はそう思った。
その間にも。
「牛鍋というものもあるぞ」
「半分ずつでもいいんじゃないのか?」
鬼たちはまだ揉めていた。
そこに。
『何を話しておるのじゃ?』
ぞっとするほど美しい声が響いた。
同時に華やかな音色が聞こえてくる。美しく…どこか心をかき乱す響きだった。
「うわ、お正月な感じ…琴の音、だったっけ」
「「は、ははーっ!」」
鬼たちが一斉にひれ伏す。
炎の上あたりに、十二単を着た美女の後ろ姿が映し出された。
―後ろ姿なのに何故美女と思うのかと言うと、黒髪が尋常でなく長くて艶々しているので、そういう印象を与えるから、なのである。
『どうじゃ。どのようになっておるのじゃ…まだ中洲村とやらを襲っているのかえ?』
美しく権高な声が響いた。その下では、小鬼が髪にじゃれて遊んでいる。
「は…ですが、我らに立ち向かってくる者もおりまして、なかなか米も奪えませぬ」
先日「鬼武・喜兵衛」と名乗ったのっぽの鬼が、代表して返事をした。
『神社の結界が広がった訳ではないのであろう?』
「は、はい。それはないです」
『ならば良し。村より全てを奪うのじゃ、良いな』
その言葉を最後に、美女の姿は消え失せた。
「やれやれ…緊張するなあ」
鬼たちはほっとしたらしく、一斉に起き上がって息をついた。
「あの人、何なんでしょう…」
「わからないけど…鬼たちの背後にいる、もっと恐ろしい存在なのかもしれないな」
しかし、今は黒幕捜しよりもクロ救出の方が大切だった。
「ハチ、クマ、頼む。鬼たちを連れ出してくれ」
くぅ~ん…。
小さく返事をした二頭は、連れ立って歩き出し…大回りしたらしく、反対側のかなり遠い所から声を張った吠え声が聞こえてきた。
わわん!わん、わんっっ!
「げげーっ!またあの犬どもかよ!」
「牛を追って来たのか…」
鬼たちは露骨に嫌そうな顔になった。
「とにかく、追っ払おうぜ。このままじゃ、おちおち料理もできん」
「そうだな。おい熊武・与六。番しててくれ」
「わかったんだな」
呼ばれて、彼らの中でも一際大柄な鬼がうなずいた。他の鬼たちは火のそばを離れ、ハチたちが吠えている方角に消えていく。
「よし!一人なら何とかなるかも…」
決心して、鉄平は金棒を手に火の前に飛び出した。
「な、何なんだなお前は!」
与六と呼ばれた大柄な鬼は、びっくりして叫んだ。
「そこの美味そうな…じゃない!大事な牛のクロを、返してもらうぞ!」
「ここまで邪魔しに来たのか、なんだな!みんなから預かったこの牛っこは、渡す訳にはいかないんだな!」
金棒をひっつかみ、吼える。頭の一本角が炎の光にきらりと光った。
「お、おでは熊武・与六と言うんだな」
口調はのんびりしていたが、ふりかざす金棒は並みの大きさではない。
「おでたちに盾つく奴は、許さないんだな!」
ガキィン!
振り下ろされた金棒を、鉄平はぎりぎり受け止めた。
「くっ…!」
金棒同士がぶつかり合い、火花が散る。
「ぐは…手が痛いな、ほんとによ!」
それだけで手がじーんと痺れ、鉄平は小声で罵りながら金棒を引き戻した。
「おでは、鬼の中でも一番の力持ちなんだな!おでの前に立ちはだかる奴はみんなぶっ飛ばすんだな!」
ガン!
次の一撃で、鉄平の足が地面にめりこんだ。
「ぐ…!」
一対一なら勝てるかと思ったのだが…そう甘くはなかった。
(どうしたら勝てる…どうしたら)
頭を巡らせるが、あまりいい考えが浮かばない。
(頭悪いな、俺…)
そこに。
「わん!わん、わわん!」
そう、声がかかった。
それだけで、与六の身体はびくーんと固まる。
「今!」
大きく振りかぶった金棒を叩きつけると―彼の一本角を、かすめた。
ぴきっと、嫌な音がする。
「う、う…うぎゃあああっ!」
与六がいきなり、頭を抱えて苦しみ出した。
「な、何だか…まるっきり虫歯で物を思いっきり噛んじゃった時のような痛がり方だな…」
とにかくものすごく痛いらしいのだ、角にダメージが行くと。
「ぎゃああ!おでの、おでの角…!」
「他は平気なのに…」
泣きどころ、といった感じか。
そこへ、鬼たちが引き返してきた。
「与六!」
「痛いんだな…!」
「く…引き揚げるぞ皆の衆!」
鬼武・喜兵衛が号令を発し、のたうち回る熊武・与六を数人で抱えるようにして去って行った。
「やれやれ、助かったぜハチ…あれ?」
ハチとクマの鳴き声は、まだ遠かった。
代わりに、そこにいたのは。
「さやかさん?」
頬を紅潮させたさやかが、立っているだけだった。
「もしかして、あの鳴き声…さやかさんが…」
「はい。あー、恥ずかしいです…」
ますます赤くなり、頬を両手で包んで横を向いてしまう。
「こんなことをしたの、はじめてです」
「でも、助かったよ…あいつ、怖がってたもんな。何でわかったの、あいつが犬苦手だって」
「ええ、どうして彼がハチたちの方に行かなかったのかな、と思いまして。もしかしたら、と考えてやってみました。当たって良かったです」
まだ恥ずかしそうではあったが、彼女はにこっと笑ってそう言った。
「とにかく助かったよ…ありがとう」
「さ、早くクロを連れて帰りましょう」
もう思い出したくないらしく、さやかは話題を切り替えた。
「でも俺一人じゃ、さすがにクロは担げないなあ」
「大丈夫です。それは任せてください…とにかく縄を切ってください」
「お、おお」
自信ありげなさやかに促され、鉄平はクロを繋いでいる縄を引きちぎった。さやかはそのクロに近づき、首をぎゅっと抱きしめて広がった耳に囁きかけた。
「帰ろう、村に。弥惣八さんも待っているよ」
すると耳がぴくっと動き、大きな目に光が戻った。
ぶもー…。
一声鳴いて、走り出す。村の方へと。
「すごいな、クロに言うことが届くんだ」
「まごころを持って語りかければ、生類にも通じるんです」
照れたように笑って、彼女は足を速めた。
「早く帰りましょう。鬼たちが引き返してきたりしないうちに」
クロも無事戻り、村は田植えに向けて本格的に動き出した。
「うう…同性の仲間、いないかなあ。さやかさんたちにお世話になるのもいいけど、同世代の男と話したいよな」
鉄平はそんなことを呟いていた。おまきがそれを、たまたま耳にする。
「お遣いさまさは幾つなんだべ?」
「十七…だったと思うけど」
「じゃ、若衆組に入ってもいい年だべな。おーい与吾郎さ、お遣いさまさを仲間にしてやってくれ」
おまきが畑仕事をしている若者たちを呼んだ。
「いいが…畑仕事なんて、できるのか?お遣いさまよう」
「やってみるけ?試しにさ」
ひょいと鍬を渡された。
「お、おお。でもこんなの、小学校以来持ったことなんてなくて…うおっと」
鍬を振り上げたはいいが思いっきりよろける鉄平に、笑いが起こった。慌てて振り下ろすが、土は砕けない。
「うわー、やってみるとできねーな…」
「鍬の使い方、なってないなあ」
みんなで、げらげら笑っている。
「何だよー、やったことないから仕方ないだろ」
「それじゃ俺たちの仲間にはなれんなあ」
「まあせいぜい、さやかお嬢さまに世話されてりゃいいや」
与吾郎たちは笑いながら背を向け、もう話しかけようとしてこない。
「畑仕事ができなきゃ駄目か…うう」
「気にすることないべ。与吾郎さは、さやかさまがこっそり好きなんだべ」
「そうか、それで俺にきついのか…」
なかなか複雑である。
「そうは言っても、さやかさまには決まった『相手』がいらしてなあ」
「ええっ!本当かよ、それっ!」
鉄平は飛び上がらんばかりに驚き、おまきに詰め寄る。
「どこの誰だ!?婚約とか…してるのか?」
「そんなに必死になっても困るだ…正式ないいなずけではないけんど、名主さまは心に決めてるみたいだべ」
「そ、そうか…いるのか…」
自分でも何でこんなに、と思うほどにがっくりする。
「川向うの村の、名主の息子でな。とてもいい人だあよ。優しくてなあ…さやかさまも、好いておいでのようだべ」
「そうなんだ…公認の中、ってやつか…」
彼氏気どりなんてしてないと思うのだが…鉄平は衝撃を受けたのだった。
第四の章 見合いと気障と少年と
「喜んでくだされ、お遣いさま!」
名主たちの寄り合いから帰って来た「川の中洲村」の名主・五郎蔵は、開口一番そう言った。
「は?」
「縁談をまとめてきましたぞ!」
「え、縁談!?」
さやかたちとお茶を飲んでいた鉄平は、当然びっくり仰天した。
「寄り合いであなたの話をしましたらな、『そんなにお強い神さまのお遣いさまなら、ぜひうちの娘を嫁がせたい』と言う名主がおりましてな…」
話が暁の超特急張りに速い。
「だ、だって俺、縁談なんて考えたこともなくて」
鉄平は必死に抗弁するが。
「いやいや、あなたはこの村を守る英雄ですからな。嫁の一人や二人、いえ三人でも四人でも貰っていいのですよ。ですから今度、見合いでもしようじゃないかと」
名主は一人でほくほくしている。
「大丈夫ですとも。任せてくだされ」
「そんな状況じゃないと思うんだけど…」
絶賛戦闘中の村なのである。しかも鉄平が最大戦力で。
「そうは言いますが…いい話なんですよお遣いさまそれが」
「い、いや俺、今そういうことはちょっと…」
現在一番萌え…いや気になっている女性はあなたの関係者です、と言えばいいのだろうか。
…などとわたわたしているうちに、さらに話が進んでいた。
「とにかく、三日後に『森の村』の名主がお嬢さんを連れて来られるので会ってくだされ。鬼もその頃は来そうにないのでちょうどいいですからな、はっはっは」
断れそうもなかった。
「どうしよう…」
言いたいことを全部言って名主が去って行った後、鉄平は呆然と呟いた。
「すみません、うちの父がまた勝手なことをはじめまして」
さやかがお茶を入れてくれる。
「…いえ、いいんですよ。気にしてませんし…大丈夫です」
「でも、いきなり縁談だ、お見合いだなんて話になってしまって」
「い、いや、それは…何も困ってなんていませんよ」
「…そうですよね。お嬢さまとの縁談ですものね…」
(…!やばいぞ、これっ)
これでは、「お嬢さまとの縁談」に不満がない…というか大乗り気ということになってしまうではないか。
(い、いや…興味ないって言ったら嘘になるけど、でも…)
健康な十代の男子としては、「他の女の子」もやっぱり気になるのだ。
(でも、さやかさんには嫌われたくないし…うう)
どう言えば「いい」のかが正直わからない。
(俺…頭悪いな。悪すぎる…)
記憶もないし…まあそれは、女の子の扱い方に関係あるのかどうか良くわからなかったが。
で、三日後。
父親らしい人に手を引かれて、しずしずと現れたのは―年頃の女の子らしい赤基調の小袖に身を包んだ、小柄な少女だった。
色白で、あどけない顔立ちだ。
「うわー、お嬢さまって感じだ…」
「さやかさまだってお嬢さまだべ」
「うん…でも巫女さん属性の方が先に立って」
「杏と申します。どうぞ末永くよろしくお願いいたします…」
「これはこれは…って!まだそんな気になれないって俺!」
出迎えた鉄平は、背後にさやかの視線をものすごく感じていた。
「どうぞ、末永くお幸せにっ」
そう小声で言い捨てて、さやかは引っこんでしまう。
「あ、いや!ちょっと、さやかさん!?」
「当り前だべお遣いさまさ。でれでれしちまって」
おまきも、さやかを追って奥に入ってしまった。
「お杏さんは『森の村』の名主の三女でしてな。年齢もよし、お遣いさまの嫁として申し分なし!いかがかな、お遣いさま」
お座敷に、獅子脅しの音が響く。
鉄平とお杏が、その中で向かい合っていた。
お杏の隣には父親が、鉄平の隣には「中洲村」の名主が親代わりと言うことで座っている。
「い、いや、俺は嫁だなんてそんな…」
何か昔、お気に入りの女の子を「嫁!」とか主張した気がするが。
そういう状況でないことはさすがにわかっていて…困惑する鉄平の周りで時間だけが過ぎていく。
(うう…誰か喋ってくれよ…)
たまに名主たち同士が会話するだけで、後は沈黙が続く。その沈黙がひたすら痛かった。
「…お遣いさまは…文字通り神さまのお遣いとして現れたと…?」
「森の村」の名主が取ってつけたように言葉を発する。
「そうなんですよ!この村をお救いくださるように神さまに祈りましたら、ご神木の下にこの方が現れましてな」
「それはすごいですねえ」
「あの…その前は、やはり神さまの所に…?」
ここに入って以来、はじめてお杏が口を開いた。
「いや、それが…よく、覚えてなくて…むにゃむにゃ」
「はあ、そうなんですか…」
言いづらくてごまかそうとしたが…納得されてしまった。
「さて…ここは若い二人に任せて」
名主二人が腰を上げた。
「あ!ちょっ、名主さん!」
止めようとするが、大人二人はさっさと出て行ってしまう。
鉄平とお杏が残された。
さらに沈黙が重く垂れこめる。
「あの…お杏さんは、いつもは何をされているんですか…?」
やっと口を開いて、鉄平はそんなことを聞いた。
「あの…お茶と、お花を、少し…後、お料理も…」
「そ、そうですか…はは」
それっきり、また沈黙が場に満ちる。
(だ、誰か…何とかしてくれ、この状況を…)
そこに、お盆を手に入って来たのは。
「…粗茶でございます…」
(お、おまきちゃん…助けてくれ…!)
目で必死に訴えるが…おまきは完璧に無視して、お茶を置くついでに鉄平に一つ蹴りを入れ、去っていく。
(うぐ!…そりゃないよ、おまきちゃん…)
「それで結局、お父さまが帰ってくるまで何も進まなかったんですか」
「うん」
さやかの問いに、げっそり疲れながらも鉄平はそう答えるしかない。
「お杏さまはまた来ると言われて帰って行ったべ」
「参ったなあ…じきにまた鬼が攻めて来そうなのに」
「今一つこの村の状況が呑みこめてないみたいなんですよね」
三人でため息をついた。
「まあとにかく、梅漬けのおにぎりできたで食べてくれ」
「梅漬け?梅干しじゃないのか…あ、固いや」
「他の国では『梅干し』だと聞いたことがありますが…この辺では『梅漬け』ですねえ。かりかりしたのがいいんです」
かりっとした口当たりの梅漬けを、刻んでご飯に混ぜてあった。
「口に合いませんか?」
「い、いえそんなことは…美味しいです、とっても」
で、さらに時は過ぎた。
「そろそろ、また鬼たちが来そうな時分だな…」
予想がついてしまう、というのも困った状況だが。
「最近は鉄平さんやハチたちの活躍で、米とか全然奪えてないはずなのに…いい加減諦めてくれないもんですかねえ」
さやかがため息をついた、そんな時。
「お遣いさま!」
聞き覚えのある、声がした。
「…お杏さん!?」
この間お見合いをした相手が、村に入って来ていた。
今日は、多少布地は上等だが着飾らない村娘ルックだ。
「えへへ、来ちゃいましたー」
「いや、『来ちゃいました』じゃなくて!」
そんな状況じゃないのに…と言いたい。
「鬼がいつ攻めてきてもおかしくないのに…」
とはいえ、今村を出てもらってもそれはそれで心配だ。
「後で、送って行くしかないか」
「あたしの村に来てくれるんですか!?」
お杏の顔がぱっと輝いた。
「いいところですよ。今時分は、何十年か前に植えた杏の樹が花をつけはじめていまして」
「へえ…もしかして、お杏さんの名前って杏の花から取ったんですか?」
「は、はい」
ちょっと頬を染めて、少女は答えた。
(お、フラグ立ったかな?回収できるかな…)
そんなことを考えていたりすると。
「楽しそうですね、鉄平さん…」
さやかがぼそりと呟いた。その口調の固さに、鉄平はびくっとする。
(!…だからさやかさん、怖いって!)
ゴゴゴ…と音がしそうな感じである。一見笑顔なのが、一番怖かった。
「と、とにかく、この村は今、大変な状況で…!」
そう言いかけた時、さやかが叫んだ。
「いけない!鬼です!」
どうやら鳩たちから知らせが来たらしい。
「早く、早く逃げないと!」
ガン!ガン!ガン!と半鐘が打ち鳴らされ、村人が我先にと逃げはじめた。
「お杏さんも急いで!早く神社に!」
「え、え!?」
慣れていないせいか、お杏の動きが遅れた。その間に、鬼たちの姿が村の入口あたりに現れはじめる。
「お杏さん!」
「きゃあっ!」
走りかけて、お杏が転んだ。立ち上がるが一瞬遅れる。
そこに、鬼たちが殺到した。
ガン!
―ぎりぎりで鉄平が割りこみ、金棒で鬼の攻撃を受け止めた。
「早く逃げろ!早く!」
振り向かずに―振り向くと角がばれる―ただ叫んだ。
「は、はい!」
その間に、身体を引きずるようにしてお杏は逃げ出した。
「こんにゃろ!いい加減、諦めろよ…!」
金棒を一閃、殴りかかっていた鬼を吹き飛ばす。さらに二頭の犬も駆けつけ、鬼たちを追い散らしにかかった。
「やれやれ…僕の出番のようだね、ここは」
わざとらしいため息と共に、鬼たちをかき分けて出てきたのは。
「何だ、あいつ…」
青い肌の、他のよりやや細身の鬼。
「ふっ…僕は伊賀瀬・小助。水使いの伊賀瀬だ」
わざとらしく前髪をさっと払って名乗る。
「何だ、この気障野郎」
気障な鬼、と言うのも変だが。
「とにかく、勝負するしかないか…」
鉄平は覚悟して金棒を構えた。
「おっと。僕は僕のやり方で戦わせてもらうよ…」
伊賀瀬・小助と名乗る鬼がそう言って手を差し伸べると、近くの千隈川の水が激しく渦を巻き、噴き上がった。伊賀瀬の頭上にその渦が集まり―透明な刃を持つ、刀の形になって彼の手に握られる。
「何だあれ!?まあいい、やるだけだ!」
鉄平は前に出、金棒を振るうが。
「ふ…単純な攻撃だねえ」
水の刀が、がっきと金棒を受け止めていた。
「そんなっ!?」
「この刀は特別製なんだよ」
ばしゃっ、と刀が崩れ―無数の弾丸になって鉄平に襲いかかった。
「うわあああ!痛ってえ、こいつー!」
至近距離で、水とは言え弾丸を受けて「痛ってえ!」で済むのだから、丈夫としか言いようがないが。
とにかく、ばしばしと水の弾が当たった。
「まだだよ…」
また水が飛来、刀を形作った。伊賀瀬は少し距離を取り、いつでも弾丸を発射できる体勢をとる。
「く…!」
幸い、鉄平の身体に傷は付いていない。痣ぐらいはできているかもしれないが。
しかし、距離を取られるとどう反撃していいかわからない。
(どうすれば…)
鉄平は考え…前回の戦いを思い出して、一つアイデアを思いついた。
(よし。試してみるか)
「何もできないかい?じゃあ、こっちから」
再び、水の弾丸が撃ち放たれたが…その乱れ撃ちを、鉄平はあえて全部受けた。
「痛い痛い痛い!でも、直後なら何もできないだろ、お前っ!」
痛みに耐えつつ、金棒を横に振り抜き―投げる。
金棒はくるくるっと回って飛んで行き、狙い過たずに伊賀瀬の片方の角に当たってひびを入れた。
「うぎゃああっ!痛い痛い痛い痛い!」
気障な台詞はどこへやら、伊賀瀬・小助は頭を抱えて苦しみ出した。
「よし!やっぱり角が弱点か!」
「やはり駄目か…!帰るぞ、皆の衆!」
鬼武・喜兵衛が号令をかけ、伊賀瀬を抱えてさっさと逃げ出した。前回の熊武・与六より軽いのでスピードが増している。
「はあ、何とかなった…お杏さん大丈夫だったかな」
痣だらけになったがとにかく撃退し、鉄平はほっとした。角を引っこめ、神社に様子を見に行く。
「…正直、鬼があんなに怖いものとは…思っていませんでした」
神社では、さやかに付き添われたお杏がまだ震えていた。
「この村の状況を甘く見てました、あたし…」
「な、大変だったろう?お見合いとかしてる場合じゃないんだよ、ほんと」
「本当に、何とお礼を言ったらいいか…勝手に押しかけた挙句に、助けてもらうなんて」
「いや、いいんですよーお杏さん。無事で良かった」
「…お杏さんにはさらりとそういうこと言えるんですね…」
「あ、いえ!別にさやかさんが大切でないとか、そういうことじゃ!」
ふくれるさやかを、慌ててなだめにかかる鉄平に、お杏はくすりと笑った。
「とにかく、この話はなかったことに…」
「そうですよね。迷惑をかけてしまって、済みません」
「迷惑をかけるとか、そういうことじゃなくって…友達になろうぜ、お杏さん。いきなり嫁になるとかそういうんじゃなくって、ここにいるみんなと仲良くなってさ。鬼が来ない時に、時々遊びに来るとか。好きの嫌いのっていうのは、それからでも遅くないと思う」
「ともだち…ですか」
「そうそう」
「じゃあ…そこから、はじめましょうか」
あどけない顔に、笑みが浮かんだ。
さらに数日が過ぎた、ある日。
「兄ちゃん!兄ちゃん!大変だよっ」
座敷でのんびりしていた鉄平の元に、利吉が駆けこんできた。
「何だどうした…ってっ!?」
名主の家の縁側に行って、鉄平は固まる。
「お杏さん…!?」
「お久しゅうございます、鉄平さま」
白無垢をまとった…お杏の姿が、そこにあった。角隠しの下から、微笑む口元が覗いている。
「鉄平さま…父は、説得いたしました」
「だって…友達からはじめようってことに…」
「良く考えて…鉄平さまのような方なら、友達を通り越してすぐにでもお嫁に行きたいという結論に達しましたので」
三つ指をついて、深々と一礼。
「未熟なふつつか者ですが、どうぞ末永くお願いいたします」
「お、押しかけ女房枠…」
後ろのさやかの視線が、ただひたすらに怖かった。
第五の章 猟師と芋と少年と
夕飯時、囲炉裏の周りに名主の家のみんなが集まる、神主さんもさやかもこの時分にはこの屋敷に戻って来て、一緒にご飯を食べるのだ。
心安らぐ、みんな楽しみにしている時間帯なのだが。
「またヒエご飯か…」
並べられた箱膳を見て、鉄平は呻いた。
「仕方ないんですよお遣いさま。稲の刈り入れまで食いつながないといけないので」
「鬼がどんどん奪って行ったから…仕方ないんです」
最近は鉄平や犬たちのおかげであまり奪われていないのだが。
「でも、お遣いさまはあたしらのために戦ってくださるのですから…今度は、特別に白いご飯を用意しますね」
さやか母(名主の奥さん)がそう言う。
「いや、いいです!みんなと同じで充分です、ほんとに」
みんながヒエご飯で自分だけ…ってのは心苦しすぎる。
(とは言え…インコが食うような飯だなあ)
そう感じてしまうのはどうしようもなかった。
それに、ここの食生活にはもう一つ悩みどころがある。
「うう、肉が食いたい…肉、牛でも豚でもいいから」
虚ろな目で呟いてしまうほど、動物性蛋白が少ないということであった。
「そんな…獣肉なんてもってのほかですよ。川で鮎とか捕れますから、それで我慢してください。塩焼きにして食べましょう」
「うう…肉って、食べるの大変なものなんだなあ」
前にいた所では、結構毎日のように食べていた気がするのだが。
「変ですねえ…神さまのお国なんですから、もっと清らかなものを召し上がっているものだと」
「違う気がするんだけどな…」
覚えていないから、否定のしようもないのだが…こことは全然違うが、神さまなどいない普通の生活だった気がする。
「そう言えば、そろそろ猟師の幸兵衛さんが訪ねてくる頃じゃないかな」
肉の話で思い出したらしく、名主が口をはさんだ。
「漁師!?あー違った、山で狩りをする人か」
「沓井っていう、深い山の中の村で猟師をしている親戚の人なんです」
「へー、猟師の親戚がいるんだ」
「かなり遠い親戚なんですけどね。でも時々、山で獲れたものを土産に訪ねて来てくれるんです」
「うう…肉気のもの、お土産に持って来てくれるかなあ」
少し望みが出てきた気がした。
そんな話があってから二、三日後、名主の家に来客があった。
縦にも横にも大きい、がっちりした壮年の男性だ。毛皮の上っ張りを着て、背中には銃を背負っている。
「土産だ。食べてくれ」
そう言って差し出してきたのは。
「お、雉に兎だべか」
おまきが、さっと出てきて受け取った。
「兎ですか…わたしはあんまり…」
さやかがちょっと嫌そうな顔になった。
「兎なら大丈夫だべ、さやかさま。鶏と同じことだあ。だから一羽、二羽と数えるんだべ」
「まあ、そうですけど」
「じゃ、これで鍋ものでも作ろうかね、お遣いさまさ」
「やったあ!頼むぜ、おまきちゃん」
「喜んでもらえて何よりだ」
ぼそぼそと言い、幸兵衛はひげだらけの顔に笑みを浮かべた。
「鬼に襲われていると聞いて、心配していたが…思ったよりみんな元気そうで、安心した」
「それもこれも、ここにいる鉄平さんのおかげですよ」
さやかが、弾んだ声で鉄平を紹介した。
「神さまのお遣いさまなんです」
「お遣いさま…?」
「この村を守ってくださっているんです」
「ほう…」
猟師は鉄平を上から下までじっくりと眺め、破顔した。
「その若さでこの村を守っているとは…大したものだ」
「いや、そんな大したことではなくて…」
大いに照れる鉄平に笑いかけ、彼は立ち上がった。
「しかし、大変なことは事実だ。あまり長居しては悪いな」
「いいや、そんなことは…」
名主も口ではそう言っているが、長居されても危険が増えるだけというのは間違いなく事実だった。
「だから、帰らせてもらう。別に居心地が悪い訳ではないぞ。鬼のことが何とかなったら、また来るからな」
ぼそぼそとそう言い、幸兵衛は名主の屋敷を後にした。
「行っちまったな」
「済みません、無愛想な人で…悪気はないんですよ」
さやかが取り成し顔でそう言った時。
「また!?」
聞き慣れたくない半鐘の音が響き渡った。
「やべ!さやかさん、俺先に行ってるから!」
言うなり鉄平は飛び出した。
「何か…米を取られないように俺たちが気張ってるから、鬼の来る間隔が狭まってる気がするんだよなあ…忙しいったらありゃしねえ」
そう口にしつつ走って行くと。
「ふはは!今度は俺が相手だ、『お遣いさま』とやら!」
そう高笑いしていたのは、鬼としてはやや小柄な黄色い肌の男だった。
「何だ、ちっちゃいな」
「ちっちゃい言うな!」
気にしているらしい。
「とにかく勝負だ!ついて来れるかな?」
にやりと笑った小男の姿が―ヴン!と音を立てて、かき消えた。
「なっ!?」
次の瞬間、鉄平の頭上にその姿は現れる。
「くっ!」
小刀を振り下ろしてくるのを―間一髪、受け止めた。
「俺は鷲王・兵吾!鬼の力により、僅かだが空中を駈けることができるようになったのだ!」
木立ちを蹴り、飛びかかってくる。
「く!三次元で襲ってくるのかよ!」
目まぐるしく跳躍し、縦横無尽に襲いかかってきた。
「く!ぐは…!」
金棒で受けるのが精一杯で、反撃どころではない。幸い、軽量級の故か斬撃の力はそんなに強くなく、深手は負っていない。しかし、このままでは押し切られそうだった。
「ハハッ!それそれ、踊りやがれ!」
「こん…の野郎…っ!」
ものすごく腹が立ったが、立つだけでは何にもならない。
(何とか、切り抜けないと…)
必死で頭を巡らせた…が、手の届かない所からの攻撃はさらに続いた。
「くっそー…」
「それそれ、いつまでそうしてる?」
パァン!
そこへ―銃声が響いた。
「ぎゃびっ!」
声を上げて、鷲王が落っこちてきた。
「そこだっ!」
鉄平の力任せの一撃が、彼を捕らえて吹き飛ばした。
「地上なら…こっちのもんだ!」
鉄平は大チャンスとばかりに金棒を構えて飛びかかる。
「ぎゃああっ!やーめーてーくーれー!」
さんざん殴られ、鷲王はほうほうの体で逃げ出した。
「ふう…助かったぜ」
「…大丈夫のようだな」
鉄平が金棒を置いて角を引っ込め、振り向くと猟師の幸兵衛が近づいてくるところだった。
「さっきのお客さん…あの銃声は、あんたか」
「見かねてな」
猟銃の口から、煙が一筋流れていた。
「あれが、鬼か…異様な動きをしていたんで、つい撃ってしまったが」
「助かったよ、ほんとに」
あの動きをしている鷲王を撃ち落としたのだから、大した腕である。
「何やら騒がしかったんで戻って来たが…本当に、大変な状況なんだな、この村は」
そこに、さやかや名主たちが駆けつけてきた。
「いつも本当に、頑張ってくださりますなあ、お遣いさま」
褒めたたえる名主に…幸兵衛が、近づいた。
「本当に困った事態なのは良くわかった。頑張れよ」
そう言って名主の手をぐっと握った。そのまま手を上げ、あらためて別れを告げる。
去っていく幸兵衛を見送って、名主は不思議そうな顔をしていた。
「どうしました、お父さま?」
「いや…幸兵衛さんが、私の手に何かを握りこんで残して行ったんだ。石かと思ったが軽いし、これは何かな…」
手を開いて、考えこんでいる。
「何でしょうこれ…里芋にしては毛がないし」
「どうしたんだ?」
鉄平がひょいとその物体を手に取り、何だと言う顔になった。
「あ、これじゃがいもじゃないか。うまいんだぜ、これ」
「本当ですか!?」
「うん。焼いても煮てもおいしいよ。それに確か、これを何個かに切って畑に植えると、それぞれから芽が出て芋がいっぱいできるんだってさ」
何で知っているのかわからない知識を口にする。
「じゃあ、これを育てて飢えをしのげってことなのか…」
「そういうことになるなあ」
うなずいた鉄平の視界の隅を、誰かが横切った。
「あれ、誰だろう」
十歳ぐらいの子どもが、じっとこちらを見つめていた。
「ああ、前にも見たなあ、あの子」
何度か見かけた気がする。何故か紹介はされていないが。
「妙に品があるんだよな…服も変わってるし」
などと呟いているうちに、子どもは駆け去ったのか姿を消していた。
「あ…れ?」
さっき一瞬、子どもの背中を通して向こうの木が見えたような気がしたが…気のせいだと思うことにした。怖すぎる。
畑の片隅に、小さな区画を作ってもらった。
「ここに植えていくんだ」
「うまく行くんだべか…」
おまきは半信半疑だが。
「とにかく、やってみようぜ。幸兵衛さんの気持ち、無駄にしないでさ」
小さく切った芋を、植えこんだ。
「これで、食べられる物が増えるといいけどな」
「育ててみましょう、鉄平さん」
さやかがにっこり笑った。
第六の章 地蔵と鬼女と少年と
みーん、みーん、みーん…。
蝉の鳴き声がやかましい。
「もう、夏ですね…」
「そうだよな夏だよな…稲もどんどん伸びてるし」
空には太陽がぎらぎら輝いている。鉄平とさやかは、名主の家の縁側で涼んでいた。
「でも…結構、涼しいんだよな俺としては」
「涼しい!?暑いですよ、絶対」
巫女服のせいもあるだろうが、さやかは暑そうだ。
「そうかなあ…夏はもっと暑くて参ってた気が」
「お遣いさまさがいた所は、もっと暑かったんけ」
おまきが冷たい井戸水を持って来て聞いた。
「うん、もっと暑くて…外とか出歩けなかったような」
「そんなに暑いんですか?でも、家の中も暑そうですね」
「いや、部屋にはクーラーがあって…」
「倉があるんですか?かえって暑そうですね、それって」
「い、いや、倉じゃなくて…って、俺も『クーラー』がどんなものか思い出せないんだよな」
ひょいと口をついて出てしまうから困るのである。
「参ったな…」
そこへ。
「鬼だ!鬼が来たぞ!」
村人たちが、神社の方へそう叫びながら走ってくる。
「やばい!みんなも早く行って!」
一同、大騒ぎしながら隣の神社に避難した。
ところが。
「おい、利吉たちがいないぞ!どうした!?」
「そう言えば、虫捕りに行くとか言ってたけど…」
「もしかして戻れないぐらい遠くに出かけてる!?」
子どもたち三人がいないことに気づき、全員真っ青になった。
「俺、捜しに行ってくる!みんなはここにいてくれ!」
「わたしも捜します!手分けして動きましょうっ」
鉄平とさやかは大慌てで神社の敷地を飛び出した。うなずき合い、それぞれに走り出す。
その頃。
「半鐘が鳴ってるよう!鬼が襲って来てるんだ!」
利吉たち三人は、大急ぎであぜ道を走っていた。このあたりはほぼ平らなので、どこからでも丸見えである。
「おい!チビたちがいるぞ!」
「人質にでもしたら、泣いて米でもよこすかな…へっへっへ」
鬼たちがあっさり気づき、にやにやしながらこちらに駆け寄った。
「やだーっ!みんな、逃げるぞ!」
くるっと後ろを向いて逃げるが、リーチの差で追いつかれそうになる―その時。
「この子たちに手を出すな!」
誰かが、子どもたちと鬼の間に割りこんだ。
「また邪魔するか、貴様…!」
鉄平だった。背を向けたまま、叫ぶ。
「あそこのお地蔵さまのほこらまで、逃げろ!」
「お遣いさまの兄ちゃん!」
「急げ!俺が防いでる間に!」
「ありがとう!」
三人組がわっと逃げ出すのを確認して。
「好き勝手させる訳に行くか…よ!」
鉄平は、力を解き放った。絆創膏を突き破って角が伸びる。
「こいつ!」
一方、子どもたちは。
「もう少しだ、走れ!」
何とか、お地蔵さまの立つほこらまでたどり着いた。転がるように駆けこむ。
「このガキども!出てこい!」
鬼たちがわめくが、近くには寄って来ない。
金棒を振り上げる者もいたが、危うい所で結界に引っかかるらしく腕を振り下ろさなかった。不可視の結界が、ばちっと光る。
「怖いよう…」
「泣くな。絶対兄ちゃんが助けてくれる!」
「でも駄目だったら…?」
「大丈夫だって。兄ちゃんはお遣いさまなんだぞ!絶対来てくれる…だから元気出そうぜ、みんな!」
利吉が必死に二人を励ます中…鬼たちを追い散らしながら、鉄平がほこら近くまで移動していた。
「どけどけ!好きにはさせないって言っただろ!」
「やった!がんばって、兄ちゃん!」
歓声を上げる利吉の視界を…鉄平の顔が、ちらりとかすめた。
「あれ…?」
何か違和感を覚える利吉だったが、一瞬のことで良く見えなかったのも確かだった。
とにかく、鉄平に追われて鬼たちはほこらから離れる。やっとのことで当面の恐怖が去り、子どもたちはほっと息をついた。
「兄ちゃんが鬼たちを村の外まで追い出してくれるまで…ここでじっとしてようぜ」
怖くてまだ外には出られない。
鉄平はとにかく、ほこらに鬼たちが近づかないように彼らを追い立てて行った。
金棒をぶんぶん振り回し、何とかほこらから引き離すことに成功する。
しかし。
「もうガキどもにかまうな!家探しして食べ物を奪え。こいつの相手は俺がする!」
一同を制して、一際背の高い赤鬼が前に出て鉄平と相対した。
「お前…鬼武とか言ったっけ」
「鬼武・喜兵衛だ」
二人で睨み合うその脇を…他の鬼たちが駆け抜けて村に入りこんでいく。
「あ、こら、待て!ハチ、クマ…頼む!」
犬たちが駆けつけてきてわんわん吠えるが…数的にかなわない。
「くっそー、また米持ってかれちまうのかよ」
「よそ見するなよ?お前の相手は俺だ」
鬼武が牙のある口でにやりと笑った。
「うう…」
何とか止めたいが、目の前のこの男を無視する訳に行かないのもわかっていた。
「ちくしょー!何としてもお前だけはぶっ倒す!」
腹立ち紛れにわめき、金棒を振るう。鬼武も負けじと金棒で応戦した。何度か打ち合い…ぱっと離れる。
「やるな、お前…」
「そっちもな」
鬼数人分は一度に相手ができると密かに感じている鉄平だったが、その自分と互角の強さと見た。
「負けられねえんだ、こっちはなっ!」
それでもめげずにまたぶつかり合おうとした、が。
『待ちや!』
ぞっとするほど美しい―女性の声が響いた。
「へ!?」
「うっ…」
鬼武・喜兵衛の二本角から、紅くきらめくもやが噴き上がった。
もやは渦を巻き…その中に、長く美しい黒髪の女性の姿が浮かび上がる。
「紅花さま!?」
「べに…ばな?」
それが、この圧倒的な気配の主なのか。
『何をぐずぐずしておるのじゃ!早くこやつを蹴散らせ!』
「し、しかし、こいつはかなり強く…」
鬼武が抗弁するが、一切意に介さぬ様子である。
(この女の人が…)
彼の反応から考えてみると。
(鬼たちの首領なのか?)
にわかには信じがたいが…どうも、そうらしい。
『ええい、妾が力を貸す!このうつけ者を倒すのじゃ!』
ごうっ、と―
鬼武の金棒に、炎が絡みついた。
『さあ!この力をもって倒すのじゃ!』
どういう仕組みか、炎は柄の部分には巻きつかず、熱くて取り落とすようなことにはならないらしい。
「お前には恨みはないが、これも仕事だ…覚悟しろ」
言って鬼武・喜兵衛は構えた。
「やるしかない、か…」
正直ものすごくやりたくないが。
「熱ちちちちっ!くっそー…」
数合打ち合って、あちこち火傷した鉄平がうめいた。
力は互角だが、炎をまとった金棒を受け続けるのはきつい。
「分が悪いな、これ…」
『さあ!妾が手を貸してやる故、倒すがよい!』
「承知!」
鬼武が金棒をぶん!と振ると。
「うわあああ!ずるいぜ、それっ!」
炎の雨が凄まじい勢いで降り注いだ。
「畜生、何もできない…」
「卑怯かもしれぬが…俺たちに歯向うのが不運だと思え」
ぼそりと呟き、彼は改めて金棒を構えた。
『ほほほ!もう少しじゃ、押し切れ…うっ!?』
哄笑していた女性の声音が…ひび割れた。
『ええい清浄なる気配が近づいてくるわ!不快じゃ、妾は帰る…』
「紅花さま!?」
『鬼武・喜兵衛、後は任せたぞ!』
声を残して、紅いもやは噴き上がり…北へと飛び去って行った。
「あ!ちょっと待ってくだされ、首領!紅花さまーっ!」
もやが失せるのと同時に、鬼武の金棒から炎はきれいさっぱり消えていた。
「紅花さま!首領…全く、あの女性は…!」
思わずうめく赤鬼である。
「まだ、やる気か?おい」
あまりに肩を落としているので、攻撃するのも忘れて鉄平は声をかけてしまった。
「いや、いい。疲れた、もう帰る…」
他の鬼たちも、戻って来ていた。
「帰るぞ!皆の衆」
鬼武・喜兵衛は飛び下がり、鉄平に背を向けた。
「いずれ、決着をつけるぞ…お遣いさま、とやら」
言い捨てて歩み去るのをどうしようもなく見送った。追おうにも、身体があちこち火傷で悲鳴を上げていては仕方ない。
「ああ!いずれ、な…」
そう呼びかけるのが精一杯だった。
「鉄平さん!鉄平さん!大丈夫ですか!?」
さやかが駆け寄って来た。
「あ、ああ…何か、さやかさんに助けられたみたいだな」
「清浄な気配」というのが彼女のことだろうと、感じた。
「兄ちゃん!」
利吉たちもほこらから出てきて…いきなり、鉄平の鼻を引っ張った。
「痛て、痛ててっ!」
「おかしいなあ…」
鼻をこねくりながら、利吉は首を傾げている。
「さっきはもっと、とんがってた気がするんだよー」
「いいから手を放してくれー!」
ふがふがと叫ぶ鉄平であった。
そこへ、母親たちが飛び出してくる。
「利吉!」
「杉作!」
「「「か…母ちゃーん!」」」
緊張の糸が切れ、子どもたちは親にすがりついて泣き出した。
村人たちも境内から出てきて、色々とチェック…いや、検分をはじめた。
「米は大丈夫か?」
「少し取られてるなあ」
米俵が丸ごと無くなっていた。
「でも、利吉たちは無事だったから…仕方ないか」
一人と二頭しか戦えない以上、どうしても手が回らず…米だのヒエだのを奪って行くのは止めようがなかった。
「米は襲われたって悲鳴は上げないもんなあ」
助けを求められれば駆けつけて守れるのだが。
「最近はお遣いさまが守ってくれるから、安心して米とかを出していたのが裏目に出てしまったのう」
「済まない。利吉たちを助けるのに、気を取られてた…」
「いや、それでいいんだよお遣いさま。みんな無事ならそれが一番だあ」
そう言ってもらえると、少し楽になった。
その夜、名主と神主、さやかがいる前で鉄平は話を切り出した。
「あいつらの首領、紅花って言うらしいけど…何か知らないかな」
「紅花!?そう…行っていたのか!?」
大人二人は顔を見合わせた。
「何か知っているんですか?お父さまたちは」
「ああ。古い言い伝えだが…」
「今から…八百年ほど昔の話になるが、その頃ここからは北の方角にある水無瀬の里に、紅花と言う鬼女がいたという伝説がありましてな」
神主はぽつりぽつりと語り出した。
「元々は、栄華を求めて都に上った、ずば抜けた美女であったと言います。琴の名手であったと…その琴の素晴らしさによって見出され、高貴な武将の側室となり、子を身籠ったというのだが…その武将の奥方を呪い殺そうとしたのがばれて、辺境のこの地に流罪になったのだといいます」
「呪い殺そうとしたって…」
「まあ、全ては謀略だったという説もあるけどな。寵愛が側室の方に行ってしまって、奥方が『呪われた』って言いがかりをつけて追放したのだと」
「あー、そんな話聞いたことがあるなあ」
「とにかく、流されて水無瀬の里にたどり着いた彼女は、高貴な女性として里の人々に温かく迎えられ、都の文化を伝えたりもして…そこで子どもも産んで暮らしていたのだと」
それだけならいい話なのだが。
「しかし、その子どもが成長するにつれ、彼女は都に戻ってその子を一目父親に会わせたい、できることなら出世させたいと願うようになったといいます」
「それは…当り前の願いに思えますけど」
さやかが首を傾げた。
「そうかもしれない…だが、やり方を間違えた。…少なくとも、そう伝わっている」
「間違えた…?」
「都に戻るための財を求めて配下を集め、宝を奪い女をさらい…世を騒がす鬼女となり果てたのだといいます」
「今この村がされていることに、似てるなあ」
「あまりのことに都もついに討伐の軍を出したのだという。鬼女の軍は炎や雷で反撃したが、ついに討ち果たされたのだと聞いています」
「何か、哀れですね…」
「子どもを幸せにしてやりたかったんだろうなあ」
「後になって、魔王の申し子だとか妖術を使って都に上ったとか色々言われているが、どうだったのかは今じゃわからんな」
後付けの噂なのかもしれない。
「また彼女は、古き神を斎き祀る巫女であったと語り伝えられている。今の巫女とは全く異なる、より原初の神を奉じた巫女であったと」
「わたしと全く違う、巫女…」
「今の巫女のように清浄さを重んじるのではなく、よりその…産み出す力、母としての霊性を重んじた巫女であったといいます」
「う、産み出す力!?そんな、恥ずかしい…」
さやかが真っ赤になった。
「まあ、さやかならそう言うだろうな」
名主が苦笑した。
「とにかく、そういう女性であったといいます」
「へー、子どもがいる巫女さんなんだ…でも、その子どもってどうなったんだ?」
「さあ…それは、考えてもみませんでしたなあ」
鉄平の問いに、神主は意表を突かれた、と言う顔で答えた。
「その鬼女が、今になって復活したっていうのか…?」
「討ち果たして、供養もしたはずなのだが」
「不完全だったとかなのかな…」
それは、今の時点ではわかりようがなかった。
「多分だけど、鬼たちはその紅花って鬼女の手下なんだろうな。何百年も経ってるのにどうして今復活したのかはわからないけど」
これから、解明していかないといけないことが沢山ありそうだった。
「じゃあ、これだけ里に運んでくれ」
そんな頃、鬼武・喜兵衛ら鬼たちは奪った米俵を大女の鬼に託していた。
「わかったわいね。ちゃんと届けるでよう」
米俵を、一人でひょいと担ぎ上げた。
『すまぬ。おまん・おちか…過去を悔い、仏道に入ったはずのそなたまで、妾は引き戻してしまった』
「いいんだわね、紅花さま」
おまん・おちかと呼ばれた鬼は、鏡の上に浮かび上がる済まなさそうな鬼女に笑いかけた。
「仏道に入ったのも、あなたさまがもう甦らないと思ったがため…甦ったのだったら、戻るのになんのためらいもないさねえ」
米を担ぎ、走り出した。
第七の章 寺と少女と少年と
「うわー、村を出るのってはじめてだな」
「そうですよね、鉄平さんは」
鉄平とさやかの二人は、村を出て街道を歩いていた。境川を渡し船で越え、てくてく歩いて街中に入る。
「ここが水内の里です。この辺では一番大きな街ですよ」
「こんな大勢の人、久しぶりに見たなあ…」
そう、それは鉄平としてもにぎやかに感じる街で、人々がせわしなく行き交っていた。
「たまにはこんな息抜きもいいですよね」
「うーん…鬼が米を盗ってったから、俺が休めるっていうのも情けないけど」
「でも、しばらく来ないだろうって見当はつきますよね、確かに」
皮肉な話だが、その通りだった。
「利吉たちを助けたから、その点では『勝ち』と言えるんだが」
米をかなり盗られてしまったのはやはり困る。
「その、ねぎらいと慰めの意味があるのかもしれませんね、わたしたちを村の外に出してくれるというのは」
街の中心部に入ると、宿屋やら茶店やらで賑わっていた。
「あの門をくぐると良光寺です。後でお参りに行きましょうね」
さやかはかなりはしゃいだ様子だ。
服装も、村の外でも巫女さんではおかしいだろうと言うことで、可愛らしい撫子色の小袖を着ている。髪もいつもは垂らしているが、今日はきっちりと桃割に結いあげられていた。
(昨日、大騒ぎして結ってたもんなあ)
おまきと二人で、部屋にこもって夜中までワーワーバタバタと大騒ぎしていたのである。
「ど、どうですか。似合い…ませんか、やっぱり」
「い、いや…新鮮だなーと」
「そこでどもらないでくださいよう」
さやかは、ぷっと膨れてみせた。
(ち、違う!動揺してどもっただけで…)
褒めるつもりがない訳じゃないんだ…と言いたいのだが。
「さ、行きましょう鉄平さん」
何とか言い訳しようと言葉を捜しているうちに、さっさと先に行かれてしまった。
「お土産に七味唐辛子買いましょうね。名物なんで…ああ、ここのお寺では本当はおこもりするのがお勧めなんですが、明日の朝までこっちにいるってのはさすがに…」
「まーな、村を出してもらってるのって、すごく大変なことだよなあ」
鬼が来たら困るのは自分たちなのに、あえて鉄平たちに息抜きをさせている…その好意は、痛いほどにわかっていた。
「今日だけ!今日だけは楽しもうな、さやかさん」
「ええ」
さやかは小袖姿が嬉しいらしく、ちょっと頬を染めて照れている。いつもは村を守る巫女として気を張っている彼女なので、こんな形で息抜きができて楽しいのだ。
(これって…デート、なのかな。名主さんたちはそんなつもりじゃないだろうけど)
ただ、大変な思いをしている二人を遊びに行かせただけで。
(でも、俺としてはデート気分で願ったり叶ったりなんだよなあ)
思わずにやにやしてしまう。
「何ですか、変な顔して。こっちですよ、こっち…きゃ!」
小袖姿は歩きにくいらしく、ちょっとよろめいたので鉄平がさっと支えた。
「あ、済みません…とにかく、こっちが良光寺です」
裾を気にしながら、さやかは雑踏の中に入って行った。
「川の中州村は大変なのに、ここは賑わってるなあ…」
「このお寺の霊力があまりに強くて、鬼が入って来れないんですよ。お寺の力を回りの鎮守三社が増幅しているらしくて…境川のこっち側は、ほぼ結界の中に入っていますね」
「それで平和なのか…ちょっと、うらやましいなあ」
「うちの神社の力じゃ、境内を守るのが精一杯ですもんね」
だから鬼は中洲村を襲うのだろう。
門をくぐって寺の境内に入ると、また一段と行き交う人が多かった。
「うわ、あんなでっかい建物久しぶりに見た…」
良光寺の本堂の大きさに、つい声が出てしまう。
「東国では一、二を争う大きさですから。ここでは、神社より名主より、このお寺の権力が大きいんです。この盆地の中で逆らえる人はいません」
「すごいんだなー」
周りにはずらりと屋台が立ち並び、食べ物やらお土産やらが売られて人々が大騒ぎしている。
「すごいな、毎日こうなのか?お祭りの日みたいだ」
「お寺に火が燃え移ったりしないように、ここは家を建てちゃいけないことになってるんですよ。だから屋台ばっかりなんです」
「はー…」
おのぼりさん丸出しで感心するしかない。
「お数珠頂戴もしたいけど…あれは貫主さまか尼公上人さまがここを歩かないとしていただけませんしね。時間がそんなにある訳じゃないし、今日は止めときましょう」
「貫主?尼公上人?それって…何だ?」
「この良光寺を治める二つのお寺、勧進院と本願院の長です。このお寺自体には決まった宗派はないんですが、運営は二つのお寺でやっていまして」
このあたりに住む人々にとっては常識らしい。
「にしても、巫女さんなのにお寺にも詳しいんだなあ、さやかさんは」
「ここのご本尊は、うちの神社の神さまに姿を変えたとも言われていまして」
関係がなくもないらしい。
「さ、お参りしましょう…あら?」
本堂に向かって歩き出そうとしたさやかの足が、止まった。
「どうしたんだ?」
「あの人…」
そこには、いかにも回り全てが珍しいと言った風情できょろきょろする侍姿の若者がいた。
「でも、どう見ても女の子ですよね、あの人」
その男装の少女は、楽しげに屋台を見て回っている。その足が、可愛らしい小物を売る店で止まった。
「これ、いくらなんだ?」
その品物の愛らしさに似合わぬ太った中年の商人は、笑いながら示されたかんざしをつまみ上げた。
「ああ、これか。うちの娘が丹精込めて作った品でなあ」
「ふーん、そうなのか」
「だから娘に美味しいものをたべさせたくてなあ」
「そ、そうだよな。元気にしていてほしいよな…」
少女は釣りこまれてうんうんとうなずく。
「このかんざしは…粒金一つ分の値がするなあ」
「そ、そうなのか?ちょっと待ってくれ」
彼女はふところを探りはじめた。
「ぼったくりですね…」
「あ、そうなんだ」
「わたしにもわかりますよ。法外です、あの値段」
さやかは、きっぱりと言った。
「そっか…」
「粒金一つだな?じゃこれで」
ようやく取り出した巾着を少女はほどきかける―のを、鉄平はごく軽く押さえる。
「じゃ、お勘定…わっ」
もう一方の手で、商人の差し出した手を掴んでひねり上げた。
「な、何しやがる!?」
「ぼったくりも、いい加減にしろよ?」
力をこめて―このぐらいは、絆創膏を破らない程度に角を出せばできる―言うと、商人の顔が赤黒く染まった。
「え、ぼったくり…って?」
きょとんとする少女の前で、ひょいと手を放すと男はどすん、と転がった。
「畜生、覚えてろよ!」
紋切り型の捨て台詞を残して、商人は慌てて荷物をまとめ、帰って行った。
「ぼったくられるところだったんだぞ。気をつけろよ」
「あ…ああ。助けてくれたんだ…ありがとう」
男装の少女は、ようやくにっこりと笑った。
(うわ、可愛いな…この子)
男装しているせいか、やけにまぶしく感じる。血色がよく、弾けるような笑顔に良く映っていた。
「またでれでれして…」
さやかが鉄平の腕を思いっきりつねった。
「痛て、痛ててっ!」
「お二人は、逢引きの途中のようだな。お邪魔かな、あたしは」
「あ、逢引きなんてそんな…」
さやかが真っ赤になった。
「い!?いや、デートですよ、デート」
「出戸はよくわからんが…男女二人で連れ立って歩くのは、世間では『逢引き』というのではないのか?」
「つまり…『出戸』って『逢引き』のことですか!?そ、そんなこと恥ずかしくてできません!」
「い、いや!今日のことは名主さんだって認めてるし!『公認デート』はあっても『公認逢引き』ってないし…意味が少し違うって!」
慌てて言い訳に走る鉄平を見て、少女はくすっと笑った。
「仲良しだな、二人は」
「いえ、そういう訳じゃなくて…」
「そうそう、そうなんだよっ」
「とにかく逢引きじゃないですから…良かったら、三人で歩きませんか?」
二人きりでは、あらぬ疑いをかけられると思ったらしく、さやかは少女を誘った。
「いいのか?悪いな、あたしとしては嬉しいが」
楽しそうに答える。
(二人っきりじゃなくなったけど…こういうの、『両手に花』って言うのかなあ)
そんな馬鹿なことを考えてしまう鉄平だった。
「この川は、昔このお寺の境内を流れていたんですよ。たびたび氾濫を起こすので、最近川筋を変えて裏を流れるようにしたんですよね」
夕暮れ、良光寺の裏手で、さやかがそう説明していた。
結局三人で寺にお参りしたり、お戒壇巡りをしたり…屋台を冷やかしたりして遊び回ったのだ。
「でも、面白いな。この寺、門はあるけど扉ってもんがついてないんだな」
「本堂にはありますけど…境内は基本的に一日中出入り自由ですからね」
「本当に普通の人々のために開かれたんだな」
「誰でも入れますもんね、ほとんどの場所に」
「大雑把みたいな感じもするなあ」
「ここの仏さまは、開祖の背中に飛びついて『運べ』って言ったらしいですからねえ」
「結構ファンキーな仏さまだな、それって」
そんな話をしながら、そぞろ歩いた。
「はー、楽しかったな。蕎麦美味かったし」
「そうですよね。たまに、こんな日もいいですよねー」
「うん。あたしも、実に楽しかったぞ」
若侍姿の少女がにっこり笑ってそう言った―が、その笑顔が固まる。
「お前たち…」
その視線の先には、数人の武士がいた。
「早く、お戻りを」
先頭に立つのっぽで面長の若侍が、声をかけてきた。
「どうしても帰らないと駄目か?修理」
「戻るようにとの、お達しです」
「あたしは、父上のためにならないことは、してないぞ」
「それでも、今はお戻りをとのことです」
「…そうか」
少女は鉄平たちの方を向き、微笑んだ。
「済まない。あたしはもう帰らないといけなくなった。楽しかったぞ、お二人さん。また会おう」
それだけ言って、少女は、武士たちに連れられて去って行った。
「あーあ、行っちゃいましたね…わたしたちも、帰りますか」
「…うん」
三人でいる時、本当に楽しそうだった少女は、気になるが。
「帰ろう、さやかさん。ぐずぐずしていて鬼が来たらやりきれないし」
幸い、何も起こらずに無事帰りつけた。夕飯を名主の家で摂る。
「今回は駄目でしたけど…鉄平さんのおかげで、被害がだいぶ少なくなりましたね」
「うー、でもやっぱり少しは盗られてるなあ…ハチやクマも良くやってくれてるけど。もっと人手があるといいんだけどなあ」
「でも、並みの人じゃ太刀打ちできませんし」
「だけど、あいつら斬られりゃ痛がるし…いないよりはいいかな、と」
「武士の手勢がいればいいんですけどね」
「確かに、お遣いさまだけに守りを頼むのも問題があるなあ。…ここは一つ、お代官さまに頼んでみるか。手勢を回してくださるように」
名主が考えこんでから、そう呟いた。
「お代官さま!?そんな人がいるなら、もっと早く頼みたかったなあ」
「そうそう頼める方ではないんだ、お遣いさま。しかし、お願いするのは一つの方法かもしれないな。お遣いさまもさやかも、ついて来てくれ」
名主は覚悟を決めたようだった。
代官屋敷は、村を一つ通った先の境川沿いにあった。立派な造りの、いかにも武家屋敷と言った風情の建物だ。
広間の下座に案内され、しばらく待つ。
「お代官さまか…」
何か悪いことばっかりしてそうな印象があるのは何故だろう。
「ここは海津の家中の領地で、ここのお代官さまが年貢の取り立てをやってるんです。失礼のないようにお願いしますね」
「領地だって言うんなら、もっと早く手助けしてくれてもいいのにさ」
そこに、声がかかった。
「お代官さまのおなーりー」
「鉄平さん!頭下げてください、頭!」
さやかが手を伸ばして、鉄平の頭を押し下げた。
その間に上座に人が座る。
「聞き及んでおる。鬼に襲われている件だな」
やや甲高い男性の声が、響いてきた。
「聞いてるなら助けてくれてもいいじゃんよー」
「しっ!」
思わず言い返しそうになった鉄平を、さやかの囁きが制した。
そんな中、名主が声を上げた。
「お願いでございます、お代官さま。村を守ってくだされ…お侍さまたちを村に回してくだされ。この通りにございます」
深々と頭を下げて、頼みこんだ。
「そ、それは…それがしの一存では難しい…」
「何ででしょうか!?我々とて、お代官さまの治める領民の一部!それが襲われているのですから、守っていただくのが道理と考えまする!お願いにございます…!」
「今のところ、襲われているのは川の中洲村だけだ」
言いにくそうに、代官は続ける。
「だから、お主らの村が耐えている限り、他の村が襲われることはないと…」
「我々の村に、犠牲に…生け贄になれとなっていろということですか、それは!?」
「ひどすぎますよ、それ!」
さやかが思わず声を上げた。
「そうは言っても…それが、『上』の判断と言うものだ。お主らも責任ある立場になれば、わかるはずだ…察してくれ」
「ですが!」
「下手に刺激して、他の村に被害が出ては困るのだ。仕方ない…」
「…しかし!」
「…もういいよ、代官さん」
「!?」
鉄平が顔を上げて、代官の顔をまっすぐ見ていた。
「ちょ、ちょっと、鉄平さん…」
「もういい!俺たちの村だ、俺たちが絶対守る!」
指をつきつけて吼え猛った。
「手なんて借りない!守り抜いてみせる…!」
「あんなの、おかしいぜ。ほんとにひどい…」
帰りながら、鉄平はまだおさまらなかった。
「落ちついてください、鉄平さん」
「あれで本当に良かったんだろうか…」
名主はさすがに不安そうだ。頼みに行った挙句、腹を立てて無礼を働いたことになるのだから当然だが。
「俺ががんばるよ。みんなを守る…あんなことを言ったんだからがんばらばないとな。全力で守り切ってみせるよ」
大見得を切ったのだから、やってみせる…そう、決めた。
第八の章 稲といいなずけと少年と
「今日も一日中、田んぼの草取りだ、俺たちは」
「そんなに生えてくるものなのか…」
「稲にとって育ちやすい場所は、他の草も生えやすいんでな」
そう言い捨てて、与吾郎たちは田んぼに向かった。
「お前が鬼と戦うように、俺たちも一粒でも多くの米を収穫するために、戦っているんだ」
「そうか…」
「誰も褒めてくれない、戦いだけどな」
それでも、力の限りやる戦いなのだ。
「稲を育てるのって…大変なことなんだな」
知らなかった訳ではないが…こんなに大変だとは、思わなかった。
「大変だが…俺たちは、誇りを持ってやっているんだ」
「これでいなごでも襲ってきたら、今までの苦労が水の泡になるけどな…まあ、実ってから鬼が奪って行っても、水の泡になるのは変わらないんだが」
「それは…!」
鬼に奪われるカウントダウンをしながら、情熱を注いで稲を育てているのだ。
「それでも、やるんだ」
それは農民の誇りと言うものであろう。
「昔俺のいた所では…稲作ってもっと楽だった気がするよ。…薬とか使って草を生えなくしたり、色々やってた気がするんだ」
「そうか…こんなに大変じゃないんだ。ちょっと羨ましいな」
与吾郎は少し笑って、田んぼに踏み込んだ。それを、鉄平はただ見送ることしかできなかった。
「…俺も、畑仕事とか手伝った方がいいのかなあ」
夕飯時、鉄平はそんなことを相談していた。
「それはお遣いさまさの仕事じゃねえべ」
膳を運びながら、おまきが単純明快に切り捨てた。
「それはそうだけど…何か鬼が来ない時は遊んでるみたいでさ」
「そうは言っても…いきなり手伝っても慣れない間は役に立ちませんし」
「そうだよなあ…」
がっくりした所に、名主が手紙(書状かな)を手に居間に入って来た。
「おお、さやか。和吉さんが訪ねて来るそうだ」
「え!?和吉さんが…?」
さやかはぽっと赤くなり、もじもじと座布団の端をいじくりだした。
「…『和吉さん』って、一体どういう人なんだ…?」
鉄平はこそっとおまきに聞いてみた。
「前に話した、さやかお嬢さまのいいなずけだあよ」
「あ!そうか、その人なのか…」
正直がっくりした。
その頃、鬼たちのキャンプ(?)では。
『どうなったのかえ?』
古びた銅鏡の前で、鬼武・喜兵衛が平伏していた。
「は。先日、少しは米を送れましたが…足りませんな」
『当然じゃ。…で、例の件はどうなっておる?』
ころりと口調を変えて、女性の声はそう聞いてきた。
「貴女さまの器となれる女性を捜せ、と言う件ですか」
『妾はお主の身体を通じて物を見たり、力を振るったりはできるが…完全に乗り移ることはできない。妾が十全に力を振るうには、妾を受け入れるに足る器が必要なのじゃ』
「春鬼も、他の娘たちも、駄目でしたな」
『妾を受け入れる器をもつ娘は、そうはおらぬ』
「あの小鬼を、依り代にできるのではないですか?」
『できるのじゃが…妾の力を十全に振るえぬのよ。相性が悪いのか…完全に復活するには、人間の娘が必要なのじゃ』
試してみて駄目なことがわかったらしい。
『とにかく、我が依り代に適した乙女を捜すのじゃ!必ず、どこかにいる…気配を感じるのじゃ』
声が荒れ狂った。
『もっと手広く捜せ!捜すのじゃ!』
「は、ははーっ!」
「えへへ、少しはきれいにしとかないと…巫女服はどうしようもないですけど」
わくわくした表情で、さやかは黒髪を櫛でとかしていた。
「むー…」
鉄平はその情景を見て、落ちつかない。
「どうしました、鉄平さん?赤い顔して…熱でもあるんですか?」
気がつくと、さやかが鉄平の顔を覗きこんでいた。近くに…かなり近くに、彼女の顔がある。
息がかかりそうな距離に、美少女の顔が。
「う、う…」
「う?」
「うわあ…あああああ!」
我慢できなくなり、鉄平は真っ赤っかになりながら部屋を飛び出した。そのまま屋敷を飛び出し、駆けて行く。
「うわあああ…」
「さやかさん…無防備すぎるんだよ」
千隈川の土手で、鉄平はハチとクマに囲まれてぼーっと呟いていた。
「男として、困るよ…あれは」
一つ屋根で寝起きしているせいだろうか。
「それに…すごく嬉しそうにおめかししてたなあ…『和吉さん』って人、おまきちゃんはいいなずけ同然だって言ってたし」
正直もやもやとしている。
さやかが優しくしてくれるから、何となく自分の彼女のように感じていたが、そう言う訳ではないのだ。…そのことを思い知らされた。
「あうう…」
がっくりしてハチの首を抱えこむと、毛皮に顔をうずめた。二頭は落ちこんでいることに気づいてか、ぺろぺろ顔をなめる。
「うう…前から思ってたけど、俺さやかさんに『男』として見られてないかもしんないなー。なーっなーっ」
甘えてくるクマの顔を、むにーっと広げてみたりして。
「うう、こんなこと言えるのお前たちだけだよ…」
まあ自分は、いろんな意味で「ここの一般的な男子」とは違う訳だが。
「でも…やっぱり、普通の男子なんだよう」
女の子に好かれたいのは変わらないのだ。
―と、村の中心のあたりが騒がしくなったのに気づいた。
「その人が…着いたのかな」
物見高い訳ではないが…ちらっとでも見ずには、いられなかった。
名主の屋敷前で、さやかと対面していたのは。
「…あいつが、さやかさんの…うー」
よく日焼けした、二十歳ぐらいの青年だった。
「和吉さん!よく、来てくれました…危ないのに」
「あなたに会うためなら大丈夫です。…でも、助けに来れなくてすみませんね」
「いえ、そちらにはそちらの都合があるの、わかってますから」
(あれがその『相手』か…)
覚悟していたつもりだが。
「あんなさわやかイケメンだったなんて~っ」
日に焼けてはいるが、十人が十人とも認めるであろう美男子だった。こぼれる白い歯がやたら眩しい。
「麺がどうしたっぺ、お遣いさまさ。蕎麦はないぞ」
「いや、そうじゃなくて…うー、とにかくあんないい男とは思ってなかったんだよ。もうどうすりゃいいのか…」
「まあ、いい男なのは認めるべ…ほんとに」
「あれ、おまきちゃんもしかして…」
「違うだ!ちょ、ちょっと憧れてるだけだあ」
おまきは突然動揺し、指つんつんとかはじめる。
「ふーん…そうなのかー。こりゃ意外だな、おまきちゃん」
「う、うるさいべ。お嬢さまの『お相手』に、おらがどうこうできる訳ないべさ。ただ気になるだけで…」
そんなことを囁き交わす間にも、さやかたちの話は続いていた。
「ほんとに久しぶりだね、さやかさん。元気だった?」
「ええ、大変ですけどとりあえず元気です…」
(近い!近い、この二人…近ーい!)
やきもきする鉄平には全く気づかずに、彼とさやかは寄り添って歩き回りながら熱心に話している。心なしか、彼女の目もいつもよりきらきらして見えた。
(こ、この距離…この距離が憎い!)
鉄平は声もかけられずにじたばたするしかない。
(いつも、さやかさんを助けてるの、俺なのに…)
そうは思うが、言えない。
(うう、言っちまうと俺、すごくかっこ悪くなりそうだ)
相手がさわやかなだけに余計そう思った。
嫌味な奴なら、張り合っていこうと思うのだが…どう考えても「いい奴」っぽくて毒気を抜かれる。
(さやかさん自身は、どう思っているのかなあ…)
そこに、またしても半鐘が打ち鳴らされた。
「鬼が、鬼が来たぞ!早く逃げろ!」
「ああ、まだ和吉さんたち帰ってないのに…」
さやかが呻くが、どうしようもない。
「さやかさん!その人についててやってくれ!」
鉄平は村を飛び出して行った。
「いえ、わたしも行きます!」
そう呼びかけて、さやかも駆け出そうとするが。
「さやかさん!」
和吉の悲痛な声に、動きが止まった。
「和吉さん…神社から、出ないでくださいね」
恐ろしいまでに真剣な顔でさやかに言われ、彼は絶句してしまう。
「しかし、さやかさん…私でも、何か力に」
「それは、鉄平さんがやることです」
「でもっ!」
「わたしも、できることをやるだけです…」
そう言い置いて、彼女は飛び出して行った。
「さやか…さ…」
声を上げるが、境内から出る勇気は…和吉には、出なかった。
鉄平が金棒のある地点まで駆けて行くと、そこに来ていたのは。
「お?お前一人か…」
そこにいたのは、鬼武・喜兵衛ただ一人だった。
「今回は、複数仲間がいると困るのでな…」
「俺をぶっ倒すためだけに来たのか?ご苦労なこった」
軽口を叩きながら二人は対峙した。
「では、行くぞ…ふん!」
鬼武が踏ん張って力むと、彼の二本角の上に光り輝く球体が出現した。それに力を吸い取られたように、本人はがくっと膝をつく。
「また、炎か…!?」
『違う!妾の真の力、見せてやろうぞ!』
女性の声が響き、光球はばちばち言いながらはるか上まで昇って…はじけた。
「雷!?」
稲妻の柱が地面に突き刺さり―空気がはじけて凄まじい音が一瞬遅れて来た。
「そうか、『紅花』は炎や雷を武器にしたって…」
「そこまで調べたか。これは面白い…!」
『妾の邪魔をする愚か者が…消し炭にしてくれるわ!』
また雷がほとばしった。反射的に横に跳ぶと、背後の藪に火がついて一気に燃え上がった。
「どひー!」
どう考えてもまともに食らいたくない。
『おのれ…もう一回じゃ、鬼武・喜兵衛!』
どうやら、鬼武を中継して力を行使しているらしい。彼の頭上にまた光球が生み出された。稲妻が放たれる。
バリバリバリバリ!
特大の雷が、鉄平の脳天を直撃した。
「うぎゃあああ!」
衝撃と苦痛が身体を貫く―が、その時ふっと頭の中がクリアになった。
「あ―あああっ!思い出した、高校の授業でやってたー!」
はっきりと、記憶が像を結んだ。
「そうだよ、金属の物身につけてた方が落雷から生還できるって言ってた…だから!」
どん!と金棒を地面に突き立て、身体を添わせた。
「な…何だと、そんなことって…!」
鬼武・喜兵衛が息を呑んだ。
そう、雷は間断なく落ちているのだが、主に金棒を流れているらしく鉄平には大したダメージが行かないのだ。
『雷が効かぬじゃと!?何としたこと…もうよい、妾は帰る!』
その声と共に雷が消えた。
「ああっ!ちょっと、また!紅花さまーっ!」
鬼武が叫ぶが、どうにもならない。
「やれやれ、行っちまったみたいだな…どうする?」
「…追わないでおいてくれるか。さすがにもう、お前とやり合う気にならない…」
肩を落として、鬼武・喜兵衛は帰って行った。
「鉄平さん!?」
さやかの声に振り向き、鉄平は満面の笑みを見せた。
「思い出した!思い出せたんだよ、昔のことを!」
「え!?」
「やっと思い出せたよ!俺はほんとは―あれ?」
そこまで言って、鉄平はきょとんとした顔になる。
「あれれ!?さっきまではっきり思い出せたのに、また俺忘れてる…」
「ええっ!そうなんですか…」
「うー、思い出せてたのにまた思い出せなくなるって気持ち悪いなあ。ほんとに!ほんとに思い出せてたのにっ」
地面をげしげし蹴って悔しがっている。
「頭に電撃食らって、回線が復旧したって感じだったのに…電気がなくなったらまた戻っちまった~っ!」
「『かいせん』…船ですか?」
さやかの頭には「北廻船」とかが浮かんだらしい。
「あの時は『わかった!』って思ったのになあ…悔しいー」
「…でも、思い出せたら…帰ってしまいますよね、故郷に」
さやかがぽそりと呟くが…鉄平は、聞いていなかった。
二人が神社に戻ってくると…ハチとクマがじゃれつき、続いて子どもたちが駆け寄って来た。
「あー、今日はあいつだけで助かったよな…」
犬たちの頭を撫でてやりながら歩いて行くと。
「…あれ?」
和吉が、さやかではなく…鉄平の方に近づいてきた。
「えーと、和吉…さん?」
「私は、弱い」
血を吐くような、叫びで…青年は、続ける。
「私には、何もできなかった…」
日に焼けた端正な顔が、辛そうにしかめられていた。
「悔しいが、この村を守れるのはあなたのようだ」
「え!?え、それはその…」
「…頼む。彼女を…さやかさんを守ってあげてくれ」
「やだなー、そんなこと言われなくたって…あ、いや。必ず、守るよ」
笑ってごまかそうとしたが…和吉のあまりに真剣な様子に、こちらも誠実に答えた。
「頼む」
それだけ言い、彼は離れて行った。
そんなことがあった、次の日。
鉄平とさやか、おまきの三人は畑に来ていた。
じゃがいもを植えた一区画には、もう青々と草が茂っている。
「これを、傷つけないように気をつけて掘ると…」
鉄平が慎重に土をかき分けると、淡い金色に輝く芋がいくつもいくつも転げ出た。
「わあ…」
思わず、さやかが声を上げる。
「少し試しに食べてみて…後は種芋にしてもっと殖やそうな」
「どれ、試しに料理してみようかね」
おまきが腕まくりをして、笑った。
第九の章 姫と天才と少年と
その朝、たまたま早くに目が覚めた鉄平は、うっすらと霧がかかった外に出てみることにした。
「おかしいな。夢では何もかも思い出せるのに…目が覚めると、きれいさっぱり忘れてるんだ」
頭をぼりぼりかきつつ、唸る。
ぶらぶら歩き、井戸の側に行くとばしゃん、という音が聞こえて来た。
「あれ?さやかさん!?」
見れば、さやかが井戸の水を汲んでは頭からかぶっている所だった。当然、水は冷水。
「あ、鉄平さん。おはようございます」
冷たいだろうに、平然と笑いながら声をかけて来た。
「な、何してる…んだ!?」
「お清めです。みそぎってことですよ、毎朝の」
「毎朝、水をかぶっているんだ…」
「きちんと清めないと、巫女として失格ですからね。大丈夫、慣れてるんでもう平気です。かえってやらないと気持ち悪くて」
「そ、そうなんだ…うわ」
ちょっと下を見て…鉄平は赤面した。
「どうしたんですか…ってあっ!」
濡れた白い小袖は微妙に透けて、胸元は…。
「な、何見てるんですか!ひどすぎます!」
ばっちーん。
彼の頬で、派手な音が鳴った。
「あんまりですよ…っ」
そのまま彼女は駈け去っていく。
「み、見たくて見た訳じゃ…ただ透けてたから…」
言い訳しようとしたが…記憶にくっきり刻まれた形の良い乳房と、頬にくっきりと刻まれた「紅葉」を思うと…しばらく無理っぽかった。
一緒に朝ご飯を食べながらも、さやかはまだ鉄平に声をかけようとしなかった。
そんな空気を知ってか知らずか。
「お遣いさまにさやか、今日は海津のお城に登ってくれないか」
名主がそんなことを言ってきた。
「殿さまが、二人に会ってみたいと仰せだそうだ」
「海津の殿さま…って、この辺を治めてるって人か」
「鬼から村を守っている二人に、ぜひ会ってみたいと言われているらしくてな」
「じゃあ、その殿さまに会った時に、手勢を回してくれるように頼んでみたらいいんじゃないか?」
「やめてくれ。直訴と見なされたら名主の首が飛ぶ」
言えばいいということではないらしい。
「とにかく登城してくれ、二人とも」
うなずいた鉄平は、箱膳を片づけてからさやかに近づいた。彼女は鉄平に目をやるが、すぐにぷいっと横を向く。
「ご、ごめん、さやかさん」
「……」
まだぷーっとふくれていた。
「ほんとにごめん!悪かった…だから一緒にお城に行こう、なっ」
「…わざとじゃないなら、いいですよ」
ややふくれ気味ではあったが、やっと彼女はそう呟いた。
千隈川を船で渡り、入った海津の町は小じんまりした城下町だった。しっかりした造りの家々が立ち並び、道の脇には清流がさらさらと流れている。子どもたちが遊び回る中を抜け、お城に着いた。
「これがお城か…結構小さいな」
やっぱり小じんまりした城で…鉄平が何となく想像していた「お城」より、かなり小さく感じた。
「そうですか?この平にある中では一番大きなお城ですけど」
門番に告げると、連絡が入っているらしくすぐに通された。城の本丸は御殿が今はないということで、少し離れた花の丸御殿と言う建物に行かされた。
廊下を通り、大広間に案内される。ずーっと遠くに上座があり、その反対側、今にも廊下に転げ落ちそうな位置に座らされた。
「喜べ。殿がお声をかけてくださるそうだ」
案内してくれた侍がそう言って去り、しばらく待たされた。
「とにかく失礼のないようにお願いしますね。この前のお代官さまより身分が上の方ですよ」
「でも、あの代官さんは兵力を回せないって言ってたし…それで治めてるの何のって言われても、どう対応していいかわかんねえよ」
「そんなこと言われても…このあたりはお殿さまの領地ですから、治めて年貢を取るのは当り前です」
それが、この地の常識なのか。
「ひどいな…一般の人を助けなくて、何が殿だよ」
「そんなものですかね?」
さやかは、きょとんとしている。
「あれ?何か変なこと言ったかな、俺…」
「殿さまと言えば、『生かさぬように殺さぬように』とか言って年貢を取り立てていくものかと」
それはそれでひどい評価だと思うが。
「殿のおなーりー」
そこに、声がかかった。見よう見まねで平伏していると、そのずっと向こうの席に誰かが座った気配があった。
「そちが『神さまのお遣い』か」
老人らしい、枯れてしわがれた声がはるか向こうから聞こえる。
「は、はい。そう…呼ばれていますです」
何とかかんとか、ぎこちなく返事をした。
「村を守ること、立派である。これからも励め」
それだけ言って、気配は去って行った。
「これにて謁見は終了だ。ご苦労だった」
「えー、これだけかよ。せっかく来たのに何なんだ」
大病院の診察並みに速かったが、文句を言ってもはじまらず…帰ろうと立ち上がった、が。
「あー、お前たち…珠姫さまがお呼びだ。行ってくれ」
案内してくれた侍が、そんなことを言ってきた。
「へ?珠姫さまって…」
聞いたこともない。
「とにかく、行ってくれ。姫さまは一度言い出したら聞かなくてな」
通されたのは、さっきの大広間ほど広くはないがかなり大きな、立派な造りの部屋だった。向こう側に御簾がかかっていてその先が見通せない。平伏して、しばらく待たされた。
「足痛い…」
「もう少しですよっ」
「姫さまのおなーりー」
声と共に、御簾の向こう側に誰かが座った気配があった。
「そなたたちが、鬼と戦っている者たちか」
声が響いてくる。
「は、はい…」
「この『声』は…」
返事をしようとした鉄平を遮って、さやかは進み出た。日頃の彼女からは考えられないほどの速さで前に出る。
「さやかさ…っ!」
制止も聞かばこそ、ずかずかと御簾に近づいて力任せにめくり上げた。「姫」の顔があらわになる。
「きゃ…っ!」
二人と同い年ぐらいの少女が、慌てて顔を隠した。
「やっぱりお八重ちゃんだわ!」
「お八重ちゃん!?」
「幼なじみです。お城に奉公に上がった…」
「ご、ごめんなさい!わたしは姫さまではありません…」
「影武者…ってのも変だけど、そうなんだ」
「はい…」
お八重はうなずいた。
そこへ、ひょいと襖を開け、入って来たのは。
「あ、もう来てたか。間に合うと思ったんだけどな」
そう言ってにやっと笑う、若侍の恰好をした少女だった。
「あーっ!この間良光寺で会った…」
「久しぶり…でもないか。あの時は楽しかったな、お二人さん」
良光寺でぼったくられそうになっていた、彼女だった。
「ひ、姫さま!良かった、わたしもうどうしようかと…」
お八重が泣きそうになって、その彼女にすがりついた。
「「姫さまって…!?」」
「はは。こうなるとは思ってたけどな」
少女はまたにやっと笑って、続けた。
「よ。あたしが、姫だ」
「珠姫って…あなたですか!?」
「じゃあ、あの時は…」
「うむ、お忍びで遊んでいたのだ」
「姫」はにっこり笑った。
「あの時は、修理も主計もまけて、うまく行ったと思ったんだがな。やっぱり世間のことに詳しくないの、わかるみたいだ」
(いや…世間知らずとかそういうことじゃないと思うけど…)
明らかに女の子とわかるのに男装していたら、それは目につくだろう。
「あたしもまだまだ見聞が足らんな。もっと出歩かないと」
「姫さまがお忍びで出かける度に、わたしが身代わりを務めるのですが…」
「結構自由な姫さんだなあ」
「お、落ちついてますねえ鉄平さん。もうわたし、こっそり失礼をしてたんじゃないかと心配で心配で」
さやかは、さすがに事の重大さに気づいていた。
「そう言われても…どうしていいかわかんねえし」
今一つぴんと来ていないと言うか。
「いいんだよ、かしこまらないで。普通にしててくれ」
「さばけた姫さんだなあ…」
正直姫っぽくない。
「すっげー可愛いのにー」
さやかが和風美少女なら、珠姫は…何か、自分の元いた所にいた少女のタイプに思えた。
「ボーイッシュって感じだよなあ」
「『棒椅子』って何ですか?」
「え、えーと…元気で可愛いって言うことだよ、うん」
時々、言葉が通じない。
「うう、言葉は出て来るんだけど、どうしてそういう言葉を知ってるのかさっぱり思い出せない…」
「大変ですねえ」
「あの後、手の者に調べさせて…二人が鬼と戦っていることを知ったんだ」
「それで、今回俺たちにまた会おうとしたんだな」
「会うつもりがあるのに、この恰好で外に出ようとして…困ったものです」
お八重が小声でつっこんだ。
「まあそう言うな。どうしても出かけたくなってな」
珠姫は笑い、声を張り上げた。
「修理。修理、いるか?」
すると、ばたばたと足音がして襖が開いた。背の高い若侍が顔を出す。
「学問中ですよ姫…全く困ったものですな」
「まあ、そう言うな。この二人は知ってるよな?」
「ああ、良光寺で助けてもらった方々ですな」
姫と臣下とは思えない、ざっくばらんなやりとりが交わされていた。
(こいつは…)
鉄平はあらためて、そんな会話をしている男を観察する。
大柄で色白、ちょっと日本人離れした顔立ちだ。小柄な鉄平としてはそれだけで少々むかつく。
「お前が、『お遣いさま』と呼ばれている男か」
視線に気づいたらしく、こっちを見て声をかけてきた。
「何だよ、人に聞く時には自分から名乗れよ」
「それはそうだな。佐久間修理だ」
やたら偉そうに名乗る。
「やがては日の本を背負って立つことになる男だぞ」
いらん情報まで付け加えた。
「修理は身分は低いが、とても頭が良くてな。ついこの前まで江府に遊学していたんだ。若手の期待の星だぞ」
「まだまだ身の丈に合いませんがな」
あくまで偉そうに、のっぽの男は答えた。
(こ、こいつ気に入らない…)
頭は良さそうだが、これを鼻にかける奴は嫌いだった。
「わあ、江府帰りなんですか。すごいですねえ」
さやかが目を輝かせて食いついたので、鉄平は正直動揺した。
「何だよ、偉そうに」
「だってわざわざ江府まで行って、勉強して帰って来たってことなんですよ。めったに許される人はいません」
「だろう。しかも殿さまのお金で行ったんだからな」
「うー…」
思い出せないのだが…何か昔も、こんな風に天才風だか秀才風だかを吹かせる嫌味な奴がいたような。
「私は江府で朱子学から洋学、砲学まで学んできたのだ。日の本広しと言えども、私ほどの知恵者はめったにいないぞ」
「いちいちプチ自慢ぶっこんでくるな、お前。…ってそれ何だよ、これ見よがしに」
彼は横文字のびっしり書かれた大判の本をめくっている。
「異国の本―百科事典だ。日の本に数冊しかないものだぞ」
いらん情報まで加えて話すのが困りものだが、こういう本を読みこなせるのは頭がいいということだろう。
(性格はすこぶるつきに悪いけどなー)
「だが、洋学のためにこんな高い本を買いこんだりして、『上』に睨まれてな。帰ってきたら人の一番嫌がる仕事を押しつけられたんだ。あたしの守り役…ぶっちゃけお守り役だな、を」
珠姫はさばさばと言ってのけた。
「自分で言わないでください姫…」
「要するに、微妙に迷惑がられている二人を、一緒にしているってことか?」
「う、うるさいっ。気にしていることをあらためて言うなっ」
図星だったらしい。
「姫…立場を考えてくださいよ。姫君なんですから」
「何だよ、姫、姫って。あたしはあたしだ」
ある意味新しい存在なのかもしれなかった。
「まあとにかく、お前たちのことは聞き及んでいる。大変だと思うが…がんばってほしい。今のあたしには、それしか言えなくてな」
「は、はい。ありがとうございます…」
謁見を終え、帰りながら。
「結局助けてくれとも言えなかったなあ」
名主から釘を刺されていたためでもあったが。
「でも、あの子が姫さんだったってのは、面白かったな。あの自慢たらたら男は気に入らんかったけど…」
「変わった骨相の人でしたね」
さやかも印象は強烈だったらしい。
「『海津の神童』って噂は、聞いてましたが」
「はー…そうなんだ」
そんな話をしながら、鉄平とさやかは村へと足を進めた。
「おかえりなされませ、さやかお嬢さま」
帰りつくと、おまきがおやきを作って待っていた。
「じゃがいもを刻んで、甘味噌つけておやきに入れてみたんだべ。食ってけれ」
焼き上がったおやきに二人で手を伸ばした。
「あ、おいしい…」
「また腕上げたなーおまきちゃん。じゃがいも料理のレパートリー、増えてきたなあ」
色々試しているのである。
「正直面白くなってきたべ。村の女子衆を集めて、教えてあげたいぐらいだべさ」
第十の章 尼さんと大砲と少年と
お城に行ってから数日後、鉄平とさやかが連れ立って村外れ、脇街道が通っているあたりに行くと。
「あれ、何だろう…?」
道端に、何やら黒っぽい服装の人間がうずくまっていた。
「大変!大丈夫ですか!?具合でも悪いんですか?」
「いえ…ちょっと草臥れて、休んでいただけです…」
さやかの問いに、かすれてはいたが少女の声で答えが返ってきた。良く見るとその「黒」は、袂の長い墨染の衣だった。
「お坊さん!?じゃなくて、庵主さんか…」
いわゆる尼さんである。
「旅の途中なのですが、疲れてしまって…」
鼻緒に、血がにじんでいた。
「長旅だったんですね」
「それにしちゃ色白だなー、ほんとに」
「とにかく村で休んでもらいましょう。鉄平さん、手を貸してください」
「わかった!おい、しっかり掴まってくれよ…」
二人がかりで、名主の屋敷まで連れて行った。
「本当にありがとうございます」
囲炉裏の側でお茶など飲みながら、尼さんの少女は丁寧に礼を言った。
「わたくしは良玉と申します。諸国をめぐって、今は良光寺に向かうべくここまで旅してきたのですが…おなかがすきました。ごはんを食べさせていただけないでしょうか」
きちんと正座し、一礼する姿にはどこか気品があった。
「わしらもかつかつだが…まあ困った時にはお互いさまだからな。おーい母さん、飯持って来てくれないか」
「はいはい、用意してますよー」
名主の声に、奥さんがお盆に麦飯を載せてやってくる。
「本当に何もないが…いただいてくださいな、庵主さん」
「こんなに沢山…すみません、いただきます」
きちんと手を合わせ、食べはじめた。
「うわ、上品だ…」
その箸使いは、あくまで繊細で優雅だった。
(それにしても色白いな…びっくりだぜ)
鉄平は、あらためて良玉と名乗る少女を観察した。
さやかも色白なのだが、この少女はまた「透けるような」という表現がぴったりくるほどに肌が白く、はかなげな印象を与える。
とにかく、はっとするほどの美少女だった。なまじ無彩色なのが、かえって映える。
(か、可愛い…萌えー)
「またでれでれして…」
気がつくと、さやかが鉄平を軽く睨んでいた。
「やだなあ、俺デレてなんていないよー」
意味が違うような気がするが、つっこんでくれる人は誰もいなかった。
「女の子なら誰でもいいんですか…庵主さんですよ、ほんとにもう」
言い争う二人に、良玉はくすっと笑った。
「仲良しですね、いいことです」
「「いや!そんなことは…」」
どうでもいいことで息が合う二人だった。
「まあ、一晩泊っていってもいいでしょう、庵主さん。ゆっくり休んで、明日また旅を続けりゃいいさ。なんなら何日か休んでからでもいいし」
「…ありがとうございます。一晩、泊めてくださると助かります…」
また、丁寧に礼を言った。
縁側でのんびりしていると。
「いなご食うかー?」
お盆を手にしたおまきが、声をかけてきた。
「い、いなごって…その…」
「まあ、いわゆる『ばった』だべ。つまり虫」
「虫っっっ!だ、だめです、食べられません…」
良玉が飛び上がって拒絶した。鉄平も思わずのげぞる。
「おいしいのになー。残念だべ」
「そうですよねー」
「さやかさんも食うんだ…」
美少女二人が、スナック菓子でもつまむようにいなごを食べる姿に正直ちょっと引いてしまう。
「貴重な食材なんですよ。とっても滋養があって」
「「う…」」
とても食べる気にならない。
「あ、また新しいお客さんが来た!お姉ちゃん遊ぼー」
そこに、村の子どもたちがわらわらと寄って来た。
「あー、遊ぼ遊ぼ攻撃か…俺もやられたなあ」
「え、え、でも何したらいいのか…」
「いいんだよ、花いちもんめでもかごめかごめでも」
「わかりました。いいですよ、かくれんぼでも鬼ごっこでも」
「「「…!」」」
子どもたちの顔が、凍った。
「あ…そ、そうでしたね。『鬼』のいる遊びはなしで」
鬼に追われる怖さは、子どもたちも痛感しているのである。
「じゃ、みんなで遊ぼうね、良玉さんと!」
さやかが声を張り上げた。
「「「うん!遊ぼー!」」」
「…すみません、気を使わせちゃったみたいで」
一言謝って、少女は子どもたちの輪の中に入って行った。
「…鉄平さん、鬼が襲ってくること、良玉さんに話しましたか?」
さやかがぽつんと呟いた。
「いや、そんなこと話してないけど…どうして?」
「いえ、全く知らないにしては反応が変だなと…でも、気のせいかもしれませんね」
さやかは笑ったが、ちょっと気になっているようだった。
「庵主さんもお遣いさまも、何もないがいっぱい食べてくれ」
夕飯をおいしくいただき、その後。
「良かったら、旅の話でもしてくれないかね」
「え!?それは、その…」
名主の何気ない一言に、何故か良玉は絶句した。
「どうしたのかね?まあ、話したくないならそれでいいが…」
「…すみません…」
うつむく尼僧に、鉄平も感じていたことを思わず言ってしまう。
「もしかして…あんた、旅して歩くどころか、まともに長距離歩いたこともほとんどないんじゃないのか?あんたの足の裏、赤ちゃんみたいだぜほんとに」
「…!」
「…い、いや、いいんだけど…」
大きな目をさらに大きく見開く良玉に、鉄平はそれ以上追及する気をなくした。
「…本当に、助かりました。ありがとうございます…」
一晩が過ぎ、良玉は一同に別れを告げていた。
…何か隠していることがあるのはみんな気づいていたが、いざ聞こうとすると彼女があまりに困惑するので聞けずにいる状況である。どう見ても悪い人ではないので、問い詰めることがはばかられたし。
鉄平とさやかが街道まで送ろうと一緒に歩いていると…半鐘が鳴り響いた。
「やべ!良玉ちゃん、ここにいると危険だ!一度戻ってくれ!」
そう言い置いて、鉄平はさやかと共に鬼が来そうな方角へと走って行ったが、その途中で。
「…あ!あの、若侍…」
さやかがはっとする前に、その「若侍」が近づいてきた。
「よ。久しぶり…でもないか」
「珠姫さま!どうしてここに…」
「お前たちの村が、見たくなってな」
彼女はにっこり笑った。
「鬼が来ているようだが、それは好都合。動かせるだけの手勢は連れてきたし…修理、頼む!」
「承知!」
珠姫の声に応じ、修理を先頭とした何人かでごろごろと引いてきたのは。
「た、大砲っ!?」
金属の砲身を持つ、巨大な大砲だった。
「肉弾戦など時代遅れ!これからは大砲の時代だ!見よ、この修理謹製の地砲で鬼どもを吹っ飛ばす!」
吼えて修理は導火線に火をつけた。
「行くぞ!十二听地砲、発射!」
轟音と共に弾が飛び出した。
「「「うわーっ!」」」
砲弾は向かってくる鬼たちのど真ん中に着弾した。衝撃に飛ばされて転がる姿が見える。直撃を食らった者はいないらしいが、怪我ぐらいはしたようで痛そうな顔をしている鬼も多い。
「よーし、もう一発!」
弾をセットする…が、導火線に火をつけた時。
「やばい!逃げろーっ!」
異音に気づいた修理が叫んだ。蜘蛛の子を散らすように人々が逃げた次の瞬間、砲身が大爆発した。閃光と爆風に、みんなころころ転がる。
「ううむ、まだ研究が足りなかったか…」
転がりながら修理が呻いた。
「落ちついて分析してないで何とかしろ!」
「…怪我はなさそうですね…」
「ええい、次は鉄砲隊!前へ!」
足軽たちが一斉に銃を撃つ。
「ぐがががががあ!」
ちびの鷲王は撃ち落とせたが…普通の体格の鬼には、ほとんど効果がないようだった。
「駄目か…ここは俺が!」
任せてはおけず、鉄平は鬼たちの中に躍りこんだ。走っているうちに身体の筋肉が膨張し、鼻に「角」が生える。勢いのままに叫んだ。
「おら、どけえ!俺が相手だ!」
と…視界の隅で、子どもが一人逃げ遅れて泣いているのに気づいた。
「やばい!手出しすんな、おい!」
しかし、やはり気づいた鬼がそちらに向かい、金棒を振り上げた。
「やめろーっ!」
「いけない!」
そこに、どう動いたのかはわからないが、良玉が飛び出してきた。彼女は数珠をおしもみ、声高く経文を唱えはじめる。
「ぐおっ!?」
子どもを狙った鬼が、苦しげに吼えた。手がぴたりと止まる―いや、止まらされたのだ。
経文が輝く文字列となり、鬼の身体を縛っていた。
「ぐ…そ、んな…馬鹿な…!」
脂汗をかきながら動こうとするのだが、ぴくりとも動けない。その間に、子どもは脱兎のごとく逃げ出していた。
しかし…良玉自身は逃げられていなかった。一心不乱に経文を唱え続けていないといけないため、動くに動けないのだ。
と、ついに…舌がもつれた。
「こいつ…!」
怒りのままに、今まで金縛りになっていた鬼の金棒が振り下ろされた。
しかし―その寸前に、鉄平が駆けつけていた。
「良玉ちゃん!」
棒で受ける余裕もなく、左肩で一撃を受け止める。肥大した筋肉でダメージは少ないが…痛いもんは痛い。
「この野郎…痛いじゃねえか!」
怒りをこめて、鬼を突き飛ばした。
「あたしたちも加勢するぞ!」
珠姫の声に武士たちが刀を抜き放ち、鬼に向かって行く。気づいて彼女に向かってくる鬼もいたが。
「ここは拙者が通さぬ!」
侍姿の…しかし、明らかに女性であるとわかる人が疾風のように駆けつけ、見る見るうちに鬼たちを斬り伏せていく。…もちろん多少の傷では死なない鬼たちだが、痛いことは痛いので明らかにひるんでいた。
「ええい敵が多すぎる!退けーっ!」
ついに鬼武・喜兵衛が声を上げ、鬼たちは引き揚げて行った。
「大丈夫か、良玉ちゃん!?怪我してないか?」
鉄平はまず良玉に近づいた。
「いえ、大丈夫ですけど…」
「…鉄平さん!鼻と、身体…!」
駆けつけてきたさやかが叫んだ。
「え、鼻って…って、あああっ!忘れてたーっ!」
変身しているのをきれいさっぱり忘れて、良玉と普通に会話していたのに気づいて…鉄平は焦る。
しかし。
「良玉ちゃん…?」
彼女は、怖がっている様子を見せなかった。
「ああ、そう言われると身体、大きくなってますねえ…気がつきませんでした」
「気づかなかったんかい!?全く、天然にもほどがあるぜ…」
でも、怖がられなくて本当に良かったとは思う。
「あたしも平気だぞ。どんなことになっても鉄平は鉄平だからな」
珠姫は気丈にそう言う…が、これは彼女が鬼の怖さを良く知らないせいもあるだろう。
「この筋肉、どうなってこんなに肥大してるんだ…それにこの角!」
修理も駆けつけ、いきなり鉄平の鼻を引っ張った。
「うわ痛い痛い痛い!引っ張るなー!…って、修理…お前、怖がったり嫌だったりしないのか?俺のこの姿…」
こんな反応は、修理にも珠姫にも期待していなかった。
「いや、確かに変だとは思うが…やっぱり、おかしかったら調べてみたいと思うじゃないか!」
拳握って主張する修理であった。
「そっちのお姉さんも、強いなあ」
「せ、拙者は恩田主計。…いや、本名は一恵なのだが諸般の都合によりそう名乗っているのでござる」
二十歳ぐらいの女性は、恥ずかしそうに名乗った。
「家老の恩田家につながる一族の出でな」
「拙者の家は分家も分家、苗字が同じだけではあるがな。家老さまには遠い」
「でも、あたしと修理のお目付け役も兼ねてるよな、『上』に言われて」
「本来の任務は、珠姫を二六時中護衛することであるのでござるが」
同性なら確かに、いつもついていられるだろう。
「そういうのがうっとうしいって、いくら言っても…ついて来るんだよなー」
こんな話をしていられるのも、鬼が去ってほっとしているからであった。
「にしても、すごいな…良玉ちゃん」
「鬼の動きを止められるんですものね…お若いのに、大した法力ですね」
「この力をもって、人助けをしたいのですが…なかなか、難しいです」
「でも、さっきは本当に助かったよ。ありがとう」
みんなで笑い合った時…声がかかった。
「良玉さま!やっと見つけましたぞ!」
「へ!?『さま』って…?」
振り向くと、いかにも高そうな袈裟を来た僧侶と、何人かの武士がいた。
「あなたたちは…!」
良玉が顔色を変えた。僧は重々しく告げる。
「良玉さま、お戻りになってください」
「しかし、この村は…」
「わかりますが、今は良光寺にお戻りを」
敬意をこめて、しかし断固として続ける。
「『お戻り』にって…どういうことだよ」
「すみません…わたくし、嘘をついていました」
「『嘘』…って、どこからが嘘なんだ」
「まず、あなたも指摘した通り、旅の途中というのは嘘です」
透明な笑顔で、良玉は続けた。
「わたくしの足では、良光寺からここまで来るだけで精一杯でした」
「良玉さま、この者たちあまりに無礼!」
「よいのです」
「無礼って…良玉ちゃんって一体何者なんだよ」
「こ、このお方をどなたと心得る!」
我慢できなくなったらしく、僧侶が声を上げた。
「このお方こそは、良光寺を管理する寺の御片割れ、本願院のご住職にあらせられる尼公上人さまなるぞ!お上人さまの御前である、控えおろう!」
「は、ははーっ!」
あっという間に周りの人たちが全員平伏か礼を取り、鉄平一人が棒立ちになっているという状況になってしまった。
「え、え…そんなに偉いのか、良玉ちゃん?」
「このあたりでは…海津の殿さま並みか、それ以上です」
震える声でさやかが答えた。
「そうなのか…」
「まさかお上人さまだったなんて…小さい頃お数珠頂戴をさせていただいた時には、おばあさまなお上人さまでしたよ!?」
「それは先代のお上人さまで…わたくし、五年前に上人を継いだんです」
「五年前…って十歳ぐらい!?すげーな」
「そういうさだめでしたから」
少女は淡く微笑んだ。
「わたくしは、この村が鬼に襲われていると聞き…本当のところを知りたくて、寺を脱け出したのです。…その結果、罪もないのに苦しんでいる人々、そして立ち向かう人々を知りました」
「良玉ちゃん…」
「お戻りを、お上人さま」
僧侶が声を強めた。
「わたくしはもう戻らないといけません。いずれ、助けられるように力を尽くします」
そう言い置いて、彼女は寺侍たちに連れられ、振り返り、また振り返りして帰って行った。
「良玉ちゃんも、大変なんだな」
「あたしには、わかる気がするよ…彼女の気持ちが」
珠姫が呟いた。
「良光寺の尼公上人になる女性ってのは、生まれは公家…それも皇族に連なるかもしれない超名門の出でないといけないんだ。つまり、良玉ちゃんはあたしなんか比較にならないお姫さまってことだ」
よくわからないが、おっとりしているのは生まれのせいだとはわかった。
「身分が高いの、何のって言われても…かしずかれているだけで、実際には何もできない。この村のことが心配でも、何もできないんだ」
「…なのに、姫さんは…来てくれたんだな」
「どうしても、何かしたかったんだ」
晴れやかに、珠姫は笑った。
「何とか、修理と主計を説得して動かせる手勢を回せた…少しは役に立てたのが、嬉しかったぞ」
「良玉ちゃんも、手助けしたいんだろうなあ」
振り返った顔を、思い出す。
「鬼を何とかできれば、いいんだが…」
しかし、どうしていいかわからないのが、実情だった。
第十一の章 潜入と信頼と少年と
「おい、稲に花が咲いたぞ。今年もいよいよ豊作の気配だな」
そんな声に、鉄平が田んぼに行ってみると…若衆組がそれぞれに喜びを噛みしめているところだった。
「いよいよ、実るのか…やっとか」
「でも、鬼がまた、来る…」
「麦は刈れたから、おやきやすいとんは大丈夫だが」
「収穫の前にこの村、逃散に追い込まれるかもな」
「…大丈夫だ。秋までは、奴らはおらたちから全ては奪わね。稲が実るまで、育てさせておくだ」
その声がどこからしたのか…一同には、はじめはわからなかった。
「おまきちゃん!?」
おまきが、日に焼けた顔を紅潮させて立っていた。
「どうしてわかるんだ、そんなことが」
「…おらの故郷が、そうだったからだあ」
はじめて聞く、彼女の過去だった。
「おらが九つの時、鬼が村に攻めて来たんだ」
ぽつりぽつりと、語り出した。
「はじめは蓄えを少しずつ奪って行って、最後におらたちが汗水たらして作って来た実りを根こそぎ奪って行っただ」
「今のこの村と、同じか…」
「秋にみんなで攻めてくるだ。年貢どころか冬を越すこともできなくなって、みんなてんでんばらばらに逃げることしかできねかった」
「やっぱり、逃散に追い込まれるのか」
「おらの家族もみんなで逃げたんだが」
その中ではぐれ、さまよっているところをさやかに拾われたのだと語る。
「…おらは、鬼が怖いんだ。怖くて怖くてしょうがねえだ」
それは…おまきが見せた、はじめての弱さだった。
「おらにはさやかさまは守れね。神社の外に出て鬼に立ち向かうなんて、考えただけでも身がすくんじまうだ。…だからお遣いさまさ、頼む。さやかさまを守ってやってくれ、お願いだ」
「わかってる。絶対、守るよ」
「頼んだぞ。おらには、何もできねからな」
悔しそうであった。
「…鬼は、収穫の時を狙って、大攻勢をかけてくるのか…」
さっきの話を思い出し、鉄平が胸にずーんと重いものを感じながら村はずれまでふらふら歩いていると。
「あれ?あの子…」
街道でうずくまり、うんうん唸っている少女に気がついた。
「どうした?大丈夫か!?」
最近よくうずくまっている女の子を助けるなーとは思ったが、まあ人助けは好きなのでいいや、とも感じた。
「とにかく休めるように、村に連れて行くよ」
「済まない…ちょ…ちょっと、具合が悪くなってしまって…」
かすかな声で、少女は答えた。
市女笠に杖、明らかに旅支度の娘だった。身につけている服も上品だ。ここの女性にしては背の高い、きりっと引き締まった顔立ちの少女だった。しかし、今は苦しげに息をついている。
「ほら、おぶさって。名主さんの屋敷に運ぶよ」
少女をおぶって、村に入ると…さやかが目を丸くした。
「どうしました!?その人は…」
「気分が悪いんだってさ」
二人で屋敷に担ぎこみ、さやかが介抱した。
「はい、水ですよ。むせないように気をつけて」
「本当に何から何まで…済まない」
「いいんですよ。困った時にはお互いさまです」
恐縮する少女に、さやかは笑顔で応えた。
「ところで、お名前は?」
「は、春…っ」
「ああ、お春ちゃんですね。わかりました」
「助かった…本当に。ありがとう」
ようやく人心地ついたらしく、お春と名乗る少女はきちんと座って礼を言った。黒髪をきっちり結い上げているのが印象的な、十六、七の娘さんだ。
「うわ、これはこれで萌え…」
鉄平は思わずそう呟き、さやかに思いっきりつねられた。
「痛ってえ!」
「誰にでもでれでれしないでください!」
ようやく「萌え」の意味がわかったらしい。
「わたしも結い上げたいんですが、巫女は髪を垂らしていないといけないと言われて…」
「いや、さやかさんの髪もきれいだよ、充分」
「でもお春ちゃんの結い髪に見とれてました…」
さやかはぷーっとふくれた。
「そんなことないって、なっ」
「出会う女の子みんなにいい顔して…」
「だって出会う娘みーんな可愛くて…萌えー」
「いちいち燃えないでください!」
「い、いや、その…うう、何かここに来る前にもそう言われてた気がする…」
「やっぱり!」
「誰に言われてたんだっけ…」
思い出せそうで思い出せないのは気持ちが悪いが、そんな気がした。
「妹っていうか、妹みたいな存在っていうか…だったっけ」
「そりゃ、あんなにあちこちに目を向けてたら、そうなりますよ」
「いつも『この馬鹿兄貴』って言われてた気が…」
そんな気がしていた。
「…仲良しだな、君たちは」
「「…はっ!?」」
気がつくと、目の前でお春が苦笑していた。存在をすっかり忘れて口げんかしていたことに気づき、二人して赤面する。
「本当に、世話になった。もうかなり元気になったし、出発しようと思う」
お春は立ち上がった…が、よろけた。
「大丈夫じゃないじゃないか!」
「いや、これ以上迷惑はかけられない…」
弱々しく言う彼女に、さやかは思わず声をかけていた。
「身体が本調子になるまで、この村で休んでいったらどうですか。何日か休んで、それから出かけてもいいと思いますよ」
「しかし、それじゃあまりにも悪くて…」
「いいんですよ。いたいだけ、いてください。この村は時々鬼が来て危険だったりしますけど、鉄平さんが守ってくれますから。大丈夫です」
「う…」
「大したおもてなしもできませんが、休んでいってください。ね?」
「そうそう。ここで倒れたのも何かの縁だよ、きっと」
「何か仏教みたいな表現ですねえ」
「あ、悪い巫女さんー」
「そう…か」
そんな二人を見て…お春の顔に、わずかに笑みが浮かんだ。
「じゃあ、しばらく、いようかな…ここに」
「「やったあ!」」
二人して喜ぶのを見て…少女は、ほっとした表情を浮かべた。
「気分が良くなったんなら、ちょっと外に出ません?顔色も良くなりましたし」
「あ、ああ…そうだな」
三人で名主の屋敷を出ると。
「あ、お遣いさまの兄ちゃんだ!兄ちゃーん!」
子どもたちが駆け寄って来た。
「おいおい、『さま』は止めてくれって言ってるだろー?」
彼らとはしゃぐ鉄平を見て、お春が目を丸くした。
「君がお遣いさま…お遣いさまって呼ばれてるのか!?」
「うん、まあ、そうなんだけど…恥ずかしいから止めてくれー」
「そ、そうか…そうなのか」
お春は面食らった顔をして、何か考えこんでいる。
「どうしたんですか、お春ちゃん?」
「あ、いや…何でもない。何でもないんだ」
(何か引っかかるな…)
鉄平はちらっとそう思ったが。
(まあいいや。そのうち言ってくれるだろ)
深くは考えなかった。
「おまき姉ちゃんが、お小昼にじゃがいも食べないかってさ!」
「そうか、俺も食いたいな…行こうぜ、お春ちゃん」
「う、うん…」
みんなで、おまきのいる屋敷の台所に行ってみた。
「今日は丸ごと焼いてみただよ。食うか?」
「うん、食べる食べる。うわ熱っちっ!でも…うまいなこれ」
焼いたじゃがいもを、はふはふしながらみんなで少しずつかじった。
「その、石ころみたいなの…食べ物なのか?」
お春が若干引き気味になっている。
「そうだぜ、じゃがいも。うまいんだぜー」
差し出されたじゃがいもを…しばらくためらって、お春はぱくんと…。
「あ!熱いんだぞ、そんな風に食べちゃ…!」
「うく!あ、あふい、あふい…熱かったー」
「や、火傷してないか!?」
慌てる鉄平だったが。
「ああ熱かった…!でも、これ…うまいな」
ようやく味に気づいたらしい。はふはふ言ってから、お春はにっこり笑った。
「そ、そうか…それは良かった」
「それにしても…里芋でもない。石ころみたいなのに美味しい…」
感動しているようだ。
「飯代わりにもなるよ。すごいだろ」
「そ…そうなんだ。本当にすごいんだな」
その日の夜、たまたまだが名主宅ではお風呂の日だった。
「鉄平さん、ちゃんと洗ってくださいねー」
「えー、風呂って苦手だなあ…」
「お春ちゃん、一緒に入りませんか?髪洗いっこしましょうよ」
「い、いや…ごめん。ちょっと訳があって、人前で脱ぎたくないんだ。後で、一人で入らせてもらうよ」
「ああ、もしかして…身体に…」
「そうだ。済まない」
「じゃあ先に入っちゃいますね」
気づかいの色を見せつつも、さやかは妹たちを連れて湯殿に向かった。お春はそれを、複雑な表情で見送る。
「…済まない。余計な気を使わせた…」
夜中…ふっと眼が覚めたさやかは、隣のお春が起き上がってごそごそと身づくろいをしているのに気づいた。
「むにゃ…お春ちゃん、どうしたんですか?」
「あ、起こしてしまったか…いやその、ちょっと、その」
「あー…わかりました。暗いから気をつけてくださいね」
当然、さやかが思う「夜の外出」の用事は一つである。
「う、うん。すぐ戻るから」
そう言い置いて外に出て…彼女は厠ではなく、村はずれの方に歩き出した。道祖神の石碑を過ぎると、小さな手鏡を取り出し、かざした。
すると、鏡が輝き―光は、十二単をまとった女性の姿を投影した。琴の響きが、場を満たす。
『何かわかったことはあるか。報告しや』
「いえ…今のところ、何もはっきりしたことは」
お春はうなだれて答えた。
『わざわざお主を送りこんだのに、意味がないのう…』
「申し訳ありません…」
『まあ良いわ。しばらくそこで探れ』
鏡の光が消え、美女の幻影も溶けるように消えて行った。
お春は息をつき、鏡をしまいこむ。
「何故、言わなかったんだろうか…」
ぽつりと、呟く。
「言わなければならないことが、沢山あったのにな…」
次の日、鉄平たちが茄子のおやきなんぞを食べていると。
「鬼だ!鬼が来たぞ!」
声と共に、田んぼから人々が逃げこんできた。
「大変!みんな早く神社に…」
「俺、守りに行ってくる!」
鉄平は駆け出した。
「ほら、お春ちゃんも急いで」
「い、いや、その…」
「いいから早く!」
さやかはお春を引っ張って行った。
「くっ…!」
鳥居をくぐった途端、お春が顔をしかめた。
「どうしたんですか?」
「いや、何でもない…何でもないんだ。ただちょっと頭痛がして…」
お春は眉を寄せ、何かに耐えているようだった。
「そうですよね。身体が本調子でないのに急がせてしまって…ごめんなさい」
「大丈夫、心配ない。すぐ治る…」
口ではそう言っていたが、青ざめて震えていた。
「ああ、新鮮な空気を吸わせてあげたいけど…もう少しですよ。鉄平さんが頑張ってくれてますから」
「ああ、そうだよな…」
結局、境内にいる間中、彼女は苦しんでいた。
「鉄平、さやか…話があるんだ。屋敷の裏に、来てくれないか」
お春がそう声をかけて来たのは、来て三日後のことだった。
「何だー?愛の告白とかー」
「やめてください!…だったら、わたしも一緒の訳ないと思いますよ」
「それもそうか。でも、何なんだろうな」
さやかのつっこみに納得したが、だとするとますますわからなくなる。鉄平は首をひねったが…まあ、行けばわかるからいいや、と思った。
連れ立って、屋敷の裏に行ってみると。
「―来てくれたか」
二人に気づき、お春はにこっと笑った。
「まず…これを、見てくれ」
結い上げていた髪をほどくと、ばさりと黒髪が垂れた。
「うわ、新鮮だなあこれも…」
「またですかっ」
さやかが軽く睨むのを横目に、お春はほどいた髪をかき分けて「それ」を二人に見せた。
「何だってんだ?…って、これは…!」
真珠のような輝きを放つ、皮膚の盛り上がり。
見慣れた「あれ」とは大きさが全く違うが…それでも、同系統のものだとはっきりわかった。
「…角?」
「そうだ。他はほぼ母に似たのだが…ここだけは、副首領の血だ」
苦しそうに、続ける。
「私は、鬼の副首領の娘。春鬼だ」
「「…!」」
仰天する二人に…さらに、言葉を続けた。
「君たちのことを調べるために、父から送りこまれた間者だ、私は。この村のことを、二人のことを、嗅ぎ回っていたんだ…済まない」
「…それで、一緒にお風呂とか、入らなかったんですね」
「境内で具合が悪くなったってのも、そのせいか…」
「責めないのか?二人とも…」
不思議そうに、少女は尋ねる。
「私は君たちを探っていたのだぞ。秘密を探るべく、病を装って潜入し、見張っていた…殺されても仕方のないことだ」
「でも、俺たちにそのことを言ってくれた…」
「それに、望んでのことじゃないんでしょう?強制されてたみたいに見えますけど」
「確かに…母を人質に、取られている」
「やっぱりそういうことなんだ」
「しかし!それでも私のしたことは…」
「…でも、俺たちに何したってことでもないし」
「もう、友達ですもの。一緒に笑い合った、友達ですもの…」
「でも!できそこないとはいえ、鬼だし…」
「隠し通せばいいじゃないか。隠せるんなら」
あっさりと、言う。
「みんな、受け入れてくれるよ。俺も大丈夫なんだしー」
鉄平の偽らざる思いだった。
「しかし、母が…」
「よし、お春ちゃんのお母さんを、助けに行こうぜ」
軽く、そう口にした。
「そうですね。行って助け出しましょう、何とかして」
さやかも、あっさりと同意した。
「そうだよな。鬼がいるって言う水無瀬の里…一度どういう所なのか見てみたいと思ってたんだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、二人とも」
乗り気になっている二人を前に、お春―春鬼はただ困惑するしかなかった。
「どうして、私たちのためにそんなにしてくれようとするんだ」
「だって、友達になったじゃないか」
「そうそう、友達の困ってるのを放っておけません」
「しかし…危険なのだぞ!?」
「お春ちゃんを安心させるためなら、そのぐらい安いもんだよ」
さらりと…何のてらいもなく、鉄平は言い切った。
「君たち…!」
「やろう」
「やりましょう!」
感動するお春の前で、二人はひたすら盛り上がっていた。
山沿いの険しい道を、三人は進んだ。鉄平はいいが、さやかにはかなりきつい道のりだ。
一方、病のふりをやめたお春はきびきびと案内していた。
「鬼武・喜兵衛たちは、俺のいない間に村を襲ったりしないかな…」
それが、何より気がかりだったが。
「ああ、大丈夫だと思う。喜兵衛に…彼らも、今は水無瀬の里に戻っているはずだ」
「そうか。じゃあ行ってる間も村は大丈夫だな。それは助かる」
その言葉に、お春が驚いた。
「わかってるのか!?君たちの危険が高まるということだぞ!」
「でも、俺たちが留守の時も襲われないなら、それでいいよ」
鉄平はあっさりと言った。
「お春ちゃんのお母さんも助けたいし、もちろん村のみんなも守りたいし…両方できればそれに越したことないよ。俺一人でできることって限られてるけど、それでもできる限りのことをしたいんだ」
何の気負いもなく、彼はそう続けた。
「君たちは…」
息を呑んで…それ以上何も言わず、お春は先に立って歩き続けた。
強行軍を続けて。
「―ここだ」
ついにお春は立ち止まり、手で下を示した。
「ここが、水無瀬の里…鬼の里」
そこは、山と山の間に、ほんの僅かに開けた平地だった。ほとんどない平らな土地に、僅かに田んぼや畑がへばりついていた。
「あのあたりに、紅花さまがいるという屋敷があって…で、母がいるのは、多分あそこだ」
いくつかある集落の、一番近くを指差した。
「今まで、攻めこんできたのを撃退するだけだったもんな。やっぱ臭いものは元から断たんといけないかなあ」
「でも、正面からこの里に攻めこむ力は、わたしたちにないですよねえ…」
情けないことであったが、事実である。
「まあ今は、お春ちゃんのお母さんを助け出す方に全力出そうぜ。お母さんはあの集落のどこにいるんだ?」
「あの小屋だ。繋がれてる訳じゃないけど…いつも、周りが注意していると見ていいだろうな。私もいないし」
里の一角にある小屋を、指で示した。
「そうか…どうすれば、逃げられるだろう」
「それなんだが…一番確実な方法は」
お春はここで、言葉を切った。
「?もったいぶらないで早く言ってくれよー」
不満げな鉄平の前で、言葉を続ける。
「…私が、騒ぎを起こして注意を引く。だから、その間に母を連れて逃げてくれ」
「でも、それじゃお春ちゃんが危ないじゃないか!」
「私なら大丈夫だ。殺されはしない」
「でも…!」
「みんなで生きのびて脱出するには、他に手がないんだ」
きっぱりと言う。…しかし、その手はかすかに震えていた。
そう易々と逃がしてくれる奴らではない…それが、わかっているのだ。それでも、二人と自分の母親だけは逃がす決意をしている。
「それじゃ駄目だ!」
鉄平は思わず、そう叫んでいた。
「一緒に逃げようぜ、お春ちゃん」
「ありがとう。こんなに良くしてくれて…私にも、少しはお返しをさせてくれ。母が助かれば、それで私は充分だ」
透明な…あくまでも澄んだ微笑を、二人に向けている。
「もう、いいんだ…」
「そんなこと言うなよ!みんなで幸せになろうぜ、なっ」
「しかし!」
「な!全取りだよ、全取り!みんなで幸せにならんと意味がないんだ。全員助けようぜ、なっ!」
「そうですよ!」
さやかも声を上げた。
「囮は、俺がやる」
「でも!」
「二人で、お母さんを連れて逃げてくれ」
「わたしも…鉄平さんが囮の方が、いいと思います」
「しかし、それでは鉄平が危険で…」
「信じましょう、ね?」
「信じる…?」
「鉄平さんは、大丈夫ですよ」
さやかはにっこり笑ってお春の肩を叩いた。
「そ、そう…か」
「だから、信じましょう。鉄平さんも、お春ちゃんも…わたしも、もちろんお母さまも無事に脱出できますから」
優しく笑いかけると、さやかは鉄平と相談を始めた。
「そうか…」
お春は、小さく呟く。
「そうなのか…誰かを信じて、頼ること。それが、この里にはなかったものなのか」
任せられる人がいること…それが、新鮮だった。
「俺が、里の近くで騒ぎを起こすよ。鬼たちの注意がこっちに向いたら、二人で里に入ってお母さんを連れ出してくれ」
「…ちゃんと逃げてくださいね、お願いします」
「そっちも、無事に逃げてくれよ」
「大丈夫です」
「…これが、信じ合うってことか…」
うなずき合う二人を前に、お春がぽろっと呟いた。
「「え!?」」
「こうして信じ合うことが、大事なのだな」
「そんな大したことじゃないと思うんだけどなあ」
「いや…大切なことだ、本当に」
照れる二人を見て、お春は大きくうなずいた。