昔のおうち
幼馴染、といっても亨ちゃんの家はでっかくて、わたしの家は側のアパートの一角。なんだかそれだけでちょっと格差がある感じ。その上、我が家の近くには割と女の子が多く住んでいて「幼馴染」という関係性の女の子が、亨ちゃんには同級生に5人いる。私はその中の一人だから、五分の一の幼馴染。上級生を含めるともっといる。だから、幼馴染といってもそんな近しい存在でもなかった。全然。
小さい頃はそれでもその幼馴染たちで一緒に遊びもしたけれど、わたしは鈍臭くて、いつも走れば最後尾で、しかもどんどん前の子と引き離されていくし、ゲームのルールはすぐに覚えないし、すぐ迷子になるしで、大迷惑な存在だったためか、いつの間にか遊びには誘われなくなっていて、保育園で知り合った同じようなおっとりとした子たちと一緒に地味に遊び始めた。
片や亨ちゃんもそのうち、女の子の比重が8割に達する幼馴染たちと遊ぶよりは幼稚園の子と遊んだ方が楽しいと気づいたのか、いつの間にか近所で走り回る姿をみかけなくなっていた。
そのままなーんとなく、亨ちゃんの存在は忘れて過ごしたのには、私が小学生の2年の時に引っ越してしまったというせいもあると思う。引越し、と言ってもそう遠くにではない。小学校の学区も変わらない、転校の必要もない小規模な距離の移動だったのだけど、亨ちゃんはお家の方針で私立の小学校に行っていたから、わたしと亨ちゃんの「家が近い」という唯一の接点がそれで失われてしまったのだ。
再び亨ちゃんと会ったのは、中学生の時。これは、その時の話。
その日、わたしはお母さんに頼まれてたまねぎとジャガイモと洗剤とガーデニング用の土と肥料を買いに行った。地元のスーパーでじゃがいもとたまねぎ、ドラッグストアで洗剤は買えたのだけど、ガーデニング用品だけはちょっと離れたホームセンターまではるばるいかなければいけない。しかも、土ってめっちゃ重い。土を乗せたカゴの重みでハンドルをとられそうになりながら、注意深くゆっくりと自転車を走らせた帰り道。いつもは車道の横を勢い良く突っ走っちゃうところなのだけど、今日はいつ転ぶかわからないこの状態で車道の横を走るのは恐くて、住宅街のあいまを通る細い道を選んだ。
その道は、遠回りになっちゃうから普段わたしは使わない道で、通り過ぎるポプラの木とか、紫陽花の群生とか、小さな公園だとか、芝生だとかを見ているうちにはっと気づいた。
あれ。ここ昔住んでた場所の側だなあ。
引っ越した時はまだ小さくて、その場所がこんなに近くにあるだなんて知らなかったけれど。引っ越した先はまるで別の世界のように感じていた。だけど、自転車で20分で来れるんだあ。
変な感動の仕方をして、懐かしくて、思わず自転車を降りてそれを引っ張ってゆっくり歩く。
小さな公園の小さな砂場ではよくドロ団子をつくったり、川を作ったりしていたし、ブランコはよく順番待ちしたり二人乗りをしたし、高鬼や色鬼なんかもよくこの公園でやっていた。ドロケーや鬼ごっこはわたしは鈍臭いから、苦手な部類だったけど。
ゆっくりと辺りを見回しながら歩くと、自分の記憶が意外に残っている事に驚いた。うらぶれた小児科は予防接種の嫌な思い出。地元のパン屋さんはアンパンマンの顔したパンを買ってもらうのが楽しみだった。あるマンションの駐車場の片隅の植木の茂みには当時子猫がたくさん生まれてみんなが大騒ぎしていた。
思い出を追う様に歩くのは懐かしいのと同時に、少しなんだか寂しかった。辛い寂しさではないのだけど、胸のあたりを柔らかいざわざわが撫でていくような感じ。
さていよいよ、次の角を曲がれば懐かしき元我が家!
ちょっとした期待を込めて曲がったその角。目に入ったのは、確かにわたしが小さい頃住んでいたアパート。だけど、その周囲には人工的な青い柵が巡らせてあって、白い看板がかかっている。
柵の向こうは薄っすらと記憶に残っているよりは古ぼけてぼろい建物。昔はもっと大きく感じたけれど、今見るとあんなに高く感じた階段も、広く感じたベランダもどこにでもある、普通のアパートのそれだ。
コンクリートの隙間や、建物の周囲の土の部分の至る所に雑草が伸び放題で生えていて、わたしの膝くらいまでのびきったその雑草が既にアパートの下の方を覆い隠してしまっている程。その盛んな様子はまるで草の海のようだな、と思う。プラスティックのバケツやシャベルで手当たり次第穿り返していたのと同じ地面だなんてとても思えない。
看板を見ると、なんたる奇遇! このアパートは1週間後には取り壊してしまうらしい。
ここを通ったのも何かの導きかもしれない、なんて無宗教のクセにそういうところだけ信心を発揮してみて、わたしはなんとなしに敬謙な気持でアパートの前にたたずんだ。
たたずんでいるうちは良かったのだけれど、段々そうしているうちに、どうしても中に入ってみたくなった。もうすぐ取り壊されてしまうと思えば、今まで忘れに忘れきっていた家なのに、無性に懐かしくなってしまって、最後にもう一度、在りし日にわたしが過ごした部屋を覗いて見たいと思ってしまった。
自転車のスタンドをがちゃんと立てて、荷物はカゴに入れたままで、わたしは何度か周囲を見渡したあと、思い切ってえい、と柵を乗り越えた。そんなに高い柵ではなかったし。とげとげの有刺鉄線でもなかったし。
足にちくちくと刺さる雑草の合間を掻き分けると、足元でバッタが跳ねて逃げて行った。
やっとの事で金属製の階段まで行き着いた。赤茶けて錆のせいで元の色がわからなくなってしまっているぼろぼろの階段はいかにも脆そうに見えて、わたしは恐々足をかける。わたしの住んでいた部屋は2階の一番奥の部屋だった。
歩く度に嫌な音を立てる階段をなんとか登って、コンクリートのベランダを歩いて目的の部屋まで。わたしが住んでいたときは、部屋の前に朝顔の植木鉢やらわたしのシャベルやバケツや三輪車などがところせましと並んでいたはずなのに、それもさっぱりとしている。ノブの外れそうなドアに手をかけると、鈍い音と脆そうな感触がして、壊しちゃうかも、と不安になった頃にぼこ、という音を立ててドアが開いた。
ドアとベランダの窓は直線状にあるらしい。ドアを開けると、見事なほどがらん、とした部屋の中が見渡せて、そのまままっすぐ前に大きな窓があった。窓の向こうに大きな家が見えて、ああ、そういえば家の前には大きな家があったなあ、と思い出す。たしか、そこの家の子は同い年で、一緒に遊んだ事もあったはず。
土足のまま踏み入るのは気が引けて、靴を脱いでぺたぺたと、カーペットも床さえないむき出しのコンクリートの床を歩く。ひんやりと硬い感触。窓まで歩いていくと、前の家の二階の窓と面しているのに気づいた。んで、丁度あちらの窓の前にも人がいて、その人と目が合ってしまった。同い年くらいの男の子。大きく目を見開いて、驚いた顔をしている。あ、幽霊だとか、思われちゃったかも? と反省したのはその子がすぐに奥に引っ込んでしまったから。まるで逃げるように素早く。
あーあぁ、と思いながら、見るものも見たし、さてと帰りますか、とわたしはのんびりまた玄関まで戻る。靴を履いて、また、嫌な音を立てる階段を下りている時、声が聞こえた。男の子の声、と思って見たら乱暴に雑草を手で払うように掻き分けて、先ほど窓の向こうにいた男の子が焦った顔で駆けて来る。
「ちょっと待て」
「はあ?」
わたしは意味がわからなくて首はかしげる。
「いいから動くな」
男の子の声はまるで叫ぶよう。
「え? なんで、ですか?」
意味が分からなくて、でも、命令された手前これ以上足を進めるわけにも行かなくて、手持ち無沙汰に右の手すりにつかまってみる。みし、という感触。
「いや。やっぱり動いていい。ただし、慎重にな」
「えー?」
よく分からないけど、もう一度歩き始める。この地点で、階段の真ん中あたり。
「その建物、もうかなり古いんだよ。この前も、2階の手すりが腐ってて、悪戯で入った子供が落ちて大怪我したんだから」
「ええ!? そうなの?」
と、わたしが言ったのと、みしみし、と足元で階段が嫌な音をたてるのは同時だった。男の子がハッとした顔をしてさらに駆け寄ってくる。
わたしはどうする事もできなくて、ただ、硬直していただけだった。
ぐい、と手を前方に強く引かれた感触の後、すごい大音響と、どしん、という衝撃。でも、思ったほど衝撃はなかった。恐る恐る目を開けてみたら、男の子がわたしの体重を支えきれずに地面に見事に転んでいるの図。
わたしはきゃー、と叫び声を上げて「ごめんね!? 大丈夫!?」と慌てて男の子を覗き込む。彼は、本当に痛そうな顔をしていて、起き上がってまず最初にした事は手首を何度か振ってみることだった。
「いてぇ」
「ほ、ほんとにすいません……」
とか言っている間に、さっきの大音響でご近所の人が出てきそうな気配がして。ああ、近所の人に見つかったら恥ずかしいなあ。怒られるかなあ、とわたしが悲しい顔をしていたら男の子は呆れたように一つため息をついた。
「とりあえず逃げるよ」
って痛いはずの手でわたしの手を引っ張って立たせて、そのまま雑草の海の中を二人で駆けた。
その後、落ち着いて話したところ、わたしはすっかり忘れていた幼馴染の存在を認識するに至った。もっとも、亨ちゃんはうっすらわたしの事を覚えていたみたいだけど。「ウチの犬の尻尾をふんずけて噛み付かれた湯野さん家の子」という印象で。
ついでに、その落ち着いて話したとき、わたしはとても亨ちゃんに怒られた。