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僕の彼女はサッカー狂い

作者: 黒十二色

 専門用語が大量に出てくるので、後書きに、ざっくりとしていて、不完全で、もしかしたら間違いだらけかもしれない用語解説を設けましたので、そちらに目を通していただければある程度の意味がわかるかもしれませんし、わからないかもしれません。

 少しでもお楽しみいただければ、さいわいです。

 噴水のある池を眺めながら、僕は公園のベンチに座っていた。

 僕の横に座る彼女は、元気系という言葉が似合うポニーテール。僕の恋人である。

「ところで、あたしのフィロソフィーとしては、キックオフ後のバックパスは禁止なのよ」

 しかし、何を言い出したんだこの子は急に。

「男は前のめりにいくべき。そして簡単に倒れたりわざと倒れたりするのは、あたしのフィロソフィーに反するのよ」

 さっきから何を言ってるんだ、この目の前の娘は。

 先日、初めての合コンで海外旅行の話で盛り上がって、色んな国のことを知っていた彼女とそれなりに意気投合して、何となく付き合うことになった。

 そして初デートという今に至るわけだが、どこに出かけるでもなく待ち合わせ場所の公園で彼女と話し始めたところ、いきなりわけわかんないことを言い出したのだ。

 ていうか、初デートにジャージ着て来てる時点で、何だか僕の常識とは相容れない部分がある気がする。

「マリーシアってあるでしょ?」

 訊いてきたので、彼女の横顔に向かって僕はこたえる。

「ああ、東南アジアの国でしたっけ」

 すると彼女は、小さく揺らしていたトレードマークのポニーテールの動きすらも一瞬停止させ、後、無言を返し、こちらを向いて幻滅したような表情を見せたかと思ったら、ジャージのポケットに手を突っ込んで何やらガサゴソした。そしてすぐに空の手を出し、更にその後すぐに、傍に置いてあったこれまたスポーティなカバンを開けて手を突っ込み、なにやらガサゴソして……黄色い物体を取り出してそれを頭上にかざした。

 なんか、黄色いカードが木漏れ日を浴びてきらめいていた。

 何してんだ、この娘。

 そして無言のままカードをゆっくりとカバンにしまいこんだ。

 で、また僕の方を見ることなく語り始める。

「非紳士的な行為は、慎むべきってことが言いたいわけ。男としてそれは持っているべきフィロソフィー」

 何なんだ一体。

「あの」僕は思い切って訊ねてみる。「さっきから何の話をしてるんですか」

「わからないふりをして……。はっ、まさかマリーシアのつもりなの?」

 日本語でお願いします。

 僕はわけのわからないことを言い出した彼女の横顔を見つめて、無言を返すしかできなかった。

 彼女は、なおも勢いよく、

「つまりね、カテナチオをこじ開けるためには色々やるべきことがあるんじゃないかって思うわけ。そのためには色々やりようがあるでしょ。ただフェイントなんて好きじゃないから、男らしくフィジカルを活用するとか、いっそパワープレイするとか、あたしにとってギリで許容範囲であるサイドチェンジするとか、くさび入れるとか、アーリークロスをニアにとか、リスク覚悟でオーバーラップするとか、クライフターンとかマルセイユルーレットとかヒールリフトとかラボーナとかファンタスティックなものであってもこの際よくて、とにかくポゼッションばかりしていても、ゴールをこじ開けられないんじゃ意味がないの。かといって、最初からカウンター狙いなんて意味ないからね。カウンターって言ったら、あたしの中ではショートカウンターだから。あたしはショートカウンター以外認めないから。それがあたしのフィロソフィーだから」

 ワーっと喋ってきた。困った。

 ただ、何となくサッカー用語っぽいことは理解できた。

 ゴールとか、カテナチオとかそういう単語は聞いたことがある。

「ゼロトップでベタ引きされてミドルすら打たせてもらえない状況でも攻めなきゃどうにもならないのよ。デコイランや裏を狙う動きも特別に許してあげてもいいけど、まずはちゃんとフォアチェックくらかけなさいっていうか、削りにくるくらいでちょうどいいっていうか、とりあえずアタッキングサードに入れっていうか、走るのは当たり前っていうか、オフザボールで動かれてもあたしにはどうしようもないっていうか」

 そして彼女は、僕の方をチラッと見た。

 目が合った。僕はたぶん、相変わらずボケっとしてたと思う。

 だって、目の前のこの人が何言ってんだかわからないんだから。

 そして彼女は言った。

「アンカーぶってんじゃないわよ」

 意味がわからん。

 そして彼女は再び目を逸らした。

「アディッショナルタイムをあげる。わかってるはずでしょ。あたしは別にトータルフットボールを目指せとか言ってるわけではないの。もう少し、こう、何ていうか、戦う姿勢っていうか……わかるでしょ?」

 わからないですけど。

 そして彼女は言った。

「じゃあ、質問を変えるわね。もしもあたしがボールだとしたら、あなたどうする?」

 難しい質問だ。しかし、ボール扱いされたいというのなら、たぶん……

「足蹴にすればいいんですか?」

「――――」

 言葉を失った様子だった。

 あれ、違ったかな。

 そして、彼女は手をカバンに突っ込んだ。カバンから手を出す。

 その手には――!

 何も無かった。空だった。

 だけど様子から察するに、足蹴にするのは不正解だったらしい。

 おそらくファウルの笛は吹かれたけどカードはでなかった、みたいなことなんじゃないかと思う。わけわかんないけど。

「……あたしのフィロソフィーには反するけれど、特別にゴールデンゴール方式の延長戦をあげる」

「はぁ、そうっすか」

「はい、何か言うことは?」

 そして僕は、言ったのだ。


「バイタルエリアでしばいたる……とかですか?」


 僕はかろうじて記憶していた難しめのサッカー用語を用いてそう言った。

 意味はよく知らない。

 要するに、ただのダジャレだった。

 すると彼女は、怒りの表情でカバンに手を突っ込み、取り出したのは、何か赤いやつだった。

 それを頭上高くかざしていた。

「な、何すか……」

「見ればわかるでしょ! レッドカードだよ、このオウンゴール野郎!」

「…………」

「一生誰かがはがした芝生うめてろ!」

「…………」

「っていうかずっと芝生でも食ってろ!」

 暴言っぽい言葉を吐いてレッドカードをカバンに乱暴な動作で押し込むと、彼女はベンチを立ち上がる。髪を激しく揺らしながら去って行った。



 そしてそれから、彼女が僕の前に現れたのは、二日後のことだった。

 僕の家の前で、いつものようにポニーテールを快活に揺らしながら。

 別に何事もなかったかのように「おいっす!」とかいって。

「怒ってたんじゃなかったの?」

 僕は訊いたが、

「あなたの出場停止期間が過ぎたの」

 何言ってるのかわからなかった。


  ★


 僕は、いつもの公園に居た。最近はデートといったらこの公園だ。

 隣では、彼女がポニテを揺らしている。すこし申し訳なさそうにしているためか、ポニテも普段より萎れ気味だ。

「どうして昨日来なかったの? 君の誕生日だったのに。約束してたのに」

 そう、実は昨日、会う約束をしていたにもかかわらず彼女が待ち合わせ場所に来なかったのだ。

 何か事情があったのだろうが、一向にやって来ないものだから心配になった。電話しても出ないものだから、何か事故にでも巻き込まれたのかと思ってさらに心配になった。

 とにかく心配だった。通りすがりのサッカー選手にカニバサミタックルくらったとか、足踏まれて小指骨折したとか、グロインペイン症候群になったとか、ボールをクリアしようとして足を伸ばした何者かの足蹴りを腕にモロにくらって骨折で担架のお世話になったとか。

 彼女だったら、そういうことにもなりかねない。

 しかし、彼女はこう言った。

「だって……まさかあんなことでイエローカードが出るなんて」

 イエローカード?

 ということは、だ。

 つまりそれはサッカーでも観ていたということになるんじゃないのか。

「え? まさかサッカー観戦とかしてたの?」

 思い切って聞いてみた。

「違う。昨日はクラシコとかなかったし、国際Aマッチデーでもなかったからそこまで大事な試合はなかったわ」

「じゃあ何で」

「だって累積警告だったんだから、仕方ないじゃない!」

「……はい?」

「実は、パパに警告出されちゃって……」

 父親に家を出るのを妨害されたってことだろうか。

「ああ、あの二枚目のパパに」

 と僕が言ったところ、

「ううん、三枚目だったから」

 彼女がそう言った。

「え、あれで三枚目だったら、僕はどうなってしまうんだ……」

「え、まだ溜まってないでしょ。あなたのはこの間消化されたから今ゼロ枚だよ」

 つまり、あれか、二枚目にも三枚目にもなれない、舞台に立てない容姿って意味ですか!

「そこまで言うことないじゃないですか」

「は?」

「ん?」

 微妙に会話がかみ合ってないような気がする。

「なんか、宇宙開発してない?」

「なにそれ」

「ああ、急にボールが来たので……って方?」

 意味がわからない。

 しばらくの間、僕ら二人の間に沈黙が広がった。

 ハーフタイムってところだろうか。

 その沈黙を破ったのは、彼女だった。

「エラシコ、やめてよ」

「はい?」

 意味不明なことを言わないで欲しい。

「そうやって、あたしが何て言うのか出方を伺って、一気に抜き去るつもりなんでしょ。その手には乗らないっていうか、あたしには何もやましいことないんだからね」

「約束すっぽかしといてその態度ってないだろ!」

「たまたま走りこんだスペースにパスが出せなかっただけでしょ! 相手に読みの鋭いやつが居たの!」

「それにしたって、電話くらいくれればよかったものを、こっちは心配してたんだぞ!」

「え、心配してくれてたの?」

「当たり前だろ。そしてほら、これ、プレゼント」

 僕は彼女にサッカー用のヘアバンドをプレゼントした。

「ず、ずるい。こんなのもらっちゃったら、クリーンシートだわ」

 何だ、クリーンシートって。まぁとにかく、すごいことなんだろう。

「本当は、誕生日に渡したかったんだけど」

「ありがとう……」

 彼女にしては珍しく、お礼なんか言っちゃってた。

 こうして訪れた、再びの沈黙。

 彼女的には試合終了といったところだろう。

 ヘアバンドを大事そうにカバンの中にしまいこんだ。

 しかし、次の瞬間、彼女は驚くべき行動に出た!

 なんと彼女は、やおら服を脱ぎはじめたのだ!

 ジャージとインナーの裾を掴み、まとめてベロンと脱ごうとしている。

 公園には、まばらとはいえ人がいたのに!

「なななな! 何してんの!」

 遠巻きに見ている人も居た。このままでは彼女の肌というかスポーティ下着姿が衆目にさらされることに! それは彼氏として許容できない!

「何って、ユニホーム交換よ。試合後の」

「ちょっ、やめろって!」

 押さえつけると、彼女が顔を全力でしかめた。

「何? あたしとはユニ交換できないっての? そんなの許されるわけないでしょ! 脱いで。脱ぎなさいよ」

「な、なんでっ!」

「あたしはあなたの上着が欲しいの! 脱ぎなさい! 脱がない気なら、力づくで……!」

「ダメだって! ダメ! やめろ!」

「何? 他にユニホーム交換したい女がいるわけ? 浮気? トライアングルの関係をつくるっていうサッカーの基本は、あえて言わないようにしてたのに! なんで! ゆるせない! とにかく脱ぎなさい!」

 彼女はとにかく僕を脱がせようとする。力づくで。

「やめっ、やめろって!」

 着衣をぐしゃぐしゃに乱しながら、組んず解れつしているうちに、彼女ではなく僕の肌があらわになり、そして、ピピーというホイッスルと共に警察官が現れた!

 彼女は僕から引き剥がされ、連行されていく。

「へいレフェリー! そのジャッジおかしい! もう試合は終わったはず!」

 警察官の腕を振り払い、警察官を審判に見立てて手を後ろに組んで必死に抗議する彼女。

「いいから来るんだ、痴女!」

 二の腕を掴まれ、連れて行かれようとする彼女。

「それは僕の彼女です!」

 公園に響き渡る僕の声。

 すごく恥ずかしかったけど、彼女は痴女じゃない。ただのサッカー狂いの女の子なんだ。

 とにかく、僕の叫びによって、彼女が現行犯逮捕されることはなくなった。

 よかった。警察の人はすごい唖然とした顔をしてたけど、よかった。

 本当によかった。

 彼女を出場停止させるわけにはいかない。彼女は毎回ピッチに立ってフル出場するべき人で、代えのきかない人、チームの戦術上なくてはならない柱みたいな子なんだ。彼女がいなくちゃ僕が崩壊するような。

 そして彼女と僕は交番に連れて行かれ、二人で警察官に叱られた上、迎えに来たのは彼女の父親だった。

 彼女の父親は、無言で僕にイエローカードを提示した。

 やっぱり親子なんだな、としみじみ思った。

 ということは、だ。彼女が来られなかったのは、僕に原因があるんじゃなくて、この父親が彼女に向けて提示したイエローカードが累積した結果ということではないのか。

 でも、とにかく、僕がイエローをもらうのは納得がいかなかったので、用意していたイエローカードを頭上に掲げて応戦したのだった。

 僕らは交番の前で三人、トライアングルを形成して笑い合った。

「これはいい方のトライアングルだね」

 そう言った彼女は、とてもニコニコしていた。


  ★


 彼女が約束をすっぽかす時は、累積三枚で外出停止になる家庭用イエローカードが三枚溜まったときに限られるらしい。それでも、誕生日の一件があってから、そういう時にはちゃんと、「累積警告で今日は会えない」といった内容のメールが来たものだった。

 しかし、ある土曜日に彼女を一人暮らしの僕の家に誘って夜通し海外サッカー観戦を共にしてからというもの、彼女に会えない日々が続いている。連絡もつかない。

 連絡をとれないので会う約束すら取り付けられない。彼女の家に行ってみても、父親が出てきて、娘はいないと言われる。

 サッカーの規定をもとに考えるならば、「著しく品格を落とす行為があって長期の出場停止になった」みたいなケースが考えられる。

 もしかしたら僕の家で清らかな一夜を過ごしたということが彼女の父親の知るところとなり、長期の外出禁止という罰を受けたのではあるまいか。

 あるいは、あまり考えたくないことではあるが、彼女に飽きられてしまったということも考えられる。

 彼女はサッカー大好きであるから、もしも僕よりずっとサッカー好きでサッカーに詳しい人がいたら、その人を選んでしまうだろう。

「そうなったら、嫌だ」

 僕は、彼女が好きなのだ。

 ちょっと……いや、かなりサッカー狂いの女の子。ポニーテールも僕が贈ったピンクのヘアバンドもよく似合う、いつもラフな格好をした女の子。時にはジャージで来ることもあるくらいの自由さで、いつも僕を魅了してきた。

 強引な突破も時には必要なのかもしれないと思ったのは、いつかの彼女の言葉を思い出したからだ。

 ――とりあえずアタッキングサードに入れっていうか……。

 思えば、今まで何もしてこなかった。

 なかなか彼女に踏み込まなかった。敵陣に入っていなかった。

 僕は、いつもディフェンディングサードをうろうろしていたように思う。

 今では、出会いたての頃に彼女が何を言わんとしていたのかを、半分以上理解できるようになった。

 要するに、彼女は――。

 僕を誘惑していたのだ。

 チャージチャージチャージチャージ。ガンガンチェイスをかけなさいよ。と、そういうことだ。もっと僕にアタックかけてきてほしいと言っていた。

 彼女の、「もしも私がボールだったどうする?」という問いへの正答例は、単に「足蹴にする」のではなく、ゴールに運ぶのだ」ということだったに違いない。

 あんなわかりにくい誘惑ってあるか?

 わけのわからない言葉を並べ立ててさ。

 でも、もしかたら、彼女なりの照れ隠しだった可能性もある。

 とにかく僕は、彼女との仲を取り戻すべく、スーツを着こんで彼女の家へと向かった。



 インターホンを押すと、いつものように彼女の父親が出て来た。半端ない格好よさのおとうさんだ。

「娘なら、おらん」

「嘘ですよね、おとうさん」

 キックオフだ。

 僕には強い決意があった。

 絶対に彼女と一緒になるという覚悟があった。

「娘さんは、中にいるはずです!」

「いや、いないなぁ」

 長身で整った顔立ち。このお父さんの娘である彼女が美人なのも頷ける。至って普通のモテない僕とは比べようもないほどだ。

 それでも僕は、この父親から、彼女を奪い去らないといけない。

 そして父は唐突に、こんなことを言った。

「――歌えるのか」

 普通の男ならば、ここで自分の得意な歌を披露して追い返されているだろう。しかし、ここでいう歌が歌えるのかという質問を、サッカー狂風の言葉に変換しなければならない。彼女の家はおかしいからだ。

 サッカーで歌といえば何だ。それはチャントだ。チャントという名の皆で歌う応援歌だ。

 つまり、チャントできるのかを平仮名だけにすると、ちゃんとできるのかになる。ちゃんとする。言うまでもなく、しっかりするという意味だ。

 だからこれは、娘を幸せにできるだけのことを、ちゃんとできるのか。どれほどしっかりした誠意を示せるのか……という意味に違いない。

「ちゃんとできます」

 僕は返した。

「ほうやるな。だが、正解じゃない。帰れ」

 そうして玄関の鉄扉は閉じられてしまった。

 おかしい。僕の回答はおとうさんの意図を完全に読み取ったはずだ。とすると、これは、あれじゃないか。ホームに有利な笛。そう、ホームタウンディシジョンというやつだ。

 納得がいかないが、抗議しようにも、もう彼女の父親は家の中に引っ込んだ。もう一度出て来て下さいと言っても、それは難しいだろう。

 僕は、もう一段階勇気を出すことにした。

 あのお父さんは、ストライカータイプだと思う。たぶん、守備力はあまり高くない。そうそうカテナチオ的なものをかけられないタイプだ。

 一度は帰る素振りを見せた僕だったが、ジャンプして、塀にとりついた。

 塀をつたって歩き、彼女の部屋のベランダに飛び移る。

 窓を叩いた。

 閉じられたカーテンの先に、きっと彼女が居ると思ったんだ。

 見れば、窓の鍵は開いていた。

「僕だ、入るよ!」

 ところが!

 窓とカーテンを勢い良く開いた先に居たのは!

「アウェーゴール未遂だな」彼女の、父親。「まさか娘の部屋に忍び込もうとするとは思わなかった。そういったしたたかさもあるのか。だが残念、オフサイドだ」

「僕の行動は、読まれていたというわけですね」

「だてに長く生きてりゃせんよ」

 ベテランとの経験の差を見た。

 その時、僕は部屋のベッドにジャージ姿の彼女が座っているのを発見した。真剣な眼差しで僕を見ていた。

「お父さん、やっぱり娘さん、家の中に居たじゃないですか!」

「うるさい! 貴様などに娘をやれるか!」

「うわー頭きましたよ! 何度も嘘ついて娘を隠すとか、大人のすることですか! 選手が怪我してると見せかけて代表召集回避する強豪クラブチームみたいな卑怯さですよ! 彼女の父親なのだから紳士なんだろうなぁって期待した僕がバカでした!」

 そんなタイミングで、視界の扉が開き、女の人が入ってきた。騒ぎを聞きつけた彼女のお母さんだろうと思う。メガネを掛けた知的そうな人だ。

 それで、隙ができた。おとうさんが首をねじって、扉の方を見たのだ。

「隙アリィ!」

 僕は叫び、二枚目な彼女のお父さん、そのみぞおち目掛けて頭突きを見舞う!

 頭頂部に衝撃が走る。

 非常に硬い胸板に激突した頭に、ジンジンとした痛みが響いた。

 かなり強い頭突きだったと思う。なのに、父親はぴんぴんしていた。何事もなかったように僕を見下ろしていた。

「くっ……」

 効いていないのかと思ったが、次の瞬間、おとうさんは「ぬぐぐ」と言いながら腹を押さえて倒れこんだ。

 すると、すかさず彼女の母親がホイッスルを吹き、僕にレッドカードを提示する!

 一発レッドというやつだ!

「おかあさん!」

 と、叫び抗議した彼女にも、毅然とした態度と表情で笛の音と共にレッドカードを提示した。

 僕だけじゃなく、彼女にまでレッドとは!

 僕はむくむくとした怒りを抑えきれず、ベッドの彼女のあたたかくて柔らかな手を引いて、窓から外へと抜け出した。

「行こう! こんな家、よろこんで退場してやろう!」

「うん!」

 彼女の嬉しそうな声を背中で聞いた。



 僕たちは、息を切らしながら、いつもの公園のベンチに座った。池で反射した太陽の光がきらきらしている。

 彼女はジャージの上を脱いで、僕もスーツの上着を脱いだ。

 深呼吸を繰り返し、緑の匂いを吸い込んで、ようやく落ち着いたところで、彼女は池の方に顔を向けたまま言った。

「ごめんね。連絡できなくて」

「いや、だいたいの事情は、想像ついてる」

 彼女は、そっか、と言った後、続けて、

「あたしね、お父さんとケンカしたんだ。あなたの家に泊まったことがバレて、あたしは本気であなたのことが好きだって言ってね、そしたら、ゆるさんって言われて」

「そうなんだ」

「おじいちゃんが死んだとき以来だよ。あんなにケンカしたの」

「え、人が亡くなった時に、ケンカとかってするもんなの? もしや、相続問題とかで何か……」

「ううん違くて。だって、その時、あたしまだ子供だよ?」

「あ、そっか。ごめん」

 しかし彼女は、気にする様子もなく、思い出話を続けた。

「おじいちゃんが死んじゃった時、最後のお別れの時にお父さんは言ったの。『いいか、お前のじいちゃんは戦力外通告されたんじゃない。立派に引退したんだ』って。その時にあたしは怒って、『天国にレンタル移籍しただけだもん』って言った。子供だったんだよね……。そうしたら。お父さん、もうすっごい怒っちゃって。『現実を直視できないような娘など!』って言って、お料理ひっくり返して……。お父さん、すぐカッとなるところあるから。昔は不良少年で、悪童なんて呼ばれてることもあったし」

「そうなんだ……」

 僕はそんな恐ろしい人を相手にしていたのか。

「お父さんはね、おじいちゃんを尊敬してた。だからこそ、あたしの現実逃避的なレンタル移籍発言を許せなかったんだろうね。ちゃんと気持ちよく引退させてあげたかったのかもしれない」

 僕は、彼女の横顔を見つめながら、何も言わずに相槌を打った。

 そして彼女は僕の方を見て、言うのだ。

「お父さんもね、ああして、おじいちゃんと戦ったんだって」

 それを聞いて、ピンときた。おとうさんの不可解な言動や、彼女に提示されたレッドカードの意味がわかった。

 そう、父親との戦い、それは繰り返されてきた伝統の決戦。

 すなわち――!

「クラシコだったのか!」

「うん。そういうこと」

「じゃあ、僕は、勝利したってことでいいのかな」

 しかし彼女は「うん」とも「いいえ」とも言わず、

「クラシコは、何回だってあるからクラシコなんだよ」

「なるほど」

 僕たちは、キックオフを繰り返してゆく。

「あたしはね、最初、あなたのこと、すごく情けない人って思ってた。慎重すぎるくらいで、全然攻めてくれなくて。だけど、今日のあなたはカッコよかった」

「これからも、時々はカッコよくなろうと思ってるよ」

「うん。時々でいいから、魅せてね」

 そして、僕はベンチに座ったまま、初めて彼女を抱きしめた。

 わずかな沈黙があった。噴水の音や鳥の声、風が枝葉を揺らす音が大きくなった気がした。

 僕は彼女の耳元で囁く。

「ねぇ、僕はさ、これから、いくつもゴールを決めようと思う。そういう時には、かならず君にアシストして欲しい」

 すると彼女も耳元で、泣いて震えたみたいな小さな声で、

「そう言ってくれたあなたに、あたしはバロンドールをあげたい」

 きっとそれは、嬉し涙というやつだろう。

 僕は彼女に、先刻脱いだ上着を渡す。

「一緒になろう。そして、何度も、素敵なダービーを繰り返していこう」

 引退の、最期のホイッスルが鳴る、その時まで。





【おわり】



★いいかげんで余りにも不完全な用語解説


フィロソフィー:哲学と訳されるが、ここではサッカー哲学のこと。その人にとってのサッカーとは何か、どのようなチームを理想としているのかといった意味で使われることが多い。


キックオフ:試合開始のこと。


バックパス:後ろの選手にパスすること。


マリーシア:試合中の駆け引きのこと。汚いプレーを含んで指すこともあり、これが嫌いだと言い張る人もいるが、それもサッカーであると言う人もある。


イエローカード:警告の時に審判が頭上に提示する黄色い板。


カテナチオ:「鍵をかける」という意味。イタリア伝統の堅い守備を指す。


フェイント:あっちいくとみせかけて、こっちいくとか。相手を騙す動き。


フィジカル:体の強さ。


パワープレイ:前線の選手の枚数を多くすること。長いパスなどを多用することが多い。


サイドチェンジ:ボールを逆のサイドに動かすこと。


くさび入れる:攻撃のスイッチになる縦パス。


アーリークロス:サイドの浅い位置からゴール前へのクロス。


ニア:ボールのある場所からみて、近いポスト側をニアサイド。遠いポスト側をファーサイドという。サッカー中継を見ていると、よく実況が「ニャー!」と叫ぶことがあるが、猫が取り憑いたわけではない。ニアにボールが行った時に興奮してこう叫ぶのである。なお、遠いサイドにボールが行ったときに「ファー!」と叫ぶこともあるが、ゴルフをやっているわけでもない。毛皮を愛でてもいない。


オーバーラップ:後ろの選手がボールを持ってる選手を追い越していくこと。


クライフターン:ボールを蹴ると見せかけて、クイッとフェイント。クライフさんがやってたからクライフターン。


マルセイユルーレット:ジダンという選手がよく使っていたテクニカルなドリブル。くるっとまわるやつ。


ヒールリフト:踵でボールを蹴り上げ、背中側から前方にボールを蹴り出してビックリした相手を抜き去るドリブルテクニック。


ラボーナ:軸足の後ろからボールを蹴ってパスする技術。蹴った時、足がX字になって、とてもカッコイイ気がする。これもテクニカルなもの。


ポゼッション:自チームがボールを保持すること。


カウンター:相手に攻めさせ、相手が前がかりになったところでボールを奪って一気に反撃でゴールを襲う戦術。ここで「彼女」が批判したのは、自陣近くまで下がって守備をして長いパスを放り込むなどして攻撃の機をうかがう事であり、守備に偏って受身に回るのは好きじゃないと言っているのである。なお、ショートカウンターは前線からボールを追いまわし、チーム全体が前掛りになることが多いので、彼女の好みなのである。


ゼロトップでベタ引き:全員で守る、という感じにとらえていただければ。


ミドル:ミドルシュートのこと。少し遠い距離からのシュート。


デコイラン:囮になって走ること。


裏を狙う動き:相手のディフェンスラインの裏に抜け出そうとする動き。


フォアチェック:前線から積極的に守備をして、相手のディフェンスにプレッシャーを与えること。


削り:相手にダメージを与えるような少々乱暴なプレー。


アタッキングサード:敵陣。コートを三分割して、その最も攻撃的な敵側の三分の一エリアをアタッキングサードという。逆に自陣側三分の一をディフェンディングサードと呼ぶ。


オフザボール:ボールを持っていないときの動き。


アンカー:守備的な中盤の選手。役割としては守備偏重。


アディッショナルタイム:空費された時間。日本ではロスタイムとも言う。終了前に数分ある追加時間のこと。特に後半終了間際の時間帯には、幾度と無くドラマチックな展開が生み出されてきた。


トータルフットボール:流動的かつダイナミックなサッカー戦術。全員攻撃、全員守備を理想とするが、実現が難しいとされる。現代のサッカー戦術に大きな影響を与えたといわれる。


ファウル:反則のこと。


ゴールデンゴール方式:延長戦で、先に一点をとった方が勝ちになるというルール。ヴィクトリーのVで、延長Vゴール方式と呼ばれていたこともあれば、かつてはサドンデスと呼ばれていたこともあった。


バイタルエリア:ディフェンスラインの前にあるスペースのこと。


レッドカード:これが出たら退場。一試合で二枚イエローが出されると、これが出る。


オウンゴール:うっかり自陣のゴールに決めてしまうこと。かつては自殺点と呼ばれていたこともあった。


出場停止期間:イエローカードが溜まったり、レッドカードをもらったりすると、何試合か出場できない場合がある。


カニバサミタックル:非常に危険なタックル。


グロインペイン症候群:恥骨など股関節周辺の病変の総称。


クラシコ:伝統の一戦。単に「クラシコ」といった場合、主にレアルマドリードとバルセロナの対決を指すことが多い。


国際Aマッチデー:その国の最強チーム(A代表という)が相手の最強チームと戦える日。国際Aマッチデーには、クラブチームは代表選手の召集を拒否できないので、普段クラブチームでは見られないチームを見ることができる。


宇宙開発:あさっての方向にシュートかますこと。主に上方へふかすこと。


急にボールが来たので:あとはちょっと触るだけで簡単入るだろうってシュートを外すこと。通じてくれるはずのパスが通ったはずなのに、まさか外すなんて、といった感じ。


ハーフタイム:試合中の休憩時間。前半と後半の間。


エラシコ:ドリブル技術の一つ。まず足のアウトサイドで触って相手の様子をうかがい、引っかかったところでインサイドに切り替えて抜き去るというテクニカルなもの。


クリーンシート:無失点で試合を終えること。ここでは完封されちゃったわ、みたいなことが言いたかったようである。


ユニホーム交換:試合後に健闘を称えあうために互いのユニホームを交換する光景がよく見受けられる。


レフェリー:審判。


ジャッジ:審判が下した判定。


トライアングル:三角形。たとえば一人のボール保持者がいたとして、それを二人がサポートしてパスコースを二通り作るなど、三角形を意識してプレーするのはサッカーの基本である。


累積警告:イエローカードが溜まると出場停止になる。


チャージ:ボールを持った相手に、肩など身体をぶつけてボール奪取したり攻撃妨害すること。要は体当たり。悪質な場合はファウルになること多し。


チェイス:前線の選手が、ボールを持っている相手に向かっていってプレッシャーをかけまくること。あわよくばボールを取りたがること。


チャント:応援歌。スタンドからおくられる声援歌。


ホームタウンディシジョン:ホームに有利な笛。中東の笛などと呼ばれる露骨なものもあるが、審判も人間である。試合会場の雰囲気にのまれて観衆の反応に引っ張られたレフェリングをしてしまうこともあるかもしれない。


ストライカー:点取り屋。ここでは、それに特化したタイプという意味。


アウェーゴール:敵地、つまりアウェーで獲得する得点のこと。ホームとアウェーで試合を行い同点だった場合、アウェーで挙げた得点数で勝ち上がりが左右される大会があり、そういった場合、このアウェーゴールが非常に重要で貴重なものになってくる。


オフサイド:待ち伏せ行為。オフサイドポジションでプレーに関与したと判断されると、副審が旗をふり上げ、主審がホイッスルを吹き、プレーが止まる。ゴールネットを揺らしたかと思ったら、この反則をとられていて、得点したと思ってハシャいでいた選手がぬか喜び、というケースは非常に多い。


選手が怪我してると見せかけて代表召集回避する強豪クラブチーム:実際にそういうことしてるクラブがあるかどうかは不明。


戦力外通告:ありていに言えばクビ。


レンタル移籍:選手が貸し出される形で移籍すること。若手に経験を積ませたり、自チームで何らかの理由でその選手が使えない場合などに、他のチームに貸し出したりすることがある。多様な契約形態があるが、ここでは、いずれ自分のところにかえってくること前提のレンタル移籍を指す。


アシスト:ゴールを決めた選手の直前にボールに触った味方選手のプレー。


バロンドール:年間最優秀選手。世界最高選手の称号と言ってもいいだろう。


ダービー:定義はいくつか存在するが、ここではローカルダービー、つまり同一自治体内のクラブ同士や、本拠地を同じくしているクラブ同士が戦うことをダービーとしている。たとえば、横浜マリノス対横浜フリューゲルス、みたいな。



 以上になります。

 なにぶんサッカー専門家ではありませんので、誤用や曲解等あるかもしれません。そういった場合は、是非気軽に感想などで御指摘いただければと思います。

 お読みいただき、誠にありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
[一言] 脱帽です。すばらしすぎるし、彼女かわいい
2014/06/13 14:18 退会済み
管理
[良い点] 読みましたので感想でも。 サッカーヲタクにとってはとても楽しい作品でした。専門用語全部わかりました。 [気になる点] サッカーヲタク以外お断りな作品であること。わかりきったことですね。 …
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