第85話 明かされた過去
光の空間に足を踏み入れた瞬間、セトの口からは感嘆の声があがった。その空間の壁は黒い鉱石でできており、その鉱石の中に無数に光る鉱石が存在し、それが一見すると夜空の星のようにきらきら輝いていたのだ。また、床は一面純白と表現したらよいのか、白く光る鉱石がびっしりと敷き詰められていて、この空間が光って見えたのはこの床のせいだとわかった。
「すごい…」
ルティもカスティも言葉を失っている。今まで見てきた中で最も美しいと呼ぶにふさわしい光景だった。
「セト様に気に入っていただけて嬉しい限りです」
グレイオは本当に嬉しそうに頬を緩め、優しげな表情を見せた。
「この空間は、神が作られたと言われる神聖な空間なのです。我々竜だけがこの場所を知っております故、どうか竜以外には他言無用で頼みます」
グレイオはそう言うと、カスティにチラと視線を向けた。カスティが誰かに漏らしはしないかと思っての行動だったが、カスティは「分かってるよ」といい加減グレイオの自分に対する扱いに呆れながら、頭をガシガシかいて答えた。
グレイオはそんなカスティの態度にふんっと鼻を鳴らすと、「セト様、大婆様はあちらです」とセトを案内した。若い竜たちは知り合いを見つけたのか、セトに「我々はこれにて失礼します」と深々と頭を下げて、人(竜)が集まって何やら楽しげに話しているところへ駆けていってしまった。アドナもそれを見て、「あの…あたいも仲間を探してきます」と会釈程度に頭を下げて、大勢の竜の中に姿を消してしまった。
竜の神殿というから、皆てっきり竜体となっているものだと思っていたが、どうやら人型の方がこの神殿では動きやすいそうで、竜体でうろうろしている竜は1頭もいなかったことはセトにとってちょっと意外だった。
「セト様、あの方がこの神殿の管理者であり守護者の大婆様です」
きょろきょろとあたりを見回していたとき、グレイオがセトにそう告げた。グレイオが視線を向けた先に目をやると、なるほど、体はやせ細り、顔には深いシワが刻まれているが、その体からはその辺の竜とは比べ物にならないほどの濃い魔力と気迫を感じ取れた。髪の色は銀色だから、竜体の鱗も綺麗なシルバーだろう。これが1000年以上生きているという竜の存在感か。これは敬意を払わないといけないな。
彼女はこの神殿の空間の少し高くなっている箇所に鎮座しており、彼女の前にはすでに大勢の竜が集まっていた。
「これから、大婆様からのお言葉が聞けるのです。そのためにこうして皆集まってきました」
グレイオの話によると、どうやらこの大婆様は数年に一度竜族にとっての危険や良いこと、…とにかく、予言のようなものを竜族に伝えるのだそうだ。話す内容はその時によって重大なものだったり、どうでもいいことだったりと様々だそうだが、皆この日を楽しみにしてきているとのことだった。
グレイオからの説明を受けていると、大婆様の両隣に何やら武装した竜体の雄竜2頭が現れ、片方ずつ大婆様から左右に広がるように翼を広げ、そのまま石像のように固まった。グレイオによると、あの2頭は大婆様の護衛を長年勤めている竜で、竜のなかでも別格の力を持つ2頭なのだそうだ。
「セトに比べたらその“別格”も霞みそうだけどね」
と、カスティが肩を竦めながら呟いた。ルティもそれに「そうだね~」と賛同している。ルティが未だ人間の姿をしているのは、やはり竜であっても天虎という種は大変に珍しいものであるため、不用意に竜たちを驚かせてしまうと考えてのことだった。幸い、竜たちも神殿の中では人間の姿をとっていることで、カスティやルティの存在はあまり目立ってはいなかった。気配に敏感なものや、長年生きている竜たちには感づかれているようだが。セトはもちろん魔力を普通の竜並みに抑えていた。
『皆、集まっておるかな?』
ふと、重低音が頭の中に響いた。途端、賑やかだった神殿の中が水を打ったように静まり返った。念話の出処は護衛役の竜からだった。2頭は、神殿の中にいる竜たちの様子を観察し、全員が大婆様に注目したことを確認して言葉を繋いだ。
『大婆様からのお言葉である』
護衛の竜の念話が残響のように頭の中に響き、それが聞こえなくなるころ、大婆様の閉じていた目がゆっくりと開いた。その瞳の色は透き通おるような青。どこまでも見透かされそうな青。
彼女は集まった竜たちの顔をひとつひとつ見渡し、まるで愛しい我が子が目の前にいるかのようになんとも優しげな微笑みを見せた。
「皆、遠路はるばるよくぞまたこのオババのために集まってくれた。まずはお疲れ様と言わせておくれ」
彼女がなにやら呪文を唱えると、ふわっと身体が暖かくなるのを感じた。
「それはオババからの労いじゃ。長旅で消費した体力も魔力も回復したじゃろう」
これは竜たちにとってなんとも嬉しいプレゼントだ。とは言っても、神竜であるセトは体力も魔力も自動回復してしまっていたため、あまり効果はなかった。それでも暖かいお風呂に浸かった時のような心地よさが身にしみた。
「さてさて、皆は前の集まりでわちが何を言ったか覚えておるかな?」
彼女の問いかけに、竜たちはコクコクと頷く。グレイオは何故かチラ、とセトを見た。その視線に気づき、セトはグレイオに首をかしげたが、彼は何も言わず大婆様に視線を戻した。ところで、この目の前の老人、一人称可愛いな…。
「そうじゃ、わちは前回、竜にとっても世界にとっても大きな者がこの世界に現れるであろうと話したのう」
カッカッカと何やら楽しげに話す大婆様の話を、竜たちは期待を込めた目で見つめている。
…ん?竜にとっても世界にとっても…?さっきグレイオが俺を見たのってもしかしてその予言めいた話の“大きな者”が俺だと言いたいのか?そう思って横目でグレイオを見ると、バッチリ目が合い、彼は慌てたように視線を再び大婆様に戻した。
「わちの未来視が正しければ、お前たちの中にそれに関する情報を持ってる者がおるはずじゃ」
大婆様はそう言うとまたゆっくりと集まった竜たちを見回した。ほれ、誰かおらぬか、と。すると、ちらほらと手があがった。そして大婆様がその竜たちをランダムに指名していった。ここにいる竜すべての顔と名前を把握しているのかということに、セトは驚きを隠せないでいた。
…いやまてよ、だとしたらもう俺たちは新入りだとばれているわけだ。
そんなことを考えていると、大婆様とちょうど目が合った気がして、つい、苦笑いがこぼれた。
「グランティス大王国で、漆黒の鱗を持つ天竜が現れたと噂で聞きました」
「いやいや、俺は純白だと聞いたぞ」
「神竜ではないのか?」
「黒い神竜様なんて、私は聞いたことがないのだけれど?」
「最近その王国から逃げ出すように飛び去った黒い竜がいたと聞く」
「なに、それは本当か。本当に神竜様だとしたら速く俺たちで匿ってやらんと」
「人間は竜に何をしでかすか分かったものではないからな」
1人の言葉を皮切りに、次々と自分の持つ情報や考えを話す竜たち。グレイオは先程からチラチラとセトばかりを気にしている。どうやら、この場でバラしてもいいものかどうか迷っているようだ。魔力は抑えて普通の竜並にしているが、どうせ神殿にいる間にバレるだろうと考えて、セトが別にいいよと口を開きかけたとき、大婆様が先に言葉を発した。
「漆黒の天竜、いや、中身は神竜様か。懐かしい響きじゃの。最後に神竜様に会うたのはいつだったかのう…」
と、大婆様が目を細めて遠くを見つめ、懐かしそうにそう言った。…途端、一拍おいて、神殿の中に竜たちの驚愕の叫びが響き渡った。
「「「「「「 ぇぇえええええええええ!!?!? 」」」」」」
それもその筈。神竜が最後に現れたのは遠い昔という話で、もはや竜たちの間でも口伝でしか残っていない存在なのだ。昔々…と語られるほどに。しかし、目の前の老婆はその存在に会ったことがあるというような口ぶりだ。両隣の護衛役の2頭が役目を忘れて口をあんぐりと開けているのは悪くない。どうか彼らを責めないでやって欲しい。
「お、大婆様、一体おいくつなんですか!?」
つい、といった様子で若い竜が放った言葉に、神殿の中にいる全ての竜が頷いた。
「ほっほっほ、乙女に年を聞くもんじゃないわい」
大婆様はにぃっと笑ってそう答えたが、誰も彼も頭の中では「乙女……?」と疑問を抱いた。それはそうとして、この人本当に何歳だよとセト一行も若干目の前の現実を疑いたくなった。いやそもそも、竜の寿命は何年だ!?
「聡明な方じゃった。ほんに、ほんに聡明で、わしら竜を我が子のように可愛がってくださった。しかしそのくせ照れ屋という意外な一面もあってな、女どもは面白がって色仕掛けをしてイタズラしたもんじゃわい。竜族皆が慕っておったよ」
続けて、ふと顔を曇らせて話した大婆様が語った神竜の話はこのようなものだった。
神竜がいたその時代、神竜の人格(竜格?)にほとんどの竜が惚れ込み、慕っていた。それは竜だけにとどまらず、全ての生き物が同じように神竜を慕い神竜の元に集まった。魔法を何よりも得意とし、神竜にできないことはなかった。病んだ者をたちまち治し、餓死しそうな者には十分な食料を分け与え、痩せた土地はたちまち緑が生い茂る潤った土地へと変えた。命を落とした者はその直後であれば生き返らせることもできたという。そうして、生き物は神竜のもとで何不自由なく幸せに暮らしていた。
そんなある日、天から幾人もの神が降りてきて、神竜にこう告げた。
“貴公の行いは我が子らの成長の妨げとなっている”
曰く、神竜の存在はこの世界の生き物たちにとって悪影響を及ぼしていると。曰く、神竜があまりにも容易く命を救うことで、生き物たちは命の大切さを忘れてしまっていると。曰く、神竜はこれ以上この世界の様々なことに干渉すべきでないと。
そう告げられて、神竜はしかし、と食い下がった。争いなく暮らせているのはいいことだ。見よ、この平和な光景を。どの種族も手を取り合って、お互いの長所を生かして助け合って暮らしているこの光景を否とするのか、と。
神々の答えは“否”だった。
“その光景に至るまでの過程に問題があることに何故気づかない”
“やはりお前を地上に送り出すには早かったようだ”
神々は神竜にそう言うと、神竜の魂を天に連れ戻そうとした。神竜は「自分を天に戻してどうするつもりだ」と必死に抵抗しながら叫ぶと、神々はそれに対し、神竜の魂の代わりに神々の意思を魂として宿らせると答えた。
「その意思とやらで、子らをどうするつもりだ」
“争いの心を蘇らせ、子らで競い合い、奪い合い、互いの種を高め合ってもらうのだ”
それを聞いた神竜は激怒したという。子らに殺し合いをさせるつもりか、と。神はそうだと頷き、尚も神竜の魂を天に引っ張った。
「やめろ、このまま平和でいさせることの何が悪いのだ」
神竜は自分の考えを伝えた。一度殺し合いを始めたら憎しみが憎しみを呼び、血で大地が染まるぞ、と。しかし神々の考えは神竜とは全く真逆のものだった。
“平和は何も生み出さない。争いこそが生物を新たな高みへ導くのだ。勝つために知恵を付け、知識を使い、技術を磨くようになる。そうなれば文明も発達しよう。だがお前が子らを過剰に助けたせいで子らは考えなくなった。全て神竜の考えが正しいと信じ込み、自分の考えよりも神竜の考えを優先し、頼り、自分から動くことをしなくなってしまった。それは子らのためになっているとは言わない。貴公が子らにやったのはただの甘やかしだ”
そう言われた瞬間、神竜はハッとした。しかしすぐに苦虫を噛み潰したような表情でこう返した。
「確かに私はやりすぎた。干渉しすぎた事を認め、反省しよう。しかし争いは憎しみをも産む。憎しみがある限り争いは無くならない、平和は訪れない」
それに対し、神々は“それでよい”と返し、一気に神竜の体から魂を引き抜き、代わりに神々の意思…つまり、“争いを望む魂”を入れた。しかし、神竜の魂は天に引き戻される直前、魔力と気力を振り絞って自身の神としての能力を使い、別の世界と次元に逃げ込んだという。去り際に『必ず戻ってくる』と言い残して。
それからは神竜の身体に入った神々の意思による生き物たちへの洗脳が始まり、それによって他種族への悪い噂が流され、他種族への攻撃、虐殺が起こり始め、世界は荒れ始めた。また、神竜が一番可愛がっていた竜たちは、二足歩行の状態から竜の姿に戻れなくされ、魔力も大幅に削られた。竜族は生き物のなかでも最も魔力が高く、神竜からも様々な知識や魔法を学んでいたために、神竜のことで集団で行動を起こされると神々にとって厄介な存在となると危ぶまれてのことだった。…こうして人間という種が生まれたのだという。それでも一部の竜たちは天竜の作った結界により永久的人間化を免れた。
そうして種族は分裂し、戦争を引き起こした。しかし、そのうち勝った方の種族が負けた方を統治し始めたり、もともとの優しさから和解をしたりと、争いが小さくなっていったことを見ていた神々が、次の争いの手段として地上に送り込んだのが“魔族”なのだそうだ。ちなみに最初に生まれた“魔物”は死んだ魔族の死体を喰らった動物から派生したのだそう。
非力な人間となった元竜たちは魔物や魔族に追い回され、他種族、主に元は同じ竜族からの支配を強く受けることとなった。
それから幾千年と時がたち、現代に至るのだそうだ。
大婆様からのとんでもないカミングアウトが終わると、神殿の中はシーンと静まり返っていた。
この世界の真相に迫ったこともそうだが、それよりもセトはその後の神竜がどうなったのかが物凄く気になっていた。その争い意思とやらを入れられた神竜の体は現在どうなっているのか。別の世界と次元に逃げ込んだ元神竜の魂はどうなったのか。それに一部の竜たちを神の干渉から守った天竜の行方はどうなったのか。セトにとってはただただそれだけが気がかりだった。
「人間と竜が…」
「まさか…」
竜たちはもっぱら、いがみ合っていた人間たちと自分たち竜族のルーツが元は同じだったということに驚きとショックを隠せないでいた。グレイオも同じように驚いていたが、セトの正体を知っているために、セトという存在について分からなくなり、他の竜よりも混乱していた。
「で、ではこの世界にいる神竜の身体は…セト様は…いや、だが…セト様は一体…?」
と、一人でぶつぶつと呟いている。もはや彼一人の頭で処理しきれる内容ではなかった。
神殿にざわめきが広がってきた頃、護衛役の2頭がやっとのことショックから無理やり立ち直り、竜たちの意識を大婆様に引き戻すために念話で注目してもらった。
『し、静まれ!』
『まだ大婆様のお話は終わってはおらぬ!』
その念話で再び神殿に静寂が戻った。皆、大婆様から発せられる次の言葉に耳を傾ける。大婆様はふぅと息を吐いた。
「このことは誰にも話したことがなかったからの、皆がそう驚くのも無理はないのぅ。じゃが、これは今日、この場でないと話せないことじゃった…」
その言葉に、どういうことだと皆首をかしげた。
「そう、この場に神竜様がいらっしゃっておるこの日でないとな…」
そう言って、大婆様はセトをしかと見据えた。その瞬間、神殿中の全ての竜がセトを見た。認識した。再びざわめきが大きくなる。
「神竜様?」
「神竜様が現れたという噂は本当だったのか?」
「あの黒い鱗の者が神竜様であると?」
「神竜様であるならばあの普通の魔力量はなんなのだ」
セトの鼓動は今まで感じたこともないほどに速く脈打っていた。体内の魔力が心の動揺と比例して不安定になりつつある。ルティもカスティも今の話に驚き、セトをただ見つめることしかできていなかった。
「このオババの目は騙されませんぞ。その容姿と纏う雰囲気…貴方様は間違いなくあの時代わちらを導いてくださっていた、神々に干渉される前の神竜様であらせられますな」
言いながら立ち上がり、セトの手前まで歩いて来て、セトの足元に跪いた大婆様を見て、ついに竜たちもセトを大婆様よりも敬うべき存在であると認めざるを得なかった。次々に彼女を見習って片膝をついてゆく。
「!?」
セトは混乱していた。確かに自分は神竜だ。しかし今大婆様が話したようなことを覚えていないし、そもそもこの世界で目覚めるまでの記憶がない。もし竜たちが俺に何か期待しているのだとしたらそれに応えるだけの答えを俺は持ち合わせていない。
「ちょ、まっ…」
セトが何か言う前に、大婆様が言葉を発した。
「神竜様、よくぞ戻ってこられました。覚えておられないかもしれませぬが、わちは貴方様と共にあの時代の平和を作り上げるお手伝いをした天竜、アマツチでございます」
「…アマ…ツチ………」
そんな名前は知らない。戻ってきたと言われても自分がどこから来たのか分からない。彼女が語った神竜と自分は全くの別人ではないのか。そんな考えが一瞬にして頭を巡ったが、アマツチというその名前に、とてつもない懐かしさと罪悪感を覚え、セトの目から涙が一筋流れた。自分でもどうしてそんな感情になったのか分からず、流れた涙に驚いた。
「セ、セト?」
「セトさん?」
ルティ、カスティはセトの涙に驚き、思わずといった様子でセトの着物の裾を掴んだ。二人の頭を撫でながら、セトは涙を拭いながら困ったように笑みを浮かべた。
「なんでこんな気持ちになるんだろうな…。何一つ、覚えてないのに…」
竜たちはというと、大婆様が天竜であったということにまた驚き、パクパクと魚のように口を動かしていたところに、今語られた神竜であるセトの口から「何も覚えていない」発言だ。脳の情報処理が間に合わず、考えることを放棄しそうになっていた。ショート寸前だった。
大婆様…もとい、アマツチも、セトの発言には驚きを隠せないでいた。
「何も…覚えてらっしゃらないと…?」
セトは彼女の目を見ながら、今更かと隠していた魔力を解放した。途端、竜たちに底の見えない魔力の圧力がかかり、セトの髪が黒から白へと変わる瞬間を目撃した。一息おいて、セトは言った。
「この世界で目覚めた時、洞窟の中だった。それより前のことは何も覚えてないんだ。……すまない」
セトが頭を下げた。それは何に対する謝罪なのか…。そんな大切な歴史を忘れてしまっていることか、それとも竜たちを残して別の世界に逃げてしまったという事実に対してか、現在の竜に対して何もしてやれない可能性があることに対してか…またはそれら全てに対してなのかは、当事者のセトにもわからなかった。
しかし、竜たちは現在のセトの姿と魔力、何よりも大婆様がセトを神竜と認めたことでセトを神竜と認め、また神竜がこの世界に存在しているという事実だけで良かったようだ。今にも竜体に戻り、猫のようにセトに擦り寄りたくてたまらないといった様子で竜たちの魔力が安定していない。
「そうですか…。しかし、貴方様はわちの名前を聞いて涙を流されました。つまり完全に記憶がないというわけでも無いようですな」
アマツチは自分に言い聞かせるようにそう言うと、少し嬉しそうに、しかし悲しみも混ざったような複雑な表情になった。
「アマツチ…」
セトは彼女の心を想い、再度確認するように名前を口にした。アマツチはたったそれだけで嬉しそうに微笑んだ。しかし再び表情を曇らせ、語った。
「貴方様の身体を乗っ取り、操った神々の意思が作った世界はそれは酷いものじゃった。来る日も来る日も戦争、戦争、戦争…。洗脳された者たちを正気に戻すのは容易ではありませんでしたが、なんとか洗脳を免れた竜族や、わちと同じように種族の中でも特異な能力を持つものを集って、ゆっくりとこの世界の騒乱を鎮めていきましたですじゃ」
アマツチがそこまで話したとき、セトはどうしても気になっていたことを質問した。
「…俺の身体は、それでも洗脳やら争いをけしかけるようなことをしていたのか?」
アマツチはその質問に泣きそうな表情をした。
「…その頃、すでに貴方様の魂がどこかへ行ってしまわれてから百年以上の時間が経っておりましたから、神々の意思の力も弱まっておったのかのぅ…それとも世界にばらまかれた憎しみや殺意が混じりあった魔力を一度に多く取り込み過ぎたのか……。確かなことはわかりませぬが、貴方様の存在は目の前の相手をただ虐殺する邪神と成り果てておりましたですじゃ…」
目の前の相手を虐殺…。心当たりが無いといえば嘘になる。
「…それで、どうなった」
アマツチは少し目を伏せ、多少ためらいを見せつつ、言葉を紡いだ。
「このまま放っておけばいずれ世界の驚異となると判断した各種族の長達は、争っていた種族とも一度停戦とし、邪神となってしもうた神竜様の討伐のため動きましたですじゃ。もちろん竜族は反対しましたぞ。貴方様の魂がまた戻ってくると信じておりましたからの…。しかし様々な種族の総勢力をもってしても神竜たる貴方様の力には遠くおよばず、貴方様からの攻撃にただ耐えるのが精一杯でしたのじゃ…」
そんな状態が数百年続いたある日、アマツチとは別の漆黒の鱗を持つ天竜が現れたのだという。そしてその天竜は、自分が邪神となった神竜を封印するから協力して欲しいと各種族に申し出た。討伐は不可能と諦めていた種族達は、封印でもなんでも、神竜からの凄まじい攻撃をなくすことができるならと藁をも掴む思いで天竜に協力する意思を示した。竜族も封印ならと協力を受け入れた。
こうして、邪神となっていた神竜は世界に存在する全種族の精鋭達に動きを封じられ、漆黒の鱗を持つ天竜の能力でその身体に封印されたのだという。しかし、その後天竜は何も言わずに姿も魔力も消して皆の前から立ち去ったとアマツチは話した。
「じゃから、わちは黒いもう一体の天竜の所在が分からないまま、今日まで来たのですじゃ。しかし…先程までの髪の色と、この者らの情報から、どうやら邪神を封じたあの漆黒の天竜殿の身体に、元の貴方様の魂が宿ったというところでしょうな」
記憶がないのは何故なのか存じ上げませぬが、と目を伏せた。
「そうか…。ここに…神殿に来れば、俺の失われた過去やら記憶を取り戻す術が分かるかと思って来たんだが、……考えてた以上の情報が分かったみたいだな」
セトもなんとなく気まずくなって、目を伏せた。神殿中がまるでお通夜のようだ。そんな空気に耐えられなくなったのか、ルティがおずおずといった様子で小さな手を上げた。
「あ、あの…アマツチさん…」
「お主は天虎の子供か。なんじゃ?」
耳と尻尾は魔法で隠しているのにあっさり正体を見破られて、一瞬たじろいだルティだったが、それでも勇気を振り絞った様子で質問した。
「あの、セトさんのこと、アマツチさんたちは昔なんて呼んでいたんですか?ずっと神竜様って呼んでたんですか?」
素朴な疑問だったのだろう。しかし、セトはその質問の答えを聞くのが怖かった。再び、鼓動が早鐘を打つ。
「そうか、今はそのように呼ばれておるのですな。そうじゃなあ…遠い昔の話じゃからなぁ…。流石に神である以上、真名は誰にも話していなかったようじゃが、確かわちらは…t「待て」…ほ?」
アマツチに当時の呼び名を言われそうになった直前、心が締め付けられるような感覚に襲われた。だからつい、名前を言うのを止めてしまった。
両手で顔を覆っているセトに気がつき、アマツチや竜たちは酷く動揺した。
「ど、どうされました!?」
思い出せそうなのだ。名前を言われたら、当時の事を思い出すかもしれない。俺はそれが怖い。…怖い?今まで知りたがっていたくせに?何を恐れることがある。別に悪いことじゃない。だというのに、なんだこの不安感は。
「……いや…すまない、続けてくれ…」
ここで言わせないのはおかしい。自分を知るために思い出すべきだ。そう自分を奮い立たせ、覚悟を決めた。
「よろしいのですな?」
セトは両手を下ろし、頷く。
アマツチにもセトの緊張感が伝わったのだろうか、彼女は自分の胸に片手を当て、何千年ぶりに、その名を口にした。
「…わちらは貴方様を、“ティータ様”と、呼んでおりました。」
刹那、セトの頭の中で様々な映像が早送りのように流れた。いや、これは…閉じられていた記憶の蓋が開いたのだ。思考が入り込む隙もなく情報で頭の中がいっぱいになった。そのあまりに莫大な情報量に、視界が暗くなる。音も聞こえなくなった。
「ッ…!!」
次第に立っていられなくなり、セトは光の床に膝をついた。光の床のせいか、セトの身体が光って見えた。……いや、実際に、セトの身体は自信から発せられるあまりに濃い魔力で黄金に光っていた。
セトが崩れた瞬間、竜たちから悲鳴があがった。
「「「ああ!!」」」
「「「神竜様!!?」」」
しかし、セトが放つ魔力量とその神格化した雰囲気から、なかなか近寄ろうとするものはない。唯一、近くにいたグレイオとアマツチ、ルティとカスティが、セトが倒れる前にその体を支えることに成功した。
「セトさん!?」
「セト!しっかりしてよ!」
ルティは今にも泣いてしまいそうだ。いつも強気なカスティでさえ、混乱から目が潤んでいる。グレイオはただただ目の前の状況に動揺しているし、アマツチはどう手をつけていいか分からないといった様子だ。
息も荒く、高熱を発し始めたセトの頬に片手を添え、アマツチが思わず叫んだ。
「ティータ様!」
再び呼ばれたその名が、たくさんの情報で埋め尽くされ、視界もなく、音も聞こえず、何も考えられなくなっていたセトの耳に飛び込んできた。瞬間、あれほど情報で埋め尽くされていた頭の中が、霧が晴れるかのようにスーッと明瞭になっていった。そうしてやっと目を開けたとき、アマツチの顔がそこにあった。まだ視界がぼやけていたせいか、大昔の彼女のハツラツとした顔と重なって、また懐かしさで胸がいっぱいになる。いつの間にか頬に添えられていた彼女のしわしわの手に自分の手を重ね、思い出した呼び名を告げる。
「“私の名はティーターネース…。天竜の姫よ、…どうかティータと呼んで欲しい…”…私がそう言ったのだったな、アマツチ…」
彼女はその言葉にハッとなり、すぐに目に涙を浮かべてこう言った。
「“神様のくせに随分気安いんですね”…ええ、ええ、そうですとも。思い…出したので…?」
アマツチはセトと…ティータと出会ったときの会話を思い出し、懐かしさと嬉しさで涙を流した。その姿は老婆だが、セトの目の前にはまさしく、乙女がいた。




