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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

オールドエール家の破滅

作者: 五島七夫
掲載日:2026/06/14

 プレアール十三日、夏の足音が静かに近づいてくるある日のこと、しとやかな雨と共に男が屋敷を訪れた。


 その男はタイラティールと名乗った。身に着けている衣服は紳士風であるものの、ぞっとするほど端正な顔立ちに土気色の肌の色で、どこかこの世の物ならざる雰囲気を纏う男。警戒こそしたものの、この男は怪しさをまったく隠す様子もなく、「主人に魔術書の件で話があると伝えてくれ」と言付ことづけてきた。


 こんな怪しい男の言うことなど無視しても構わないのではないか。一度適当に屋内に戻って、「主人はそんなことは知らないと」と言って追い返してしまおうかとも考えた。しかし、貴族風のこの男は主人の大切な知人である可能性も否定はできないため、一応の可能性も懸念して、言葉通りに主人に伝えることにした。


 オールドエール家は、かつてこの地方では名の知れた旧家だった。いや、今もその肩書き自体は変わらない。しかし、百年前から続く政治改革と産業革命という時代の大波に呑まれてしまった。古き良き封建領主としての時代は去り、残るのは静かに続く田園風景と、古ぼけて佇むこの石造りの屋敷。そして同じくらい古ぼけてしまった自分と館の主くらいのものである。


 当代領主であるアーチボルト・オールドエールこそ、ある意味この状態を招いた張本人と言える。致し方ない部分もある。この時代に求められるのは土地を良く治められる能力ではなく、商才か、もしくは社交界で影響力を持つか、最低でもどちらかの力が必要になる。オールドエール家はそのどちらもないので、工業の発達や資本主義の波にはついていけなかったのだ。


 それに付随して――むしろこれが一番の要因なのかもしれないが――主人であるアーチボルトは若いころに妻子を失ってしまった。別に事故があった訳でもない。ただ、母体が弱く妊娠に耐えられなかったというだけのこと。


 一度目の出産に母体は耐えたものの、子供の方が夭折ようせつしてしまい、二度目の出産には母子ともに耐えられなかった。それなら後妻を娶ればよかったのだが、アーチボルトはそれを望まなかった。先の妻を本当に愛していたから、それ以外の女性のことを考えられなかったのだろう。


 妻子を失って以来、アーチボルトは書斎に閉じこもり、目減りしていく資産を投げ売っては怪しげな本や祭具を買い、日夜研究や謎の祈祷にふけっている。


 こんな状況では使用人を雇い続けることもできず、今となっては自分くらいしか残っていない。一人では広い屋敷のすべてを管理するのも難しく、とくに女手ひとつでは限界もあるので、庭には草木が無秩序に生い茂り、壁はひび割れ、多くの部屋などは掃除もされずに放置されている――そんな状態で、もはやここは半ば幽霊屋敷と化してしまっていた。


 また、そんな状況だからこそ、主人に来客があるというのは違和感があった。社交界に顔を出すわけでもないアーチボルトを今さら頼ってくるものが居るというのも考えにくく、たまに来るのはオールドエール家に残った僅かな資産を狙った詐欺師くらい。とくに、日夜怪しい研究に没頭している我が主に取り入るために、同じくらい怪しい話を持ちかけて来る者は時折現れる。五年前に帝国が樹立されてからこの方、怪しい邪教は増える一方であり、大陸からそういった類の怪しい呪具が、海上封鎖令を破りながらも時折こちらへ流れてきているという噂は自分も聞いていた。


 今回の者もそういった輩の一人かとも思ったのだが、タイラティールには他の輩共とは違う圧倒的な何かがあったからこそ、自分も戸惑いながらもアーチボルトに来客の話を通してしまった部分もある。


 アーチボルトの反応は予想以上に大きかった。すぐにでも通すように言われ、タイラティールと名乗った男を屋敷へと招き入れることになった。妙な胸騒ぎを覚えたため、できれば二人の会話を聞きたいとも思ったが、主より「自室で待機しているように」と言いつけられたために、それも難しかった。


 ただ一度、茶を出しに行ったとき、机の上にまた怪しげな装丁の本が一冊――見覚えの無いもので、恐らくタイラティールが持ってきたものだろう――あるのだけは確認できた。


 二人は随分と意気投合したのか、はたまたどちらかが一方的に話していたのかは分からないが、ともかくタイラティールが屋敷を後にしたのは夜も更けてからだった。しとしとと降る雨の中、男は傘も差さずに暗闇の中へと消えていった。


 屋敷に変化が訪れたのはその後からだった。夜中に妙な物音がして目を覚ます――それは微かな音であったが、同時に確かに違和感を覚えるものだった。


 最初は雨音か何かかと思ったのだが、耳に聞こえるのはそういった類の音ではない。何かの鳴き声のようだった。寝床のある屋根裏部屋にとうとうネズミでも出たのかと思って起き上がり、音の出所を探ろうとしたのだが、自分が起きだして敏感にでもなったのか、その日の物音はそれ以降ぷっつりと途絶えてしまった。


 次の日の夜も、妙な物音で目が覚めた。ベッドから起きだして音の出所を探ろうとすると、どうやら音は階下から聞こえてきているようだった。もしかすると、主人が何かしらまた怪しい実験を行っているのかとも思ったが、今日は何か様子が違う。


 事態を確認するために恐る恐る階下へと抜け出し、ランプを片手に薄暗い廊下を進んでいく。床には使わなくなった家具や機材が雑然と置かれ、壁には埃をかぶった歴々の領主の肖像が飾られている。その様子はあまりにも無残で退廃的に感じられると同時に、見知った場所であるはずなのに妙な居心地の悪さを覚える。


 それはきっと、見られているような気持ちになるからだ――壁に飾られた領主たちがこちらを見て、自分を責めているような感覚に陥っているのだろう。お前がアーチボルトを支えていれば、上手く励ましていれば、こんなことにはならなかったと。廊下の惨状を見るだけで、もう当代限りでオールドエールは終わりなのだと分かる。それに対し、何もできなかった無力さを責められているような気がしてくるのが、居心地の無さの正体に違いない。


 ともかく、今は物音の件を片づけるのが先決だ。二階の廊下を進んでいくにつれ、徐々に音がハッキリとしてくる。それが明瞭に聞こえた時、背筋が凍るような心地を覚えた。それは鳴き声というより泣き声だった。赤子の泣き声だ――そしてその声は、ほとんど使われることのなかった子供部屋から聞こえてきたのだ。


 まさか、本当に主は家族をよみがえらせることに成功したのか? いや、そんなはずはない。人の魂が天に召されれば、それは神の国へ行くのと同義だからだ。無垢なる赤子の魂が地獄に引きこまれるはずはないし、そうなれば地上に戻ってくる道理などない。そもそもとして、人は蘇ることは無い。蘇るということがあり得るとするのなら、それはただ神の御業のみにおいて可能になるものなのだから。


 もちろん、主の悲しみは理解しているつもりだ。現世において愛した家族と会えない苦しみは、自分の想像を超えるものなのだろう。だから、怪しげな魔術に傾倒する彼を止めきれなかったのだし――それがせめてのもの慰めになるならばと――だが同時に、ある意味では本当に蘇るはずなどないと思っているからこそ、変なことは起こらないと静観していた部分もある。


 そうなると、これは夢なのかもしれない。先日訪ねてきた男に変な迫力があったせいで、ひょっとすると何かが起きるのではないかという懸念が見せた幻聴なのかも――子供部屋に入る勇気が湧かずに扉の前で佇んでいると、赤子の泣き声はぴたりとやんだ。


 やはり、幻聴だったのだろうか。そう思っていると、子供部屋の扉がゆっくりと開かれ、そこから嗅いだことのないような異臭と共に、主であるアーチボルトが姿を現した。


「やぁ、アイーシャ……良い夜だね」


 アーチボルトは落ち着くように努めているようだが、興奮している状態であるのは明らかだった。ギラギラと眼を見開き、眼球は赤く充血していて、鼻息も荒い――そして、左手には先日見た怪しげな装丁の本を大事そうに抱えていた。


「こちらから物音がしたような気がするのですが」


 質問をしつつ部屋の中の様子をうかがおうとすると、主は自分の身体でそれを隠すように廊下へと出て、そのまま見えないように扉を閉じてしまった。


「それは気のせいだよ、と言いたいところだが……流石にそんな風に言っても君も納得しないだろうからね。物音がした原因は私さ。起こしてしまったようだね、すまない。

 だけど、今はまだ詳細については説明できないんだ。まだ、上手く定着できていないようでね」


 主の言葉は理解しかねるのだが、定着、という単語だけは妙に引っかかった。それこそ、蘇ろうとしている幼子の魂が、この世界に顕在するために何かをされているかのような――そんなおぞましさを感じる。


 そんな想像に困惑してこちらが口を閉ざしていたせいか、アーチボルトは柔和な表情に努めて、そっとこちらの肩に手を置いてきた。


「長年苦労を掛けた。君には感謝している……本心さ。私は家事もろくすっぽできないし、一人では生活すらままならなかったはずだ」

「いえ、そんな。私も使用人が一人だと言い訳しながら、屋敷は汚れていくばかりで……」

「いや、そんなことは良いんだ。ともかく、これからきっと良くなっていくはずさ。いや、良くしていくよ……約束する。

 思い返せば、君とは本当に長い付き合いだ。二十一年間か。出会った頃は、まだ互いに子供だった。人生の大半を私のような甲斐性なしに付き合わせて、済まなかったと思っているよ」


 今でも鮮烈に思い出せる。アーチボルトとの出会いの日の事を。あの頃は、繊細で知的な美少年と言った風貌であった。地元の領主に雇われるという緊張で震えていた私。彼は鋭い洞察力でそれに気付き、優しく声を掛けてくれた。この人のためなら頑張ろうと思えたし、そして今もその気持ちに変わりはない。


 だからこそ、私は今もここに居る。


 十八歳の時にアーチボルトの結婚が決まっても、それでいいと思った。身分に違いがありすぎるから。ただ、時折声を掛けてくれるだけで十分だと思っていた――もちろん、奥様が亡くなられた時、胸のすく気持ちが全くなかったと言えば嘘になる。だがあの時は、主人の大事な人がいなくなってしまった、という気持ちの方が強かった。


(それでも……こうやって最後まで残っていれば自分にもチャンスがあるのではないかと、期待していなかったと言えるのかしら?)


 世間的には祝福されなくても、最後まで隣に居るのが自分であれば良い。そんな風に思っていた部分は確かにある。本当は主人に怪しげな儀式も止めてほしくても、ただ何も言わずに我慢してきたのは、自分がこの人を一番愛しているからこそ――全てを受け入れる覚悟があることを証明したかったからではなかったか?


 結局、私とこの人は似ているのかもしれない。決して手に入らないものを諦めきれなくて、何年も何年も執着している――きっとこの人は私と同じように自虐はしていないだろうが。


 先ほどまでの恐怖が鳴りを潜めたのは、アーチボルトが二十一年という時を覚えてくれていたのが嬉しかったおかげか、はたまた彼の作った表情に幾分か気持ちが安らいだのか。


 ただ、そんな安らぎも翌日には消え去っていた。主人と別れてから寝る前までは「やはりあれは幻聴だったのだろう」と自分に言い聞かせていたのだが、どうしても好奇心に――猜疑心というべきかもしれない――抗えず、主人がまだ眠っている朝の間に、掃除と称して子供部屋に入ってしまったのが良くなかった。


 結論から言えば、そこには赤子は居なかったし、もっと言えば生物の気配は全くなかった。ただ、やはり生臭いような、腐ったような異様な臭いが、一晩中換気されていたのにも関わらず漂っていること。床にも違和感を感じて絨毯をはがしてみると、嫌な臭いが再び室内に充満した。


 絨毯の下には、何かの儀式の文様のようなものと、何かが這いずり回ったような痕跡とが残されていた。文様は黒に近い赤で、血痕のように見えた。何かが這いずり回ったような跡は、黒いような紫のような、ともかくおぞましい色であり、これらが異臭の正体なのだと理解した。


 やはりここで何か恐ろしいことが行われており、とんでもないことが起ころうとしているのではないかという不安で思考が塗りつぶされてしまった。


 どうしよう、どうしよう――やはり、こんな儀式は止めてもらうように言うべきではないか? 主従の関係ではあっても、主が人としての道を踏み外そうとしているのならいさめるべきかもしれない。


 いや、もっと根本的に、屋敷を出てしまうほうが良いかもしれない。とんでもないことが起こっているという予感はあり、恐らくこのままこの場に居たら、自分もただでは済まない。仮に命に危険は無かったとしても、恐らく正気では居られなくなってしまう。そんな予感がある。


 ただ、自分はその日の内にどちらも選ぶことはできなかった。長年、自分は主人に付き従ってきた。その慣習が身に沁みすぎて、別の行動を起こすという勇気を引き起こさせてくれなかったのだ。ただ、今日主人の意識が変わって、変な儀式をやめてくれないかと祈るばかり――そしてそのままただ再び夜を待つ形になった。


 夜半になると、また例の泣き声が聞こえだした。変わった点でいえば、昨夜は屋根裏部屋に居れば微かに聞こえる程度だったのに、今晩は明瞭に赤子の声と認識できた点だろうか。赤子特有の甲高い、それも不快なタイプの泣き声である。欲求が解消されない事に対する怒りや悲しみからか、その声はどんどんヒステリックになっていく。


 その日はベッドから抜け出さず、ただ恐ろしいことが過ぎ去るのを待った。ただ、階下から響く不快な声が何時間も続いたため、なかなか寝付くことができなかった。


 その次の日も同様であり――いや、より酷くなったと言った方が正しいだろうか。声はどんどんと大きくなり、まるで屋敷を震わせているかのようだった。最初は甲高い泣き声だったのに、次第に低い声も混じり始める。それは、明確に赤子のものでない、地獄から這い上がってきた化け物が呻るような声である。


 こんなに大きな声がしているのなら、誰かが助けに来てくれないかとも思ったが、この屋敷は村落からいくらか離れた場所にあるせいなのか、はたまた誰もがあの声を恐れているのか。ともかく、外からの介入も起こることなく、その日も夜明けまで不協和音を聞き続ける羽目になった。


 三日も連続で悪夢のような出来事を体験すると、流石に身体も疲れてくる。極度の寝不足が続き、正常な判断ができなくなってきている。もしかすると、アレは自分が連夜見ている、文字通りの悪夢なのかもしれないとも思うのだが――ただ、昼間でも屋敷の中に漂うあの異臭を嗅ぐと、アレは現実に引き起こされているものなのだと認めざるを得ない。


 あの不快な声の主は、赤子の体を為した化け物が声を挙げているのだろうか? いや、そもそもとして、死者が復活などするわけがない。アレは、アーチボルトがタイラティールという異端者に――今までのようなペテン師ではなく、本物と認めざるを得ない――騙されたせいで、家族を蘇らせる代わりに、悪魔を呼び出してしまっているに違いない。


 それならば、やはり主を説得しておかしな魔術を止めさせるべきだ。朝になれば声が消えているということは、悪魔はまだ太陽の下で上手く顕在できていないに違いない。


 従者が主に口出ししようなどとおこがましいかもしれないけれど、私たちの絆だってそう浅くも無いはずだ。あのようなペテンの方を信じてしまうよりは、自分の方を信じてほしいと、そう願った。


 だが、その日は主人と話をする時間すらなかった。浅い眠りから目を覚ますと、買い物に行ってくるという書き置きと、更に悪化した異臭だけが館に残されており――恐る恐るもう一度子供部屋を確認してみると、もはや主は最低限の体裁を保つことすら忘れたのか、部屋の中は恐ろしい状態になっていた。


 ヘドロのような液体と、乾いた血とがそこら中にまき散らされている。それ以外にも、動物の骨のようなものが辺りに散見される――恐らく、主は生贄用の動物を仕入れに村に出たのだと容易に想像できた。


 夕暮れ時にも主は館へと戻ってこなかった。もしかしたら、儀式の異様さに気付いて、屋敷を捨てて逃げてしまったのだろうか? いや、それなら書き置きなどしなかったに違いない。恐らく、買い物などに不慣れであり、また動物を連れてくるという重作業に難儀しているに違いない。


 そうなったら、やはり自分だけでも逃げるべきなのではないか? 教会か国の役所に逃げ込んで、アーチボルト・オールドエールは異端に落ちてしまったことを告発するべきなのではないか? 昔には恐ろしい魔女裁判はあったというが、今の時代ならばそこまで酷いことにはならないはずだ。


 愛する人を告発するというのも気が引けるが、それでも道を違え続けてしまうよりはずっといい。牢屋に入れられてしまうのか、精神病院に入れられてしまうのか、どちらかは分からないが――でも、それならそれで、どちらになろうと通い続けて、あの人を支え続ければいいだけだ。


 ただ、儀式の中断をさせてしまったら、主人は私の事を信用しなくなってしまうのではないか? 私の幸せは、あの人の幸せだったはず。それなのに、従者の自分が出過ぎた真似をしてしまっていいのだろうか?


 ともかく、状況を変えないと次の夜は来ない。その確信だけはある。だが、果たしてどうするのが正解なのか――そんな風に悩み続けている間に、連日の寝不足がたたったのだろう、いつの間にか屋根裏部屋で眠りに落ちてしまっていたようだ。


 しまった、どれくらい眠ってしまっていたのか。最後に意識があったのは夕方だが、結構眠ってしまった気がする。


 そう思った瞬間、またあの泣き声が聞こえ始めた。どうする、逃げようか――そうっと階段を降りて行けば、自分が外に出たことには気付かれないだろう。それとも、今では忌々しい場所となってしまった子供部屋に飛び込んで、儀式の中断を迫るべきだろうか。


 また悩んでしまったのが良くなかったのか、状況は悪化の一途を辿った。まず、声がどんどんと大きくなっていったこと。そして、どうやら地獄の使いは主と共に部屋から廊下へと出てきたこと――その気配を感じ取ったとき、思わず屋根裏の階段まで駆けて、上から蓋を下ろした。この蓋は自分が屋敷に来た時にはなかったものだが、使用人のプライバシーを守るためと、アーチボルトが付けてくれたものである。今は中に入られないよう、そのまま錠を掛けた。


 悪い予感は当たった。当たってしまった。子供部屋から出でたモノは、ゆっくりと、ゆっくりとこちらへと向かってきていたのだ。それは巨大なのか、移動する度に階下がみちみちと軋み、そして最後には天井裏へと続く木製の階段が悲鳴をあげ始めた。


「アイーシャ、アイーシャ、居るんだろう? この扉を開けてくれないか?」


 化け物の声に紛れて、蓋の下からアーチボルトの声が聞こえてきた。その声色は、明らかに困り果てているようだった。


「子供が、遊び相手を欲しがっていてね……色々と与えてみたが、どうやらそれではダメなようなんだ」


 その言葉に、昼間の部屋の惨状が思い出される。きっと地獄からの使いは、血肉を求めて彷徨っている――しかし、動物の生贄などでは満たされなかったに違いない。要するに、悪魔は人間の血と肉を求めているのだ。


 もしかすると、買い物に行っていたというのは嘘なのかもしれない。アーチボルトは人の肉を求めて、墓でも荒らしに行っていたのではないだろうか? こんな田舎では、人に見られずに墓を暴くことなどはできるかもしれない。もしこの予想が当たっているとしても、要は屍肉ではダメだったということになるのだろうが。


 ともかく、蓋を開けてしまえば、地獄の釜が開く。巨大な割に蓋を破ってくることはできないのか、ただドンドンと床を叩く音と、主がこちらの名を呼ぶ声だけが聞こえ続ける。それに対し、自分は恐ろしくて部屋の隅で震えることしかできない。


 階下から聞こえる音が大きくなる中、今度は室内から妙な音が聞こえた。笑い声だ――それも、人をさげんだような男の笑い声。声のした方に顔を向けると、その場に何やら埃のような粒子が舞い上がっており、それらが次第に結合し始め――最終的には、先日館を訪ねてきたコートの男、タイラティールが姿を現した。


「……アナタは!?」

「レディの寝室に忍び込んだことについては謝罪するよ。だが、我輩は最も面白いシーンを特等席で見る主義でね。不躾ながら、こうやって押し入らせてもらったわけだ」


 忍び込んだ、押し入った、様々に言っているが、こちらから見たら「唐突に姿を現した」が正確なところだ。こんなことができるなんて間違いない、こいつこそが悪魔の使者なのだ。


「アナタが……アナタがアーチボルト様をたぶらかしたのね!?」

「人聞きが悪いね。私は、オールドエール男爵のお困りごとの噂を聞きつけて、彼の望むものを与えただけさ」

「ご主人様の悲願は、家族を蘇らせること……アレが、その家族だというの!?」

「それを決めるのは貴様でもなければ私でもない。貴様のご主人様というやつさ」


 この男は何を言っているのだろうか? こんな異様な物音を立てるモノがまっとうな生き物のはずがない。ましてや、アーチボルトの家族などと――言い分が理解できず返答に窮していると、男は楽しげに口元を吊り上げながら、力強くたたかれ続けている蓋の方を見やった。


「貴様の主人は、アレを本物の家族と思っている。大切なのはそれだけだ。物事の価値を決定するのは人でしかない。書物でしか金を知らない者は、銅を金と思い込むこともできる……もしアーチボルト・オールドエールが人形を本物と思い込めれば、それは本当の家族になるんだ」

「でも、アレは……!」

「大切なのは、それを得るための過程だ。彼は魔術によって邪神と交信することこそが、家族を蘇らせる鍵だと信じ続けていた。今回、それらしいステップを踏むことで、何か生き物らしいものを生成することができた。だからこそ、彼はアレを家族と信じ込んでいるのだろうさ」

「信じ込んでいるということは、やはりあれは若様などではないのね!?」

「さぁて、それはどうだろう? 少なくとも、外見は似ても似つかぬとは思うが……それも君たち人間の眼という器官を通じての話だ。魂とやらは、もしかすると同一のものなのかもしれないぞ?」


 最後の男の言葉は話半分で、思わず自分は蓋の方へと駆けだしていた。本当は逃げ出すか、タイラティールに助けを求めるべきだったのかもしれない。


 しかしそれより、怒りと不憫さとが勝った――アーチボルトは、私が愛するあの人は、結局は悪魔の使者に騙されてしまったという事実に対する怒りが、自分の身の安全よりも主人の目を覚ませたいという願いへとつながったのだ。


「ご主人様、ご主人様! どうかわたくしめの言葉をお聞き入れください! ご主人様は、あのタイラティールという男に騙されているのです……アナタが今連れているのは、アナタが求めたご家族などではありません! 悪魔の使者によって呼び出された、地獄の化け物なのです!

 アナタがどれだけ奥様を愛していらっしゃったか、またそのご子息にどれだけ期待されていたかは十分に理解しているつもりです。ですが、どうか……今は私の言うことを信じてほしいのです。

 仕えた長さを誇りたいわけではありませんが、それでも……どうか、悪魔の使者よりも、私の言葉に耳を傾けてほしいのです!」


 こちらの切なる思いが届いたのか、階下から蓋を叩く音は徐々に静かになっていった。彼は話を聞いてくれている、今なら正気を取り戻させることもできるかもしれない――そう思って、説得を続けることにする。


「今になって言うことではないかもしれませんが……確かに地上では、もうご家族との再会は叶わないでしょう。それでも、奥様と若様の無垢な魂は、きっと神の国でご主人様を待っています。

 ご主人様も、今ならまだ間に合うと思います。どうか悔い改めて、儀式を取りやめて……」

「……お前の言う神などいない!」


 下から叫び声が聞こえてくると、再び蓋が強大な力で叩かれ始めた。そしてそれと同じくらいヒステリックな主の声が続く。


「どれだけ妻子が生きることを祈っても、聖典の神は応えてはくれなかった! 神の愛など世界には存在しないのだ!」

「で、ですが……仮にそうであったとしても、人が蘇ることなどありえはしないのです!」

「そうだ、その通りだ! どれだけ医学が発達しても、人が人を蘇らせることはできない! それならば……愛の無い教理にすがる価値が無いのなら、悪魔にすがって何が悪い!? 異教の神がこの苦しみを解放してくれるというのなら、それに頼って何が悪いというのだ! そう、私が間違えているとしても……!」


 そこで主の声が途絶え、同時に蓋が叩かれるのも止まった。アーチボルトは「私が間違えているとしても」と言った。家族を取り戻したい気持ちは本物でも、心のどこかでは手段そのものが誤っていることに気付いていたのかもしれない。それを口にすることで、冷静になってくれたのでは――そう思っていると、今度は静かな調子で主の声が聞こえ始める。


「すまない、アイーシャ……君を責めたいわけじゃないんだ。僕はみんなの言う神が信じられないだけで、君の事を信用していないわけじゃない。

 そして、認めるよ……僕は君の気持ちに甘えていたんだ。君の気持ちを知っていて、それを利用していたんだ。何をしても僕から離れることは無いと確信して、こうやって家が没落しても付き合わせ続けた……」

「そんな……そんなことは良いんです。私の人生は、私が選んだ結果ですから。どうか、これからもお側に置いてください。そして、一緒に生きてください……もしこの世界に神の教理が無かったとしても、アナタを想う気持ちは確かにこの胸にありますから」

「……いいや、もう手遅れだ」


 言葉が切れると、辺りを静寂が支配する。もう自分を側に置いてくれないということなのだろうか。家族を蘇らせることを諦めてしまったせいで、アーチボルト・オールドエールは生きることに絶望してしまったのかもしれない。


 でも、それならばこそ、誰かが側にいて励ましてさしあげなければ。仮に疎まれても、無理やりにでも着いていくくらいの覚悟があれば――長い時間は掛かるかもしれないが、心の傷も癒えるかもしれない。


 むしろ、最初からそうするべきだったのだ。もっと早くに誰かがこの方の手を取ってあげなければならなかったのに、誰もがアーチボルトの絶望に真剣に向き合わずにいたから、ここまで話がこじれてしまったのだ。


 だから、これからは――まだ下に化け物がいるかもしれないという恐怖はあったが、それよりも主と向き合わなければ。そう思って蓋に手を掛けようとした瞬間、微かだが、しかし妙な音が聞こえ始めていることに気づく。


 それは、くちゅ、という湿った音だ。それが一定のリズムで静かに鳴り響き――そしてしだいにぐちゃぐちゃという音として巨大化し、最終的にはぼきり、という乾いた音が鼓膜に響いた。


 それは、何かを咀嚼しているような――そう思った瞬間、蓋の下で起きている惨劇が脳裏に浮かんだ。


「ありがとう、アイーシャ。こんな僕に仕えてくれて。せめて、君だけでも、生きて……」

「いやぁあああ! アーチボルト様! アーチボルト様ぁ!」


 弱っていく主の声に、どうしたら良いのか分からず、その名を叫ぶことしかできない。どうして――ようやっと、私たちの止まった時間が動き出そうとしていたのに。これは天罰なのだろうか? 主に対しても、私に対しても――どうにかできる立場にありながら、衰弱していくアーチボルトを救うことができなかった私に対する天罰なのかもしれない。


 そうだとするなら、彼の言い分にも強く共感できる。苦難は神の試練というけれど、こんなのはあんまり過ぎる。そんな試練を課す神など、信じたくはない。もし神がいるとするなら、それは断じて慈愛の神などではない、それだけは確かだ。


 いや、そんなことよりも、どうすればいいのか。今からでも主を救うために蓋を開けるべきなのではないか。だが、人の生きた肉を求める怪物と対峙するのも恐ろしい――自分の口から出る「どうすれば、どうすれば」という音に、低い笑い声が重なる。


「クックック……いや、いいね、素晴らしい! その表情! その仕草! それが見たかった!」


 声のした方へと振り返ると、タイラティールが窓際に腰掛け、月明りに顔を青白く光らせながら嬉しそうに両手を叩いていた。


「失礼、馬鹿にしたいわけじゃないんだ。だがやはり、人という役者が織り成す悲劇というやつは素晴らしいと、そう思ってね。とくに、希望が一瞬見えた時に急降下する様子など、見ていてたまらない……!」


 あぁ、やはりこの男は悪魔の使者だったのだ。むしろ、これは悪魔そのもの――この邪悪さは、聖典に語られる魔王とまで思うほど。魔王は人をたぶらかし、悪知恵を授け、神の愛に守られている人を貶めようとするという。


 いや、主の言うように神は居ないとするのなら、この世界には悪魔しかいないことになる。神は居なくとも、目の前に悪魔は間違いなく存在するのだから。この世界には救いなどなく、ただ無限の絶望があるだけというのなら――。


「……想像以上のものを見せてもらって礼に、一応聞いておこう。君にまだ生きる気力があるのなら、ここから連れ出してやることはできる。私が見たかったのはその絶望の表情であって、人の生き死になどどちらでもいいのだから……さて、どうする?」

「……あの方にお仕えすることができないのなら、私も化け物の血肉となって、せめて最後まであの人のお側に居ることにします」

「はは、そうかね……いや、素晴らしいね、その見上げた忠誠心。せめて、それが刹那の感傷でないことを祈るよ」


 その言葉を最後に振り返り、自分は咀嚼音のする蓋の方を見つめる。そして錠に手を掛けた瞬間、背中に「君の不幸は、小賢しいだけの領主に仕えてしまったこと。君の愚かさは、そんな男を見捨てられなかったことだ」という言葉がぶつけられた。


 確かにその通りかもしれない。そう思ったが、これ以上考えることは止めることにした。誰が愚かだとか間違えていたとかいう議論は、もう不要なのだから。無駄な思考は迷いを生み、決意を鈍らせる。仮に私の決意を万人が愚かと蔑もうとも構わない。自ら命を諦めることが地獄への招待状となるというのなら、望んでそれを受け取ろう。


 覚悟のままに蓋を開くと、眼下は闇よりもなお暗い暗い黒に覆われていた。そして、すぐにそれが勢いよく伸び出して、一瞬にしてこちらの体を包み込んだ。


 あぁ、アーチボルト様。アイーシャが今、アナタの側へと参ります。そして願うなら――地獄でもいい。アナタのお側に――。

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