夜の高速で拾った彼女は、朝になると消えた
夜の高速道路はどこまでも黒く伸びていて、フロントガラスの向こうに広がる闇は均一に塗りつぶされたように深く、空と地面の境界さえ曖昧に溶けているように見え、その中をヘッドライトに照らされた白線だけが乾いた光を弾きながら一定の間隔で流れていくのを眺めているうちに、自分がどれだけ走っているのかも、どれだけ時間が過ぎたのかも、次第に分からなくなっていった
タイヤが路面をなぞる低い振動はシート越しに背中へと伝わり、その微細な揺れがハンドルを握る指先にも残り続け、エンジンのくぐもった音と重なりながら身体の奥へと沈んでいく感覚が思考の輪郭を曖昧にし、考えないようにしていたことほど浮かび上がらせる
バックミラーの中では都内の光が遠く滲み、橙色の粒となって夜の奥へと沈んでいき、ビルの明かりも信号も人の気配もすべて後ろへ流れていく中で、前にはただ暗闇だけが続いていた
車内には飲みかけのコーヒーの苦い匂いと、シートに染みついた革の乾いた匂いが混ざり合い、そのわずかな温もりが外の夜気との境界をつくっていて、窓の外の冷えた空気はガラス越しにじわりと伝わり、内側と外側の温度差だけがはっきりと感じられる
ハンドルを握る手にはうっすらと汗が滲み、指先にまとわりつくその湿り気が今日一日の疲れを遅れて思い出させ、終わらせたつもりで終わっていない仕事や曖昧にした判断や言い残した言葉が頭の奥に残り続けていて、明日になればまた同じ朝が来て同じ場所に戻るのだと分かっているのに、その繰り返しの中に何が残るのか分からなくなる
だから夜に走る、理由なんてない、ただこのまま帰って明日を迎えるのが少し怖かった
サービスエリアの表示が視界に入り、流れから外れて速度を落とすと、それまで滑らかだった感覚にざらつきが混じり、路面の粒を拾う感触が足元から伝わってきて現実へ引き戻されるような感覚があり、そのまま駐車場へ車を滑り込ませてブレーキを踏み、エンジンを切ると、それまで身体の奥に残っていた振動がすっと消え、その代わりに静かな空気が広がる
ドアを開けた瞬間、夜の冷えた空気が頬や首筋に触れ、その温度が一気に身体へ入り込んでくるのを感じながら外へ出て、ドアを閉めたときの乾いた音が静まり返った空間に吸い込まれずに残り、少し遅れて消えていく
その音の余韻が消えきる前に、視線の先にひとりの少女が立っているのが見え、街灯の光が彼女だけを切り取るように落ちていて、肩までの黒髪は光を吸い込むように暗く、白い服だけが夜の中で淡く浮かび上がり、細い首筋と華奢な肩は触れれば壊れてしまいそうに見えた
視線が合う
一度だけ逸らされる
すぐに戻る
そのわずかな間に、ためらいのようなものが残る
「……乗せて、くれませんか」
静けさの中に言葉が落ちる
「……いいよ」
答えたあと、ほんのわずかに肩の力が抜けるのが見える
助手席のドアを開ける
乗り込む前に一瞬だけこちらを見る
確かめるように
それから静かに座る
シートはほとんど沈まない
それでも隣の空気が変わる
ドアが閉まる
近い音が残る
エンジンをかける
振動が戻る
車はまた夜へと滑り出す
しばらくして、隣にある気配を意識するようになり、見る前から視線を感じるような違和感があり、横を向くと目が合いそうになってすぐに逸らされるその動きがほんのわずかに遅れていて、見ていたことを隠しきれていない
「どこまで行くんだ?」
「……あなたが、降ろすまで」
声がさっきよりも近く、わずかに柔らかい
「それ、ずるくない?」
口元が少しだけ動く
「ずるい、ですか?」
一瞬だけ視線が戻る
「責任全部こっちじゃん」
窓の外へ視線を逃がしたまま、ほんの少しだけ体の向きがこちらへ寄る
「……じゃあ、責任、取ってください」
距離が確かに近づく
理由もないまま高速を降りて、海沿いの道へ出ると低く重たい波の音が遠くから続いて聞こえ、窓を少し開けると冷たい風が流れ込み、潮の匂いを含んだ湿った空気が車内へ入り込んで、さっきまで残っていたコーヒーの苦味をゆっくりと押し流していく
その風の中で彼女の髪が揺れ、その動きに合わせてほんのわずかにこちらへ近づき、触れられる距離まで寄るのに、その先には進まない
指先がわずかに動き、触れようとして止まり、そのまま戻る
「知ってる? 夜の海ってさ」
「……海?」
顔が向く
今度は逸れない
「昼より音が大きく聞こえるんだよ」
視線が残る
「……どうしてですか」
距離が近いまま
「暗いと余計なこと考えるだろ、その分、音をちゃんと拾うようになるらしい」
波の音と呼吸が重なる
「……じゃあ、この音も」
少し間があって
「ちゃんと、残るんですか」
少しだけ考えて
「どうだろうな、でも覚えてるやつは、残るんじゃないか」
ほんの少しだけ笑う
その瞬間だけ、距離が消える
東の空がゆっくりと白み始め、夜の黒が少しずつ押し返されていく中で、まだ姿を見せない太陽の気配だけが確かに広がっていき、この時間が終わることをはっきりと告げてくる
「そろそろ、降ろして」
分岐点で車を止める
エンジンの振動がやけに大きく感じられる
ドアに手がかかる
一瞬だけ止まる
「……責任、取ってくれて、ありがとうございました」
軽くない声
「いや、それまだ途中じゃない?」
引き止めたい気持ちがそのまま出る
ほんの少しだけ笑う
「……あなたの――――ところに」
風が吹く
言葉の後半が途切れる
聞き返そうとした瞬間、ドアに手がかかる
このまま行ってしまうと分かる
「また、会える?」
わずかに動きが止まる
振り返らないまま
「……また会えたら、ね」
ドアが開く
夜気が流れ込む
降りる
朝焼けの中で輪郭がゆっくりと薄れていく
一瞬だけ視線を外す
次に見たとき
もう、どこにもいなかった
数日後、同じ道を何度も走り、同じ時間に同じ場所へ車を止めてドアを開け、夜気を吸い込んで視線を向けるが、そこには何もなく、あのときと同じ景色のはずなのに決定的に何かが欠けていて、何度繰り返しても現れることはなく、あの声も距離も温度もどこにも残っていない
それでも記憶だけは鮮明に残り続け、ハンドルを握る手に力が入る
もう一度だけでいいと思いながら、車はまた夜へと走り出す
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