第5話 芽生え
翌日からの数日間、青野彗悟は、どこか上の空だった。 友人たちと教室で馬鹿話をして笑っていても、一人で音楽を聴きながら帰路についても、栞奈に言われた言葉が不意に頭の中を占領する。
――圧倒的な『スピード』と、完璧な『コントロール』。
――あなたにとって『面倒』じゃないことって、何?
その問いに、彗悟はまだ答えを見つけられずにいた。 というより、考えようとすると、決まって思考が「面倒くさい」という着地点に不時着してしまうのだ。
「おーい彗悟、聞いてんのか?今日の放課後、ゲーセン寄ってかね?」
「あ?…ああ、うん、まあ…」
「なんだよ、ハッキリしねえな。…もしかして、またあの空手女子のこと考えてんのかー?」
「…ちげーよ、バカ」
力なく否定する声は、友人たちの耳には届いていなかった。
その日の夜。 彗悟は自室のベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を眺めていた。 頭に浮かぶのは、夕暮れの道場で見た、栞奈の一心不乱な姿。 彼は、おもむろに身体を起こすと、明かりを消した部屋の窓ガラスの前に立った。そこに映る、ぼんやりとした自分の姿を見つめる。
そして、栞奈や道場の部員たちの姿を思い出しながら、おそるおそる右の拳を握ってみた。 見よう見まねで、親指を人差し指と中指の上に、しっかりと畳む。慣れない形に、腕がぎこちなく強張った。 窓に映る自分に向かって、ゆっくりと突きを繰り出す。
「……ダッセえ」
思わず、自嘲の言葉が漏れた。
あまりに不格好で、情けない動き。すぐにやめようと思った。 だが――彼は、もう一度、今度は少しだけ速く、突きを繰り出した。
ビュッ、と音を立てた栞奈の動きには、到底及ばない。ただ、腕が空を切るだけの、虚しい動作。それでも、彼はもう一度、拳を引いて、突きを放った。
何かが、自分の中で変わり始めている。その正体も分からぬまま。
自分の不格好さに嫌気がさし、同時に、どうしようもなく「正解」が知りたくなった。 彗悟はベッドに戻ると、スマートフォンを手に取った。 生まれて初めて、自らの意志で、指が画面の上を滑る。
検索窓に打ち込んだのは、今までなら一生入力することのなかったであろう言葉。
【星流高校 空手部】 【寸止め空手 ルール】
そこには、部の紹介ページや、いくつかの大会結果が並んでいた。部員が整列している写真もある。
ルール解説のページには、「一本」「技あり」「反則」といった、意味の分からない単語が並んでいた。
そこは、彼の知らない言葉と論理で構成された、全くの異世界だった。
「…やっぱ、ワケわかんねえな」
そう呟いて、ブラウザを閉じようとした、その時だった。 関連ニュースの欄に表示された、一つの見出しが、彼の目を引いた。
【近畿地区中学校空手道選手権 女子個人・形の部 優勝 水野栞奈】
彗悟は、無意識にそのリンクをタップしていた。 表示されたのは、少し古いネット記事。そして、一枚の写真。 今よりも少し幼い栞奈が、大きな優勝トロフィーを抱え、凛とした表情でカメラを見つめていた。 それは、クラスで見せる人当たりの良い顔でも、道場で見せた必死な顔でもない。 全てを成し遂げた、勝者の顔だった。
彗悟は、その写真から目が離せなくなった。 自分に才能がある、と繰り返し言ってきたあの少女が、自分などとは比較にならないほどの高みで、たった一人で戦ってきた、「本物」のアスリートだったのだ。
彼女が自分にかけた言葉の一つ一つが、今、全く違う重みを持って、彗悟の胸に迫ってくる。 スマートフォンの青い光に照らされた彼の表情に、ただの「面倒くささ」とは違う、焦りのような色が、初めて浮かんでいた。




