第3話 夕暮れ、一人だけの道場
あの日、水野栞奈という少女に勧誘――いや、詰問されてから数日。 青野彗悟の平穏だった日常には、少しだけささくれのようなものが出来ていた。
廊下ですれ違う時、中庭の向こうに姿が見えた時、ふと感じる、真っ直ぐすぎる視線。その度に、彗悟は「面倒な奴に目をつけられた」と、内心でため息をつくのだった。
その日の放課後も、彗悟はいつも通り友人たちと馬鹿話をしながら昇降口へと向かっていた。
「じゃ、また明日なー」
「おう」
気の抜けた挨拶を交わし、一人、帰路につく。さっきまで感じていた栞奈からの視線のことも、頭の隅へと追いやった。
家まであと数分。商店街の角を曲がったところで、彗悟はいつもの癖でズボンのポケットに手を入れた。 そして、動きが止まる。 あるはずの、硬くて四角い感触がない。
「……うそだろ」
顔が青ざめる。スマートフォン。教室の机の中に置き忘れてきたのだ。友人とのメッセージの約束もある。
「くそっ、面倒くせえ…!」
悪態をつきながらも、彗悟は来た道をとぼとぼと引き返し始めた。
学校に戻ると、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。部活動の声もまばらになり、校舎は夕暮れのオレンジ色に染まっている。 自分の教室でスマホを無事に回収し、彗悟は少しでも早く帰りたくて、校舎裏の近道へと足を向けた。
体育館と武道場の間の、薄暗い通路を歩いていた、その時だった。 静寂の中、一つの音が、彼の耳に届いた。
ビュッ!
空気が鞭で打たれたような、鋭い音。 それは集団の練習の音ではない。たった一人から発せられている、研ぎ澄まされた音だった。 彗悟は、まるで何かに導かれるように、音のする武道場へと足を運んでいた。
引き戸のガラス窓から、ぼんやりと灯りが漏れている。 彗悟は息を殺し、そっとそのガラス窓から中を覗き込んだ。
広い道場の真ん中に、人影が一つ。 水野栞奈が、たった一人で道着姿で立っていた。 全体練習はとうに終わったのだろう。彼女は一人、自主練をしていたのだ。
彼女がゆっくりと動き出す。「型」の演武だ。
それは、先日彗悟を問い詰めた時の苛立ちを叩きつけるようでもあり、あるいは、自分の無力さを振り払うかのようでもあった。 汗が飛び、結んだ髪が乱れるのも構わず、何度も、何度も同じ動きを繰り返している。
その動きの一つ一つが、彗悟の心を捉えた。 流れるように美しい静の動きから、突如として繰り出される動の技。
シュッ! 道着が空気を切り裂く音と共に、突きや蹴りが空間を穿つ。そして、技の終わりには、寸分のブレもない完全な静寂が訪れる。
それは、もはや単なる練習には見えなかった。 高みを目指す人間の、孤独な祈りにも似ていた。 彗悟は、自分が今まで「面倒くさい」の一言で片付けてきたものの向こう側に、これほどまでに真剣で、ひたきな世界が広がっていることを、初めて知った。
やがて、栞奈の動きが止まる。 型の演武を終え、残心――技を終えてもなお気迫と意識を保ったまま、静止する。 道場には、彼女の荒い呼吸の音と、床に滴り落ちる汗の音だけが響いていた。
彗悟は、息をすることさえ忘れて、その光景に見入っていた。 そして、無意識に、ごくりと喉を鳴らしてしまった。
その、ほんの僅かな物音。
瞬間、研ぎ澄まされた集中の中にいた栞奈の肩が、ピクリと動いた。 ハッと顔を上げた彼女は、獣のような鋭さで、彗悟が覗いている戸口を射抜いた。
夕暮れの静かな道場で、二人の視線が、真正面から交錯した。
驚きに見開かれた、しかしなお武道家の鋭い光を宿した栞奈の瞳。 見てはいけないものを見てしまったかのような、動揺を隠せない彗悟の瞳。
気まずい沈黙だけが、二人の間に横たわっていた。




