第2話 邂逅と拒絶
翌日の放課後。星流高校の武道場は、昨日と同じく熱気に満ちていた。 「セイッ!」「ヤアッ!」 気合と共に突きや蹴りが繰り出され、道着が空気を切り裂く音が鋭く響く。だが、水野栞奈の意識は、目の前の練習に完全には集中しきれていなかった。
(青野 彗悟…)
昨日、彼の名前を知ってから、頭の中はそのことで一杯だった。 どうすれば、彼をこの場所に連れてこられる? どうすれば、彼自身に、その内に秘めた宝の価値を気づかせることができる? ただ「空手をやろう」と誘うだけでは、きっとダメだ。昨日見た、あの面倒事を心から嫌うような、気の抜けた表情が目に焼き付いている。彼のような人間に、この武道場の厳しくストイックな空気は、最も縁遠いものに映るだろう。
「水野、集中しろ!一本!」
主将である竹村の鋭い声が飛ぶ。組手の練習中、一瞬の思考の途切れを相手に見抜かれ、鮮やかな中段突きを決められてしまった。
「押忍!すいません!」
栞奈は頬を紅潮させながら頭を下げた。
(ダメだ、私がこんなことでは。まずは、ぶつかってみないと始まらない)
策を弄するより、まずは会って話す。彼の人間性を、その目で、耳で、肌で感じ取るのだ。 決意を固めた栞奈の目に、再び強い光が宿った。
***
練習後、栞奈は制服に着替えると、彗悟がいるであろう一年生の教室へと向かった。 夕暮れ時の校舎は、部活動に向かう生徒たちの活気でざわめいている。目的の教室の前に着くと、中から友人たちと笑いながら出てくる彗悟の姿が見えた。昨日と同じ、気楽な仲間たちに囲まれている。
「――でさ、昨日のテレビがマジで…」
仲間の一人と談笑しながら廊下を歩いてくる彗悟。栞奈は深呼吸を一つすると、その進路にすっと立ち塞がった。
「青野 彗悟くん」
凛とした声だった。 悠真と友人たちの会話がぴたりと止まる。全員の視線が、道着の匂いをかすかにまとった一人の少女に注がれた。
「…え?だれ?」
彗悟は、きょとんとした顔で栞奈を見つめた。全く心当たりがない、という表情だ。
「私を、覚えてない?」
「えーっと…ごめん、わかんない」
悪びれもせず、悠真はあっさりと首を横に振った。友人たちも
「誰?」「彗悟の知り合い?」とひそひそ話している。
栞奈は構わず、続けた。
「冬休み、USJで。あなたは船から池に落ちた」
「ああ!あの時の!」
彗悟はようやく何かを思い出したようにポンと手を打った。しかし、その記憶はぼんやりとしたものらしい。
「なんか、すげー勢いでジャンプした日か。…で、君がその時の?」
「私のことはどうでもいい。それより、単刀直入に言う。あなた、空手部に来て」
栞奈の言葉に、彗悟だけでなく、周りの友人たちまでが目を丸くした。 一瞬の沈黙の後、友人たちのからかうような声が飛ぶ。
「うおー、彗悟!ついに告白かと思ったら、部活のスカウトかよ!」
「マジか、お前なんかやったっけ?」
「いやいや、何もやってねーし!」
彗悟は慌てて手を振ると、栞奈に向き直り、困ったように眉を下げた。
「ごめん、そういうの興味ないんだ。部活とか面倒くさいし」
やはり、その言葉が返ってきた。 予想通りの、しかしあまりにもあっさりとした拒絶。栞奈は怯まなかった。
「面倒?あなたのあの動きは、そんな言葉で終わらせていいものじゃない」
「動きって…ただジャンプしただけじゃん」
「違う。あれは『追い突き』。何万回と修練を積んだ者だけがたどり着ける、理想の踏み込み。あなたはそれを、無意識にやった。あなたは、天才なの」
「お、追い突き…?」「天才…?」
彗悟は、栞奈が発する未知の単語と、その真剣すぎる眼差しに完全にたじろいでいた。友人たちも、ただ事ではない雰囲気を感じ取って黙り込んでいる。
「だから、お願い。一度でいい。道場に来て、その力を試させて」
栞奈は、頭を下げた。 しかし、彗悟の答えは変わらなかった。
「いや、だから、遠慮しとくって。俺、そういう熱いのとか苦手だし、マジで。じゃ、そういうことで」
彗悟は気まずそうに栞奈の横をすり抜け、友人たちと共にそそくさとその場を去って行った。
「じゃあな、変な勧誘お疲れー」
と、友人たちの無責任な声が遠ざかっていく。
一人、廊下と夕陽の光の中に残された栞奈。 だが、その表情に落胆の色はなかった。むしろ、その逆だった。
(そう…。やっぱり、そうなんだ)
彼の反応は、本物だった。自分が持つ才能の価値を、一ミリも理解していない。熱意も、野心も、向上心も、何もない。 空っぽだ。 だからこそ――。
(だからこそ、面白い)
この空っぽの器に、「空手」という魂を注ぎ込んだ時、一体何が起きるのか。 磨けば光る、なんてレベルじゃない。 あれは、ただそこにあるだけで、凄まじい光を放つダイヤモンドの原石そのものだ。
栞奈は、夕日に照らされた昇降口の方を睨みつけた。 その瞳は、獲物を見つけた狩人のように、静かに、そして激しく燃えていた。
「逃がさない、青野 彗悟」
最初の接触は、完膚なきまでの失敗に終わった。 だが、水野 栞奈の戦いは、今、始まったばかりだった。




