第17話 敗北の価値
「それまで!勝者、菊田!」
主将・竹村の声が、遠くに聞こえる。 胴プロテクター越しに叩き込まれた一撃の、鈍い痛みが全身に響く。だが、それ以上に、青野彗悟の心を支配していたのは、完膚なきまでの敗北感と、屈辱だった。
道場の部員たちの、同情とも憐れみともつかない視線が、床に膝をつく彗悟に突き刺さる。 「大丈夫!?」 栞奈が駆け寄ってくるが、彗悟はその手を振り払うように、おぼつかない足取りで立ち上がった。
誰の顔も見られない。
「…すみません、お先です」
それだけを呟くと、彼は荷物をひっつかみ、逃げるように武道場を後にした。
夕暮れの道を、一人、とぼとぼと歩く。 脳裏で、あの数秒が、呪いのように何度も再生される。 自分の渾身の一撃が、まるで子供扱いのように簡単にかわされ、反撃を食らった光景。
そして、菊田 空の「お前は、まだ土俵にすら上がっていない」という、冷たい言葉。
「…やっぱり、無理だったんだ」
ぽつりと、声が漏れた。 俺なんかが、場違いだったんだ。特訓なんて、練習試合なんて、全部が馬鹿げた夢だった。 家の近くの、人気のない公園。彗悟は、ベンチに崩れるように座り込み、うなだれた。
もう、二度と、あの道場には行かない。明日、顧問の鈴木先生に、正式に部を辞める旨を伝えよう。彼は、固く、そう決意した。
「はあっ、はあっ…いた…!」
その時、息を切らした栞奈が、公園に駆け込んできた。
「帰るなら、一言くらい言っていきなさいよ…」
「……ほっといてくれ」
彗悟は、顔も上げずに吐き捨てる。
「もう、やめるから。全部、終わりだ」
「本気で言ってるの?」
「本気だよ。才能だか何だか知らないが、あいつには全く通じなかった。俺がここにいても、邪魔なだけだ」
しかし、栞奈は諦めなかった。
「青野くん、聞いて。あなたは負けた。完膚なきまでに。でも…あの勝負、本当に価値がなかったと思う?」
彼女は、道場での、鈴木先生と菊田の最後のやり取りを、一言一句、正確に彗悟に伝えた。
「鈴木先生が、去っていく菊田くんに言ったの。『今の突き、お前、本気で避けたな?』って」
「……だから何だよ」
彗悟の声は、乾いていた。
「避けられたんだから、俺の負けだろ。本気だろうが、なんだろうが、関係ない」
「違う!」
栞奈の魂の叫びが、公園の空気を震わせた。彼女は、彗悟の目の前に回り込み、その目に映る絶望を、真正面から見据えた。
「意味が分からないの!?菊田くんは、この部の誰よりも強い。普通の上級生が相手なら、彼はもっと余裕で、涼しい顔で対処できる。でも、あなたの突きは、彼に『本気』を出させたの!あの菊田 空に、一瞬でも『ヤバい』と思わせたのよ!それって、どれだけ凄いことか、あなたには分からない!?」
その言葉が、彗悟の心の奥底に、ようやく届いた。
(俺の一撃が…あの菊田に…本気で…?)
絶望で灰色に染まっていた彼の心に、ぽっと、小さな火が灯る。 それは、喜びではない。誇りでもない。 もっと、どす黒くて、熱い感情。
「…………悔しい」
彗悟の口から、無意識に、その言葉が漏れた。 完膚なきまでに負けたことじゃない。自分の渾身の一撃が、あと少しで、ほんの数ミリで、あの絶対的な天才に届いていたかもしれないという事実が、どうしようもなく、悔しい。
その言葉を聞いた栞奈の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
彼女は立ち上がると、夜の闇が迫る空を見上げた。そして、静かに、しかし、全ての未来を委ねるように、問いかけた。
「明日、朝練、来る?」
その問いに、彗悟はまだ答えられない。 ただ、自分の右の拳を、じっと見つめている。 先ほどまで、敗北の象徴でしかなかったはずのその拳が、今は、確かな熱を帯びているように感じられた。