第16話 たった一度の、一本勝負
「……何をしている?」
主将・竹村の低く静かな声が、一触即発の空気に響き渡った。 菊田 空は、竹村と、その隣に立つ顧問の鈴木先生を前にしても、一歩も引かなかった。
「キャプテン、鈴木先生。青野が本当に試合に出る価値があるのか、俺がここで証明します。一本勝負です」
「無茶です!今の彗悟では…!」
栞奈が必死に止めようとする。道場の誰もが、菊田の正しさと、彗悟の無謀さを感じていた。
鈴木先生が、面白そうに竹村に目配せした。
「どうする、キャプテン」と、その目が語っている。
決断を下したのは、竹村だった。
「…いいだろう。やれ」
道場に、緊張が走る。 「ただし」と、竹村は続けた。
「これは遊びじゃない。公式ルールに準じた、正式な一本勝負だ。俺が審判をする。二人とも、防具を着けろ」
そして、彼は全員に聞こえるように、ルールを宣言した。
「いいか、ルールは一本勝負。技の種類を問わず、先にポイントを先取した方が勝ちとする。分かったな!」
その言葉は、この勝負が、言い訳の効かない真剣なものであることを、全員に理解させた。
メンホー(頭部プロテクター)、胴プロテクター、拳サポーター。 菊田は、黙々と、一切の無駄なく、慣れた手つきで防具を着けていく。その姿は、これから「戦場」に向かう兵士のように、冷静で、研ぎ澄まされている。
一方の彗悟は、震える手で、慣れないメンホーの紐を結んでいた。恐怖とプレッシャーで、呼吸が浅くなっているのが自分でも分かった。
そんな彼の元に、栞奈が駆け寄った。そして、一言だけ、作戦を告げる。
「いい?何も考えないで。駆け引きも、防御も、全て捨てなさい。あなたがやることは、たった一つ。開始の合図と同時に、今までで最速、最高の一撃を放つこと。それだけよ」
二人が、道場の中央で向かい合う。 審判として立った竹村の、鋭い声が響いた。
「始め!」
瞬間、彗悟の頭の中から、恐怖も、プレッシャーも、全てが消えた。
栞奈の言葉だけが、反響していた。
やることは、一つ。
彼の身体が爆ぜる。
特訓で掴みかけた、腰の回転を乗せた、渾身の追い突き。
白い閃光と化した彗悟が、菊田との絶望的な間合いを、一瞬でゼロにした。
道場の誰もが、そのあまりに速く、鋭い奇襲に「まさか!」と息を呑んだ。
しかし、菊田は、その全てを読んでいた。
彼は、後退も防御もしない。ただ、最小限の体捌きで、コマのように半身を回転させ、彗悟の突きをミリ単位でかわす。 彗悟の拳は、菊田の頬のすぐ横を、空気を裂きながら通り過ぎていった。
渾身の一撃を空振りさせられ、彗悟の体勢は大きく崩れ、がら空きの胴体を晒してしまう。
その、コンマ数秒の隙。 菊田は見逃さなかった。
彼の、完璧なフォームから放たれたカウンターの逆突きが、彗悟の胴プロテクターに、重い衝撃音と共に突き刺さる。
ドスッ!
「ぐっ…!」
衝撃に、彗悟の肺から全ての空気が絞り出された。
「止め!」 竹村の鋭い声が響く。
「菊田、中段突き!有効!」
そして、一拍の後。
「それまで!勝者、菊田!」
勝負は、ほんの数秒で決した。 彗悟は、プロテクター越しの痛みに、その場に膝から崩れ落ちる。圧倒的な実力差。手も足も出なかったという、絶望感に、目の前が暗くなった。
菊田は、そんな彗悟を冷たく見下ろし、
「これが、現実だ。お前は、まだ土俵にすら上がっていない」
と言い残し、背を向けた。
誰もが、菊田の完勝に沈黙する中。 それまで黙って見ていた鈴木先生が、初めて口を開いた。 彼は、去ろうとする菊田の背中に、問いかけた。
「おい、菊田」
菊田が、足を止める。
「今の突き、お前、本気で避けたな?」
鈴木先生のその何気ない一言に、菊田の肩が、わずかにピクリと動いた。道場の栞奈や竹村が、その言葉の本当の意味に気づき、ハッとした表情で膝をつく彗悟を見る。 菊田は、何も答えず、そのまま道場を去っていった。
彗悟は、敗北の痛みの中で、その言葉の意味をまだ理解できずにいた。 しかし、読者だけは気づいている。
――彗悟の渾身の一撃は、この部の絶対的エースに、「本気」を出させていたのだ、と。