第15話 最初の組手、最初の壁
特訓開始から十日が過ぎ、練習試合まで、残すはあと四日。 早朝の道場には、彗悟の放つ追い突きが、空気を切り裂く鋭い音を立てていた。あの日、栞奈に見出された「才能」は、反復練習によって、ようやく「技術」の輪郭を帯び始めていた。
「形は身体に染み付いたようね」
打ち込み練習を終えた彗悟に、栞奈は静かに告げた。
「でも、今のあなたの突きは、まだただの置き物。魂が入っていない」
「魂…?」
「そう。今日からは、第二段階よ」
栞奈は、初めて彗悟と真っ直ぐに向かい合い、すっと組手の構えを取った。その全身から放たれる気迫に、彗悟は思わず息を呑む。
「ルールは一本勝負。あなたのその追い突きを、私に当ててみなさい」
これが、青野彗悟にとって、人生で初めての「組手」だった。 彼は、これまでの練習で最高の一本を叩き込むべく、集中力を高め、そして踏み込んだ。 研ぎ澄まされたはずの一撃。だが、その拳は、むなしく空を切った。
「!?」
栞奈が、まるで風にそよぐ柳のように、最小限のステップで彼の攻撃範囲から消えていた。 もう一度。さらに速く。 しかし、またしても、彼女の身体は、彗悟の拳が到達する数センチ先に、ふわりと移動している。
「な…なんで…」
汗だくになり、肩で息をする彗悟に、栞奈は静かに言った。
「あなたの目、肩、腰…全部が『今から突きます』って、私に教えてくれているのよ。スピードがあっても、タイミングを読まれたら、絶対に当たらない」
スピードだけでは越えられない、「間合い」と「タイミング」という、見えない壁。彗悟は、その巨大さを、初めて思い知った。
その日の放課後。
全体練習が始まる前の武道場で、彗悟と栞奈が早朝の続きの自主練をしていると、そこに、苛立ちを隠さない影が近づいてきた。
「くだらない」
声の主は、菊田 空だった。
彼は、栞奈に詰め寄った。
「水野。いつまでそんなお遊びに付き合っているつもりだ。王城との試合は今週末だぞ。お前ほどの選手が、あんな素人の練習に付き合うのは、部全体の士気に関わる」
「これは遊びじゃない。彼は、確実に――」
栞奈の言葉を、菊田は手で制した。そして、その侮蔑に満ちた視線を、彗悟へと向けた。
「おい、青野。お前、自分が試合に出られるとでも思ってるのか?その、まぐれで覚えた突き一つで」
彗悟は、何も言い返せない。事実、今の自分は、栞奈に一撃も当てられないのだから。 菊田は、挑発するように続ける。
「…いいだろう。そんなにその技に自信があるなら、俺が試してやる。ここで、俺と一本勝負だ」
「!」
息を呑む彗悟と栞奈。一年生エースからの、あまりに一方的で、残酷な挑戦状。
「やめなさい、菊田くん!今の彼が、あなたに敵うわけ…!」
栞奈が、二人の間に割って入ろうとした、その時だった。
ガラッ!
道場の引き戸が、勢いよく開かれた。 入り口には、腕を組んだ主将の竹村と、飄々とした表情の顧問・鈴木先生が立っていた。 二人は、道場に渦巻く、ただならぬ緊張感を、静かに見つめている。
「……何をしている?」
竹村の、低く、静かな声が、一触即発の空気に響き渡った。