第13話 反復と、一ミリの前進
地獄のルーティンが始まって、四日が過ぎた。
午前五時、鳴り響くアラームで叩き起こされ、夜の闇が残る道を、重い足取りで学校へ。 夜明け前の冷たい武道場で、栞奈との一対一の特訓が始まる。ひたすら続く、単調で、過酷な反復練習。
午前八時半、授業開始。彗悟の意識は、寝不足と全身を覆う筋肉痛で、ほとんど机の上に溶けている。
午後四時、放課後。休む間もなく、空手部の全体練習に参加。慣れない基本稽古と、先輩たちとの実力差に、体力も精神も削られていく。
そんな空手漬けの日々の中で、彗悟の心は、ゆっくりと、しかし確実に摩耗していた。
「腰が回っていない。手打ちになってる」
「今の踏み込み、ただのジャンプに戻ってるわよ」
「集中力が切れてる!」
早朝の道場。栞奈からの、的確だが一切の容赦がない指摘が、彗悟の耳に突き刺さる。 何度打ち込みを試みても、彼の才能と技術は、水と油のように反発し合う。
スピードを出そうとすれば、動きはただの跳躍に戻り、栞奈の喉元に届く拳は、そっと触れるだけの無力なものになる。形を意識すれば、自慢のスピードが完全に死に、もはやただの不格好な突進にしかならない。
「くそっ…!」
午後の全体練習。基本の移動稽古で、彗悟は一人だけテンポが合わず、動きもぎこちなかった。 その姿を見た菊田 空が、近くにいた部員に、しかし彗悟の耳にもはっきりと届く声で、こう吐き捨てた。
「見てみろ。あれがキャプテンの『賭け』だそうだ。笑わせてくれる」
その言葉が、追い打ちをかけた。 全体練習が終わり、一人、帰り支度をする彗悟の肩に、疲労と、上達しない焦りと、菊田からの侮蔑が、重くのしかかる。 (…やっぱり、無理なんだ) 柄にもなく努力なんてしてみたが、結局は無駄だった。明日、栞奈に「もうやめる」と告げよう。そう、心が決まりかけた、その時だった。
「よう」 背後から声をかけられ、振り返ると、竹村主将が立っていた。 何か叱責されるのかと、彗悟は思わず身構える。だが、竹村はただ、自販機で買ってきたらしいスポーツドリンクを一本、無言で彼に差し出した。
そして、誰もいなくなった道場の方を見ながら、ぽつりと一言だけ言った。
「水野の奴、お前が来るずっと前から、毎日ああやって朝練してたぞ。たった一人でな」
それだけ言うと、竹村は「じゃあな」と、大きな背中を向けて去っていった。 叱咤激励ではない。ただの事実。 だがその一言が、彗悟の胸に深く突き刺さった。
自分を追い込むあの厳しい特訓は、彼女にとっては日常なのだ。自分一人のためにやっているのではない。彼女は、ずっと前から、たった一人で、あの孤独な戦いを続けていたのだ。
特訓開始から、ちょうど一週間が経った朝。 彗悟の表情には、以前の苛立ちとは違う、どこか吹っ切れたような、覚悟にも似た色が浮かんでいた。
打ち込み。 やはり、まだうまくいかない。栞奈の喉元を捉えた拳は弱く、体勢も崩れる。
「くそっ」と顔を歪める彗悟。
だが、それを受けていた栞奈だけが、気づいていた。
(今のは…!)
今、彗悟が放った踏み込み。 それは、ただの跳躍ではなかった。無意識のうちに、彼の跳躍に、空手の踏み込みで最も重要な「腰の回転」が、ほんのわずかに加わっていた。 その結果、突きの威力はまだ皆無だったが、相手に到達するまでのスピードと軌道の鋭さが、昨日までとは比較にならないほど、洗練されていた。
彗悟本人は、その重大な一歩に、全く気づいていない。 栞奈は、内心の驚愕を表情に出さず、いつものように厳しい口調で、しかし、ほんの少しだけ早く、次の号令をかけた。
「まだよ。もう一本」
彼女の心の中には、確かな手応えが生まれていた。 その声には、彗悟には聞こえない、かすかな希望が響いていた。
(…間に合うかもしれない…!)