第12話 たった一つの武器
翌日、まだ夜が明けきらない早朝。 けたたましいアラームに無理やり叩き起こされた青野彗悟は、眠い目をこすりながら星流高校の校門の前に立っていた。 そこに、すでにジャージ姿で走り込みを終えたらしい水野栞奈が、吐く息を白くさせながら現れた。
「遅い。時間は有限なのよ」
その声と表情は、昨日までの同級生のものではない。完全に、一切の妥協を許さない「鬼コーチ」のそれだった。
誰のいない、静まり返った武道場。その中央で、栞奈は彗悟に向き直った。
「まず、作戦会議から始める」
彼女は、容赦ない言葉で、彗悟の現状を分析し始めた。
「はっきり言うけど、二週間であなたが空手家になるのは不可能。受けも、蹴りも、駆け引きも、全てがゼロ。今のあなたが試合に出れば、10秒で完膚なきまでに叩きのめされる」
彗悟が思わず顔をしかめるが、栞奈は構わず続ける。
「でも、あなたには誰にも真似できないものが一つだけある。予備動作ゼロからの、爆発的な踏み込みスピード。――だから、私たちがこれから二週間でやることは、たった一つ」
彼女は、きっぱりと言い切った。
「その踏み込みを活かした、超遠距離からの『追い突き』。ただそれだけを、試合で使えるレベルにまで磨き上げる」
相手が反応する前に、一撃だけ叩き込んでポイントを奪う。防御も再攻撃も考えない、一点突破の奇襲戦法。それが、栞奈が出した答えだった。
「…分かったら、これを着けて」
栞奈は、そう言って、一組の防具を彗悟に放り投げた。赤色の、拳を覆うサポーター、通称「拳サポ」だ。
「…なに、これ?」
「あなたの拳を守るため。そして、万が一の時に、私を守るためよ」
彗悟は、戸惑いながらも、その分厚いサポーターに手を通した。拳を握ると、グローブとは違う、素手に近いが、しかし守られている不思議な感覚があった。
「いくわよ」 栞奈の指導が始まった。だが、それは突きの練習ではなかった。
「まずは、あなたの『才能』と、空手の『技術』を繋げる」
彼女は、彗悟に何も考えずに跳躍させ、次に、空手の正しい「踏み込み」の形を見せた。そして、ひたすら地味な足捌きの反復練習を、彗悟に課した。
練習の終盤。
彗悟の足が、疲労でガクガクになり始めた頃、栞奈は言った。
「じゃあ、今度はそれを、実際の突きに繋げる」
彼女はミットを構えない。ただ、道場の真ん中に、どっしりとした前屈立ちで構える。 そして、自分の首筋を、指でとんと叩いた。
「私の喉元を狙って。本気で来なさい」
「…は?いや、でも…冗談だろ…?」
「冗談で、早朝からこんなことしない」
生身の、しかも人体の急所である喉に、本気で打ち込めという。彗悟は、完全にたじろいだ。 だが、栞奈の瞳は、一切の躊躇も許さない、真剣な光を宿していた。 覚悟を決め、彗悟は教わったばかりの足捌きと、まだ形も覚えていない突きを、同時に行おうとした。
結果は、惨憺たるものだった。 足に意識を向ければ、突きの威力が死ぬ。突こうとすれば、足がおろそかになり、自慢のスピードが完全に消える。彼の身体の中で、才能と技術が、不協和音を奏でて互いを打ち消し合ってしまう。 何度目かの挑戦で、ようやく栞奈の目前までたどり着いた彗悟の拳は、しかし、彼女の喉元に吸い込まれる寸前で、恐怖と戸惑いから力が抜けてしまった。
汗だくになった彗悟は、ついに膝に手をつき、叫んだ。
「無理だ!考えれば考えるほど、跳べなくなる!それに、人に、しかも女子の喉に本気でなんて、殴れるわけないだろ!」
それに対し、栞奈は、汗ひとつかいていない涼しい顔で、しかし一切の同情もせず、こう言い放った。
「当たり前でしょ。それができたら、誰も苦労しない」 彼女は、続ける。 「それに、私を女子だと思うなら、その拳サポを外して、素手で私を倒してみなさい。――できないでしょう?」
その言葉に、彗悟は息を呑んだ。目の前に立つ少女は、自分が守らなければいけないような、か弱い存在などでは全くない。自分など、赤子同然にあしらえる、孤高の実力者なのだ。
「残り、13日。できるようになるまで、やるだけよ」
栞奈の揺るぎない瞳が、この特訓の過酷さと、そして、目の前の指導者との圧倒的な実力差を、彗悟に容赦なく叩きつけていた。