第1話 彗星の如く
冬休みの喧騒が満ちるユニバーサル・スタジオ・ジャパン。その一角、古びた漁村を模したアミティ・ビレッジは、これから始まる恐怖体験への期待と興奮で、ひときわ高い熱気を帯びていた。
「うわ、ギリギリやったな!間に合ってよかったー!」
ボートツアーの乗船口に滑り込んだのは、当時中学三年生の空手少女、水野栞奈とその友人だった。 船がゆっくりと岸を離れ始めた、その瞬間だった。
「すんませーん!乗りまーす!」
間延びした声とともに、桟橋の向こうから人影が猛然とダッシュしてくる。黒いダウンジャケットを着た、青い髪の青年だ。 船長の制止の声も耳に入っていないのだろう。青年は、桟橋の縁を力強く踏み切った。
次の瞬間、栞奈は息を呑んだ。
人間が、飛んだのだ。岸と船の間には、すでに絶望的とも言える距離が生まれていた。
しかし、それは栞奈の目には単なる跳躍には映らなかった。
――遠間からの、追い突き。
(違う…ただの跳躍じゃない。常人なら必ずあるはずの、膝を曲げ、腕を振る『タメ』が一切ない。地面を蹴った力が、ロスなく一直線に前方への推進力に変換されている。これは…武道で言うところの『居着かない』動き。まさしく、理想の…)
予備動作のない、完璧な踏み込みから生み出された推進力。空手における、最も速く、最も遠くに届く突き。その究極の形が、今、眼前にあった。
身体が勝手に動いていた。 迫り来る脅威に対し、栞奈は咄嗟に身体をのけぞらせ、差し伸べられた青年の手を、受け流すように鋭く払いのけた。
パシン、と乾いた音が響く。
「うおっ!?」
体勢を崩した青年は、無様に水しぶきを上げて池へと落下した。
船内は大きな笑いに包まれる。しかし、栞奈だけは笑えなかった。
(今のは…何…?)
全身の鳥肌が収まらない。水の中から「さっむ!」と叫びながら頭を出した青年は、人の良さそうな顔でへらへらと笑っている。その姿は、先ほど自分が感じた圧倒的な強者のイメージとは、あまりにもかけ離れていた。
栞奈の脳裏に、あの恐るべき「追い突き」の残像が、彗星の如く、焼き付いて離れなかった。
***
季節は巡り、春。 あの衝撃を追い求め、栞奈は三重の地を踏んだ。 全国でも屈指の強豪として知られる、三重県立星流高等学校。その空手部に入部するため、親元を離れてきたのだ。
入部初日、栞奈は武道場の空気に圧倒されていた。 張り詰めた静寂を切り裂くように、気迫のこもった「押忍!」の声が響き渡る。数十人の部員が寸分の乱れなく基本稽古を繰り返す。主将らしき巨漢の生徒がミットに放つ中段蹴りは、まるで爆発のような轟音を立てていた。滋賀で自分が通っていた道場も強かったが、レベルが、密度が、まるで違う。
(すごい…ここなら、もっと強くなれる)
身が引き締まる思いで練習に打ち込む栞奈。しかし、その頭の片隅には、常にあの冬の日の光景があった。
(あの人は、一体誰だったんだろう…)
あれ以来、一度も会うことはない。幻だったのだろうか。そんな思いが、ふと心をよぎる。
一方その頃。 青野 彗悟の高校生活は、特に大きな目的もなく始まっていた。
「なあ彗悟、今日の放課後どうする?カラオケでも行くか?」
「んー、宿題多いし、今日は帰るわ」
教室で、中学からの友人たちと気の抜けた会話を交わす。彼がこの星流高校を選んだ理由は、ただ「家から一番近いから」。部活に入る気もさらさらない。面倒なことは、ごめんだ。 彗悟にとって、世界とは自分の半径数キロメートルにある、のどかな田舎町と、気の合う仲間たちがいれば完結するものだった。 冬休みにUSJで池に落ちたことも、仲間内では笑い話としてとうに消化され、彼自身は思い出すことすらなかった。
***
数日が過ぎた、昼休み。 春の柔らかな日差しが降り注ぐ中庭で、栞奈はクラスの女子たちとおにぎりを頬張っていた。その時、一角から「あーっ!」という声が上がった。見れば、数人の男子生徒が一本の木を見上げている。ふざけて投げたバドミントンのシャトルが、かなり高い枝に引っかかってしまったらしい。
「どうすんだよ、アレ」
「棒とかじゃ届かねえぞ」
困り果てている男子たち。その中の一人が、のんびりとした口調で言った。
「しゃーねえな。よっと」
声の主――青野 彗悟は、軽く屈伸を一つすると、その場からふわりと跳んだ。 助走もなしに。
栞奈は、見てしまった。地面を蹴った彗悟の身体が、まるでスローモーションのように宙を舞い、枝のシャトルを掴むと、猫のようにしなやかに、音もなく着地した。
「おー、さんきゅー」
「彗悟、相変わらずバケモンだな、お前」
友人たちは大して驚きもせず、悠真からシャトルを受け取る。 栞奈は息が止まった。心臓を鷲掴みにされるような衝撃。
(……見つけた)
おにぎりを持ったまま、栞奈は動けなかった。
放課後。栞奈は悠真のクラスの前を、わざとゆっくりと通り過ぎてみた。教室から友人たちと出てくる彼を見つけ、気づかれないように少し距離を置いて後を追う。
昇降口に向かう途中、彗悟の友人の一人が、後ろからふざけて彼の首に腕を回した。
「捕まえた!」
「うおっ、なにすんだよ!」
栞奈は、足を止めた。 不意を突かれた悠真の反応は、武道をかじった者から見れば、あまりにも無防備だった。
(……素人だ)
栞奈は瞬時に断定した。 バランスを崩され、体勢を立て直そうとする動きに軸がない。拘束から逃れようと振り回す腕は、力任せなだけで軌道がめちゃくちゃだ。友人から解放された後、笑いながら相手の肩を軽く叩いた拳も、握りが甘く、手首が固定されていない「猫パンチ」そのものだった。
もし彼が少しでも武道の心得があるならば、不意打ちに対してまず重心を落とすはずだ。そして何より、あんな隙だらけの拳は作らない。 間違いない。彼は、喧嘩すらしたことのない、完全な素人だ。
栞奈の心に、戦慄にも似た感情が走った。 あの、武道の極致とも言える「追い突き」のような跳躍力。 そして今、目の前にある、赤子同然の無防備さ。
一人の人間の中に、どうしてこの二つが同居しているのか。 型の選手として、理想の身体操作を求め、一つの動きを何万回、何十万回と反復してきた栞奈にとって、それは冒涜的ですらあった。
血の滲むような努力の果てに、ようやく掴めるかどうかという究極の動きを、この男は生まれながらに、無自覚に、遊びの中でやってのけている。
磨かれていない、どころではない。彼は、自分がどれほどの宝をその身に宿しているのか、全く気づいてすらいないのだ。
(私が、見つけなければ)
それは使命感に近い感情だった。 彼の中に眠る、規格外の才能。それを引き出し、正しく導くことのできる人間がいるとすれば、それは自分しかいない。
「青野 彗悟くん…」
栞奈は、彼の名前を小さく呟いた。その瞳には、もはや単なる好奇心ではない、決意の光が強く宿っていた。