第3話 陽葵の記憶(後編)父の罪、わたしの罰
冷たい石畳の上を、裸足のまま歩かされていた。
音を立てるたびに足の裏にヒリつく痛みが走る。けれど、陽葵は顔を上げることができなかった。
目の前には、暗くて大きな…空間というよりも、
それ自体が「意思を持つ闇」のような広間があった。
中に座していたのは、一目で“それ”と分かる存在。
――閻魔大王。
圧倒的な体躯。
視線すら向けられていないのに、ただ座っているだけで、
その場の空気は凍り、背筋が震える。
「……望月陽葵。」
地鳴りのような声が響いた。
陽葵は小さくビクリと震え、声も出せずにぺこりと頭を下げる。
本当は「はい」と返事をしたかった。でも、喉が凍りついて、声が出なかった。
閻魔は、巨大な帳簿のようなものをめくると、ゆっくりと読み上げ始めた。
「善行:近所の猫に餌を与えた回数、五十四回。
母のためにお手伝いを頑張った、二十六回。
知らぬ誰かの落とし物を届けたこと、一回。」
細かすぎるほどの記録。
誰も見ていないはずの行動が、すべて記録されている。
「…………」
陽葵の目に、涙が溜まった。
認められたことのない優しさが、誰かに見られていたと知って、心が少しだけ揺らいだ。
だが、閻魔はそのまま、無情に罪を読み上げる。
「――お前の父、望月恭一。
生前において、少年少女あわせて十名を惨殺した、極刑に値する大罪人。
その業、計り知れず。
よって、その魂は地獄に堕とされた。
だがその罪、その業の深さゆえに、
息子でも娘でも、生を受けた者が無傷でいられると――
地獄は考えない。
血は継がれ、記憶は繋がり、業は流れ込む。
罪の重さがあまりに大きい時、
それは家族という器にまで、滲み出す。
よって望月陽葵――
父の罪を、ほんの一部でも受け継ぐ者として、
汝を地獄へと堕とす。」
「……そんな……」
小さな声が漏れる。
陽葵は震える足で前に進んだ。
閻魔の足元に膝をつく。
首が自然に下がってしまう。
まるで巨大な獣の前に、無力な小動物がいるかのようだった。
「言い残すことはあるか」
――誰か助けて。
その言葉は、陽葵の喉から出なかった。
脳裏に、教室の光景が浮かんだからだ。
机に「死ね」と書かれても、助けを求めても、「自分で解決しなさい」と笑った先生の顔。
布団にくるまって、一度もこちらを向いてくれなかった、母の背中。
助けてと叫んでも、誰も助けてはくれなかった。
なら、ここでもきっと同じだ。
「……いえ」
ぽつりと答えたその声は、あまりにも小さく、
しかし、諦めに満ちていた。
「ならば――裁きを下す」
閻魔が手を上げた瞬間、空間が真紅に染まり、
地面に、無数の針のような道が浮かび上がる。
「地獄行き、決定」
その瞬間、陽葵の足元が崩れ、
彼女は沈んでいく。
ただ静かに、光のない深淵へ。
最後に見えたのは、閻魔の顔でも、救いの手でもなかった。
自分の小さな手。
誰も掴んでくれなかった、小さなその手だった。
「やっぱり……私は……
死んでも、誰も……助けてくれないんだね……」
目を閉じたその瞼から、最後の涙が落ちた。
――そして、陽葵は地獄に堕ちた。