第2話 陽葵の記憶(前編)父の罪、わたしの罰
——かつて、望月陽葵は幸せを知っていた。
家は小さなアパートだったけれど、父と母がいて、毎日ごはんを囲んで笑っていた。 父は工事現場で働き、帰ってくると、陽葵を高く持ち上げて「ただいま」と笑った。 母は小さなパン屋さんでパートをしていて、夜には焼きたてのパンの匂いをまとって帰ってきた。
陽葵はそんな二人が大好きだった。
小さなリビングで、三人で笑いながらテレビを見る時間。 父が眠ってしまった後、母の膝に頭を乗せて本を読んでもらった時間。
それは、何よりも温かくて、何よりも当たり前に続くと思っていた日常。
まだ、地獄を知らなかった頃。
それでも、この世界は十分すぎるほど冷たくて、苦しかった。
望月陽葵、12歳。
彼女は今、誰にも気づかれずに、ただ息をしていた。
──ごはん、なに食べたっけ。
ガスも止まり、水も止まった団地の一室。
照明は切れかけの蛍光灯が、じじ…っと音を立てている。
机の上には、学校の給食で配られたパンがひとつ。
昨日の残り。
冷えたままのそれを、陽葵はぎゅっと胸に抱きしめた。
かつては、父も母も、笑っていた。
誕生日にはケーキがあって、3人で手をつないで歩いた。
映画を見て、海にも行った。
──あの頃の、あたしは。
あたしは、きっと幸せだった。
けれど——それは、ある日突然、壊れた。
「……殺したって、本当なの?」
家の外で聞こえた言葉に、陽葵は耳を疑った。
朝、学校へ行こうと玄関を開けたときだった。 近所のおばさんたちがひそひそと話している。
「望月さんの旦那さん、昨日……男の子を襲ったって……」 「しかも10人以上、子どもを殺してたって……同じくらいの年頃の……」 「優しそうに見えてたのに……信じられない……」
陽葵の世界が、音を失った。
報道は、すぐに全国へ広がった。
『連続児童殺害事件』—— 犯人は、望月陽葵の父。
家では優しく、温厚だった父が、 裏では、陽葵と同じくらいの年齢の少年少女を次々に殺していた。
10人の命が、残酷に奪われ。 11人目の少年が奇跡的に逃げ出し、警察に保護されたことで事件が発覚した。
その日から、陽葵の“日常”は、地獄に変わった。
学校の友達が急に冷たくなった。
「……人殺しの娘」
誰かが、そう囁いた。
ランドセルをぶつけられた。 机の上に、消しゴムのカスが積まれていた。 靴箱には、靴がなかった。
学校では、誰も陽葵の名前を呼ばなくなった。
ランドセルを机に置いた瞬間、机が蹴り飛ばされた。
「おまえの親父、人殺しなんだってな!」
「同じ血が流れてるんだよな、気持ちわる!」
「触んなよ、バイ菌!」
誰かが笑うたびに、陽葵は身体を小さくした。
机の落書きには「死ね」の文字が並び、
教科書には「サツジンシャの娘」と書かれていた。
「大丈夫よ、望月さん。先生は、あなたがお父さんと違うってちゃんと分かってるからね」
担任はそう言って優しく微笑んだ。だが、その目は全く笑っていなかった。
「だからこそ、周りの子とのことくらい、自分で解決できるようにならなくちゃ。あなたなら、できるわよね?」
そう笑った担任の目は、明らかに距離を置いていた。
母は泣いていた。 仕事をやめて、部屋にこもるようになった。 陽葵に笑いかけることすら、少なくなっていった。
そして——
「……なんで……どうして……?」
陽葵は、ひとり呟いた。
昨日まで、笑っていた家族が。 当たり前だった日常が。 全部、嘘みたいに消えてしまった。
それでも、陽葵は母のそばにいようとした。
「……お母さん、今日ね、先生に褒められたんだよ」
返事はない。母は布団の中にこもったまま、背を向けていた。
陽葵は、隠し持っていた給食のパンをそっと枕元に置いた。
「……あのね、今日のパン、お母さんの好きなクリームパンだったから……一緒に、食べない?」
それでも、母は動かなかった。
「……お母さん……?」
何度呼んでも、反応はなかった。
冷たい沈黙だけが、部屋に満ちていた。
冷たい部屋の中で、陽葵は小さく膝を抱えた。
家は静かだった。 音がないのが、怖かった。
母は、次第に陽葵の存在さえも、見なくなった。
「……ごめんなさい、わたしが……わたしが悪い子だったから……」
陽葵は、ただ、自分を責めるしかなかった。
そして——
ある晩、陽葵は初めて死という言葉を心に浮かべた。
「消えちゃいたいな……」
そう呟いた声は、誰にも届かなかった。
それでも、まだ彼女の心のどこかには、 誰かに気づいてほしいという小さな光が残っていた。
……それが、どんなに遠く離れた存在であっても。
でも、ある日すべてが終わった。
夜。
布団の中で、陽葵はぬいぐるみを抱いた。
買ってもらったのは、6歳の頃。
もう綿も抜けかけているが、それだけが今のあたしの友達だった。
「くまちゃん、ごめんね……お腹、すいたね……」
彼女は、最後のパンを二つにちぎり、片方をぬいぐるみの口元に持っていく。
「はい、どうぞ。今日のパン、おいしいよ。……うん、おいしいね」
自分の頬を涙が伝うのも気づかずに、陽葵はそう呟いた。
「……また、明日も……一緒に、食べようね……」
声に出すと、涙が溢れて止まらなくなった。
「……お母さん……」
本当は、生きたかった。
誰かに助けてほしかった。
──だけど、その願いは、誰にも届かなかった。
次の日、陽葵は学校を休んだ。
その次の日も、次の日も。
誰も訪れない団地の部屋で、陽葵は最後の給食のパンをかじり、
それっきり、立ち上がることはなかった。
孤独と飢えのなかで、望月陽葵は、
静かに、誰にも見送られずに、息を引き取った。
彼女はまだ、地獄の苦しみを知らなかった。
けれど、それでもこの世界は、
十分すぎるほどに、地獄だった。