知らえぬ恋
その尼僧が手掛けた花手水は枯れることがないという——。
そんなふうに誉められても静蓮は意に介さず、今日も粛々と花を活けている。
6枚の花弁を染める朱色は、あたかも清廉な心根のようだ。
花弁を転がる雫が、時折、きらり……と光る。
本堂裏手でそのさまを、瞬きすら忘れて見つめる初老の男がいた。いや、見つめていたのは整えられた柳眉と、その下に翳る黒水晶の潤いであろう。
何かの気配を察したのか、ふっと静蓮が顔を上げた。初老の男は慌てて視線を逸らす。だが、一瞬だけ目が合うほうが早かった。
「こちらは初めてですか?」
静蓮は柔らかな物腰でゆっくりと立ち上がり、黒水晶の瞳を向ける。不意を衝かれた男はその若き美貌に鼓動が波打ち、声を上ずらせた。
「あ、はい。SNSでこちらの花手水が美しいと評判で、ぜひ撮らせていただきたいなと……」
目を泳がせ、高級そうなデジタル一眼レフカメラを掲げてみせる。それを映した黒水晶に惑いはない。穏やかな光が揺れるばかりだ。
男はほっと胸を撫で下ろし、白髪交じりの頭を掻いた。
「ご迷惑でしたでしょうか」
「いいえ、とんでもないことにございます。こんなものでよろしければ、お好きなだけお撮りくださいな」
ようやく肩の力を抜いた男は重そうなバッグを下ろし、日焼けした首からぶら下げたカメラを構えた。
「お写真、お好きなのですね?」
「ええ、定年後のささやかな楽しみです。子供たちもみんな独立してしまったので。まぁ、妻には呆れられていますが」
苦笑する男の左手薬指に指輪が見え隠れする。静蓮はふふふと笑った。どこか儚げで懐かしささえ覚える微笑。なんともいえず心地いい。
男は調子に乗って語りかける。
「このお寺には花手水がたくさんあるんですね。みんな尼さまがお手入れなさってるんですか?」
「はい、毎日こうして入れ替えております」
「なるほど。だからこんなに瑞々しいんですね」
言いながら男は夢中でシャッターを切った。美しい。殊にこの花手水は美しいと思った。控えめでいて、なぜか心を惹かれる隻影。山門や賽銭箱のそばに置かれているそれらと比べても、明らかに瀟洒な風情を湛えている。
「本当に綺麗ですね。これはササユリですか?」
「はい、姫百合とも呼ばれています」
「姫百合……。まだ咲いてたんだ。とっくに見頃は過ぎたと思っていましたが」
「たまにこうして、茂みでひっそりと咲いていることがあるんですよ。山百合に比べれば小さくて茎も華奢ですけど、朱色の花びらがつつましくて可愛らしいでしょう?」
「そうですね。そこがまた健気で、可憐さをいっそう際立たせます」
そのときふと、男は疑問に思った。これほどまでに美しい花手水を、なぜ本堂裏という目立たぬ場所に置いているのだろう、と。
それとなく訊いてみる。しかし、なんとなく、という曖昧な答えが返ってきただけで、それ以上を窺い知ることはできなかった。
帰宅した男はその晩、缶ビールを飲みながら、早速撮り溜めた画像を見返した。その中にある花手水の画像は特に念入りに確かめる。もちろん、一番よく撮れている画像をSNSにアップするためだ。
この年齢になって初めてSNSの楽しさを知り、すっかり画像投稿にはまってしまった。妻はもう呆れているようだ。彼女は彼女で社交ダンスサークルのことで頭がいっぱいなのだからお互い様だろう。
妻は出世のために結婚した相手だ。重役の娘であるがゆえ無下にもできなかった。お嬢様気質の我がまま女に、端から愛情などない。
仕事や付き合いで家庭を顧みなかったからか、独立した子供たちはまったく寄り付かずにいる。妻と二人きりの生活は息苦しいことこの上なかった。
「ねぇ、今度の発表会、どの衣装が私に似合うかしら?」
妻が話しかけても男は無視して画像を1枚1枚確認している。彼女は舌打ちしながら寝室に籠ってしまった。
「よし、これだ。これにしよう」
男は1枚の画像を選び、投稿した。フレームの中では、水面に反射する光と相まって、姫百合の朱色の花弁で雫が煌めいている。無数の光の粒が散りばめられた迫力に、次から次へと「いいね」が付いた。称賛だらけのコメント欄は追いきれないほどであり、画像はあっという間に拡散されていった。
承認欲求が満たされた男は上機嫌で缶ビールをぐびぐび飲みつつ、コメント欄をスクロールする。だが下へ行くにつれ、次第に彼の表情が曇り出した。
「なんだ、このコメントは?」
ある一つのコメントをきっかけに、たちまちコメント欄が荒れはじめたのだ。「なにこれ」「こっわ」「きもちわる」などとネガティブな言葉がこれでもかと溢れていく。
そのうちの一つに目が留まった。
「人の顔が……写ってる……だと?」
そこから下は、ほとんどが同じような内容である。
「嘘だ、そんなはずはない」
何度も何度も見直したはずだ。拡大して細部までくまなく確かめた。それこそ穴が開きそうなほど調べたが、人の顔が写っている画像など一つも見当たりはしなかった。
「嘘だ」
自分に言い聞かせるように、おそるおそる投稿画像を再確認する。だが——。
「ひっ……!」
男は息を呑むように悲鳴を上げた。画面を見つめる眼を見開いたまま凍りつく。そこにはまごうことなく、手水鉢に埋め尽くされた姫百合の隙間からこちらを見つめる女の顔が写っていたのだ。
薄気味悪い微笑の中に恨めしげな眼玉がふたつ、ぎょろりと浮かんでいる。見る者を捉えて離さず、今にも底なし沼に引きずり込んでいきそうな、そんな目だ。
ぞくり……背筋に冷たいものが走る。と同時に目が合った。
「ひいぃぃぃぃ!」
声を裏返し叫んだかと思うと、無意識にスマホを放り投げていた。はぁっ、はぁっと息を荒げ、全身をがたがた震わせる。妻は気づいていないようだ。誰もいない広いリビングで、戦慄の息遣いだけがひたすら繰り返されている。
しばしの静寂を経て、男はふっと我に返った。
「いや、待てよ、今の女……」
どこかで見たことがある。そうだ、あの尼僧だ。昼間、この花手水を手入れしていたあの美しい尼僧にそっくりだ。
「くそっ、あの尼! バケモノだったのか!」
恐怖はみるみる怒りへと変わった。酔いも回っていたせいで正常な判断ができなかったのかもしれない。家を飛び出した男は車に乗り込むやいなや、猛スピードであの寺へと向かった。
真っ暗闇の中、寺に到着すると男は真っ先に本堂裏手へ駆けつけた。例の花手水のそばに白い影がぼうっと立っている。あの尼僧だ。そう直感した。
「おまえ、俺をたばかったな!」
怒りにまかせて尼僧に駆け寄る。うっすら笑みを湛える顔貌は、画像に写ったそれと瓜二つだ。
「やっぱりおまえか」
男は勢いのままにむんずと尼僧の腕をつかまえた。が、腕を捻り上げてやろうと力を込めた、そのときである。ふわり……男の体が宙に浮いた。
一瞬だ。一瞬の間だというのに頭の中は真っ白になり、気づいたときには目の前に手水鉢の縁があった。
「なにをするんだ! ふざけやがって。警察を呼ぶぞ!」
膝をつき、両手で縁を押さえながら大声でがなり立てる。にもかかわらず、住職らは飛び出してこない。おかしい。寺務所の灯りは点いているではないか。
だが訝る暇も与えずに、尼僧はいきなり男の白髪頭を押さえつけた。
「お、おいっ、なにをっ……」
突然のことに男は抵抗できず、ごぼごぼごぼ……と花手水に顔を沈められてしまった。抗おうにもとてつもない力で押さえつけられ、どうすることもできなかったのだ。
「がはっ……ごほっ……」
なんだこの怪力は。あんなか弱そうな体のどこにこんな力があるというのか。いや、人間の女ではない。これはあやかし、あるいは怪物、バケモノ……。
しかし尼僧の正体を知ったところで、その力が緩むことはない。ごぼごぼごぼごぼ……ごぼぼぼぼ……と容赦なく沈められていく。
——く……苦し……だっ誰かっ、助け……
息苦しさから逃れるように、藁にもすがる思いで目を開ける。すると、そこには水底から見上げる女の顔があった。
——お、おまえは……!
この顔は見たことがある。尼僧にそっくりだが、彼女ではない。この顔は……。
やがて男は力尽きた。
花手水に顔だけ突っ込んだまま動かなくなった体を見つめ、静蓮がそっと微笑む。
「お母さん、やっと一緒になれたわね、お父さんと」
一輪の姫百合を手に取り、水の中をのぞき込む。
「夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ……」
人知れず想いつづけた苦しみは、ともにすることができたであろうか。
翌朝、いつものように花手水を手入れしている静蓮のもとへ警察官がやってきた。
「昨夜の事故なんですが、目撃とかされませんでしたか?」
真夜中に山門前で交通事故があったのだという。飲酒運転の車が猛スピードで電柱に突っ込んだらしい。事故当時、運転席の男はまだ息があり救急搬送されたが、治療の甲斐なく、苦悶の表情を浮かべたまま息を引き取ったとのこと。
不思議なことに発見時、首から上だけがびしょ濡れだったそうだ。
静蓮は憐みの色に染まった黒水晶を伏せ、おっとりと紅い唇を開いた。
「いいえ、まったく」
静蓮が手掛けた花手水は枯れることがない。
なにごともなかったように、人知れず瑞々しい花を咲かせるだけである。
(了)
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【本文中の歌】
「夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ」
<出典> 万葉集 巻八 夏相聞 1500番 大伴坂上郎女
<参考文献>(敬称略)
『萬葉集』鶴久・森山隆編 桜楓社
『万葉集 上巻 「新編国歌大観」準拠版』伊藤博校注 角川文庫