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小説

存在の橋

作者: ちりあくた

 もういつから吊り橋を渡っているだろう。一日は優に過ぎているだろうか。いや、まだ一刻に満たないかもしれない。どのような時間を提示されようと、腑に落ちないかもしれない。一つ言えるのは、歩いていればいずれ渡り切れる、そんな確信があることだけだ。


 吊り橋は赤い鉄骨製だった。塗装の剥がれや劣化により、所々が茶色や黒に変色している。幅は狭く、四人ほど横に並べば、往来を防げてしまうほどだった。周りを見渡しても車や列車の通れる橋はなく、果たして何のためにこの橋があるのか、甚だ疑問に思えていた。


 眼下には海が広がっている。霧のせいで海面は薄灰色にぼやけ、遥か遠くに波打つ音だけが響いている。橋の向こうには対岸が見える。ただ、ぼんやりとした黒い影である。その影を対岸だと言えるのは、そこへ渡るために橋を進んでいるからだろうか。いわば単なる願望で、影の正体は、橋に立ちふさがる怪物だったり、あるいは私の知らない気象現象だったりするやもしれない。

 なんだっていい。あの影が対岸であろうとなかろうと、進めば必ず到達できるのだ。期待外れが足を止める理由にはならないだろう。


 足にはまだ疲労が溜まっていない。体力は欠如しているという自負があるので、出来るなら早めに渡り切ってしまいたい。しかし、相変わらず対岸らしき影は影のままである。まるでもやを掴むように、向こうへ近づけているという実感が湧かない。


 やがて、もう一つの影が見えてきた。それは橋の向こうから一歩ずつ進んでくる、恰幅のいい人影だった。私は腹の底の不安感を解き放つように声をあげた。


「やあご主人、あなたは向こうから来たのですか」


 彼は私を認識すると、右手の杖らしきものをぶんぶんと振って「ええ」と返事をした。


「向こうはいいところですよ」


「どのようにですか。こっちへ来て話しましょう」


「いえ、あなたがこちらに来た方がいい。私は散歩をしていただけなのです。あなたの方へ行く必要はないのですから」


 彼のしゃがれ声が霧に紛れた後、私は息をついて歩み始めた。それにしても、彼は何者なのだろう。対岸がそんなに良い所ならば、なぜわざわざ吊り橋まで引き返してきたのだろう。単なる散歩ということは、案外対岸は近い所にあるのだろうか? そう考えると、希望の芽が出てくるように思えた。


 だが、おかしい。いくら進んでも彼の影は大きくならないのだ。彼は相も変わらず杖を振り続けている。かれこれ一日は経っただろうか? いや、やはり一刻だろうか?


 ふと最悪の可能性が頭をよぎった。彼の存在は幻影で、橋の上には私一人しかいないのではないか。そう思って恐々「ご主人」と声をあげると、何事もないように「どうしました、早く来てください」と返ってくる。それがまた恐ろしく感じられるのだった。


 とうとう我慢ならず、私は禁断の質問をした。


「ご主人、失礼ながら私は疑っているのです。あなたは本当にそこにいるのですか。私の想像が産み出した幻ではないのでしょうか。歩いても歩いても、あなたの元へ辿り着ける気がしないのです」


 すると彼は、杖を振るのをやめて叫ぶ。


「疑っているのは私の方です。あなたが歩いてくる影は見えるのに、まるで近づいてこない。腕が千切れそうなくらいに杖を振っているのに、なぜあなたは来ないのですか」


「向かっているのです。確かに私はあなたの元へ向かっている。何かおかしなことが起こっているに違いありません。霧のせいか、もしくは橋が悪いのか。あなたはどうやってここを渡り切ったのですか。ぜひ教えてください」


「いいえ、全ては正しく有るばかりです。あなたの歩き方が間違っているとしか思えません。私がこの橋を渡った時は、ただ一心に対岸の景色を見つめていました。あなたはそうじゃないのではありませんか」


 私ははっとした。すでに対岸らしき黒い影は、意識の外にあったのだ。今や目的地は彼の元にあった。それは吊り橋を渡る本来の意義とは、全くずれた位置にあった。


「なるほど、私は対岸へ向かうことだけを考えれば良いのですね」


 私は明るい声色で叫んだ。だが、彼は「違います」と嘆くように返事をした。


「それも本質ではありません。あなたが吊り橋を渡ることに目的などないのです。橋は過程であり、手段であり、あなたがここを渡ることは定められているのです」


「定めとは分かっています。それは目的とは違うのですか」


「さあ。事実はどうであれ、あなたの歩みには関係がありません。ただ息を吸うように、瞬きをするように、歩み続けるのです」


 頭に電流が走るような言葉だった。ただ私はぼうっと立ち尽くしていた。


 そうしている間に、男の影は次第に薄れていった。私はそのことに対して一抹の寂しさも感じなかった。何せ、やることは決まっていたのだ。彼が消えまいと、彼の元を通り過ぎることに対して、今の私は何の感慨も抱けないだろう。


 そうして歩いて、歩いて、歩いて行くと、黒い影さえ消えていた。辺りには水平線と、霧に紛れた橋の向こうしか見て取れない。しかし、私は歩いた。そこには意思も目的もなかった。歩くことだけが、私の習性となっていた。


 やがて、対岸へ辿り着いた。振り返ると橋は消えていた。まるで初めからなかったかのように。霧も晴れ、目の前には私の思っていたような楽園が広がっていた。それも幻影だったろうか?


 私は膝から崩れ落ちた。ようやく歩き続けた代償がのしかかって来たのだろうか。まあ、それに対しても感慨はなかった。ただ、当然の褒美がやってきただけであった。

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